表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
母の名、子の名、そして菜の花  作者: 劇団だるい
第一章 菜の花
7/54

秋、回る言葉

 日本語と出会った日から、半年。秋になった。

 今では頭の中で日本語の音が自然に転がるようになっていた。


 図書館。やわらかい日差しが、窓から差し込んでいる。

 菜の花は、いつもの席に座り、日本語の本とノートを広げている。


 足音が聞こえる。木の床の埃が、光の柱の中でふわりと浮く。

「こんにちは、ノア」

「あ、エルドンさん」

「今日は何をやってるんだい?」

 エルドンが、菜の花のノートを覗き込む。


「助詞の使い方を勉強してます」

「助詞?」

「『は』とか『の』とか。たった一文字で、意味が大きく変わるんですね」

 菜の花は前のめりになって説明する。


「大したものだ」

 エルドンが、目を見張る。

「日本語は、私たちにとっては難易度が高い言語なのに」

「そうなんですか?」

「うん、とても」

 エルドンがうなずく。


「具体例のほうが分かりやすいんだが……日本語の言葉遊びを教えよう」

「言葉遊び?」

「そう。『回文』というんだ。特に有名なものは……」

 エルドンは、菜の花の隣に座り、紙を取り出して九つの文字を書いた。


『わたし負けましたわ』


 ——あ、何かある。文字を見た瞬間、菜の花は感じた。


「最初から読んでごらん」

「わ、た、し、ま、け、ま、し、た、わ……」

「では、最後から読んでごらん」

「わ、た、し、ま、け、ま、し、た、わ……」


 もう一度、指で文字をなぞった。

「同じだ」

「ふふふ、面白いだろう?」

「おおお、すごい!」

 菜の花は身を乗り出す。目が、きらきらしている。


 まるで、円だ。菜の花は、そう感じた。

 最初が最後につながる、円の形をしている。


「日本語はこういう遊びをしやすいんだ」

「へー!」

「私たちの言葉にも、こういう遊びはあるけどね。日本語のほうが柔軟だ」

「どういうことですか?」


「これと同じことを、私たちの言葉で言ってごらん」

「私は、あなたに負けました」

「そう。私たちの言葉だと『あなたに』が入ってくる」

「ほんとだ」


「でも、日本語では、『あなたに』を省略しちゃう。言わなくても分かるでしょ、って」

「はい、そこが難しいです……」

 菜の花は、これでなぜ伝わるのだろう、と不思議に思うときがある。


「思い切って省略しても、文章が成立する。だから、回文が作りやすいんだ。実際、『わたし負けましたわ』と言っても、日本語ではさほど不自然ではない」

「なるほど」

 腑に落ちた。


「ちなみに、発音の仕方も逆だ。私たちの言葉では『私』や『あなた』は省略しないよね。その代わりに、弱く短く発音する」

「はい、大切なところだけ、強く発音しますね」

「日本語は、言葉を省略する。でも、残った言葉は一音一音はっきり発音する。わ、た、し、ま、け、ま、し、た、わ、ってね」

「つまり、省略と発音の考え方が真逆なんですね。だから難しく感じる」

 つながった。


「でも、大切なことを相手に伝えたいっていう気持ちは、どちらも一緒なんですね」


 エルドンは、驚いたように菜の花を見つめる。

「……その通り。どう伝えるかの違いだ」

 エルドンは笑った。


「回文って面白いですね。他にもあるんですか?」

「うん、あるよ」

「教えてください!」


「そうだな。日本語には、『駅』という言葉があるんだけど、知ってるかい?」

「はい。鉄の乗り物の発着場ですね」

「駅には人が集まるから、駅の近くは価値が高い。『えきちか』という」

「駅に近いから、駅近」

「それなのに……」

 エルドンは、にやりと笑って、ノートに九文字のひらがなを書いた。


「かちきえた、えきちか」——価値消えた、駅近。


「面白いだろう?」

「なぜ価値が消えたのか……気になります」


 秋の日差しが、図書館の窓から差し込んでいる。

「さあ、どんどん行こう。回文は、その近くに別の回文が出来ることがある」

 エルドンは、ノートに別の文字を書いた。


「えまきえたえきまえ」——エマ消えた駅前。


 菜の花は、笑う。

「エマって誰ですか?」

「さあ?」

 エルドンも笑った。

「そして、これを進化させると……」


「えまきえた みたえきまえ」


「『エマ消えた』『見た、駅前』……会話みたいですね」

「そうだろう?」

「あ……これも主語が省略されてる」

「そう。よく気づいたね!」


 エルドンはさらに続ける。

「別の読み方もある。『みた』を、地名と考えるんだ。三つの田んぼと書いて三田」

「へえ、どんなところですか?」

「分からない。どうやら、ジローという有名な麺屋があるようだ」

「ジロー……」

「ジローでは『マシマシ』という呪文で、何かを増やしていたらしい。日本では、食事も一種の儀式だったのかもしれない」

「神秘的な……麺ですね」

 菜の花には想像もつかない麺だ。


「謎が、『マシマシ』深まります」

「ふむ。ここで『ダジャレ』を出してくるとは、ノアも相当勉強が進んだね」

 エルドンは笑う。


「……ん」

 菜の花は、いま、何かに気づいた気がした。


「エマの消失と神秘の麺には、つながりがあるかもしれません」

「興味深いね。なぜそう考えたのかな?」


 菜の花は、頭の中で言葉を並べる。

「……エマは、そのとき、しましまの服を着ていたのではないかと」

「なぜ?」

 菜の花はノートに書いていく。


「しましまのふくでえまきえた。みたえきまえでくふのましまし」

 ——しましまの服でエマ消えた。三田駅前で食ふのマシマシ。


 静寂。

 背筋が痺れた。指先が震えている。


「……素晴らしい」

「うぇへへへ」


「だが、時代考証が必要だ」

 エルドンは、そこで真剣な顔をした。


「三田駅前にジローがあったのは、日本の歴史上では、かなり後期だ。その頃は、『食ふ』とは書かずに『食う』と書くはずだ」


「……むう」

 悔しい。でも面白い。

 菜の花は手を見る。まだ手が震えている。

「でも楽しい……」

「うん。知的興奮に満ちた時間だったね」

 エルドンはうなずく。


「さて、そろそろ帰る時間ではないかな?」

 エルドンが窓に目をやった。空は茜色に染まり始めていた。


「ああ、そうだ! 母さんのお使い!」

「じゃあ今日はここまでだね」

 菜の花は急いで荷物をまとめる。


「回文に興味が出たかい?」

「はい!」

「じゃあ、単語帳を借りていくといい。反対から読むと面白いよ」

「ありがとうございます」

 エルドンは手早く貸出手続きをしてくれた。


「今日は何を買うんだい?」

「ええと、『その日に最後まで咲いていた朝露草の種』を、ひとつかみだったかな」

「ふむ。面白い素材だね。暗くなる前に行きなさい」

「はい、ありがとうございました!」


 菜の花は図書館を出て、市場へ向かって走り出した。

 手が、まだ震えていた。

読んでいただき、ありがとうございます。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。


本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。

3/29(日)まで毎日20時に更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ