もうひとつのプロローグ
私が彼女と出会ったのは、大学二年の春だった。
三田駅から歩いて五分、古い校舎の言語学科の教室。
窓際の席に、女の子が座っていた。北欧から来た留学生だと、教授が紹介した。
きれいな金色の髪に、瑠璃色の目。肌が透き通るように白い。
まるで妖精みたいだ、と思った。
でも、服装は妖精とは程遠かった。妙にだぶついた、赤と緑のしましまのセーター。どこで買ったのか分からないけど、ちょっと……ダサかった。
「よろしく おねがい します」
たどたどしい日本語で、彼女は自己紹介した。
私には、その笑顔が眩しかった。
私は当時、大学に馴染めずにいた。
言語学科の日本語専攻を選んだのは、なんとなくだった。特にやりたいこともなく、友だちもいない。授業に出て、帰って、寝る。毎日をぼんやり過ごしていた。
でも、彼女が来て、変わった。
「マヤ、一緒にお昼を食べよう!」
いきなり彼女に話しかけられたとき、私は驚いた。他にも学生はたくさんいるのに。
「どうして私なの?」
「マヤの目が、優しいから?」
「……そう?」
「あと、一人でお弁当食べてたから」
「見てたの?」
「うん、ずっと」
「ええ」
ずっと見てたって。でも、彼女の笑顔に、他意はなかった。
彼女は、本当に日本語が好きだった。分からないことがあると、いつも私のところに来て質問をした。簡単なものから、難しいものまで。
「マヤ、なんで洗濯機は『せんたっき』になるの?」
「マヤ、『古池や蛙飛び込む水の音』のカエルは何匹?」
「マヤ、なんで日本神話はローマ神話と似てるの?」
「そんなの知らないよ……」
最初は面倒だった。でも、彼女に聞かれるたびに、調べて、答えた。日本神話とローマ神話に似てるところがあるなんて、知らなかった。
「マヤは、才能あるよ」
「そんなことないよ」
「あるよ。説明が上手い」
「……そう?」
「うん、マヤは先生になるべきだよ」
笑った。先生なんて、考えたこともなかった。
夏のある日、彼女が興奮した顔で教室に来た。
「マヤ! 回文は面白いね!」
「ん?」
「うん、回文!」
彼女は、ノートを広げた。
『わたしまけましたわ』と書かれていた。
「どう?」
「どうって言われても」
「すごいでしょ」
「いや、すごくはないけど」
「すごいよ。日本語は、こういうことがやりやすいんだね」
彼女はすごいすごいといいながら、何度もうなずいていた。
それから、彼女は回文に夢中になった。
自分でも作ろうとして、何度も失敗した。
ある日、彼女はすごい勢いで走ってやってきた。息が切れている。
「マヤ、できた!」
「ん?」
「私の人生初の回文!」
「お、どれどれ」
彼女は、得意げにノートを見せてくれた。
『夜、血散るよ』と書かれていた。
「怖いよ!」
「だよね……これが人生初の回文とは……」
二人で大笑いした。
「まいっか」
「いいのか」
彼女と過ごす時間は、楽しかった。
「何でそんなに日本語が好きなの?」
「日本語って、ものすごく面白いんだよ」
「そうかなあ」
うーん、と彼女は首をかしげた。
「アイ ラヴ ユー マヤ」
「なななな?」
「英語だと、アイとユーは、省略しない。今この場に『私』と『マヤ』がいることが明確でも、省略はしない」
「ああ、そうかも」
「省略はしないけど、分かりきっているから『アイ』と『ユー』は短く、弱くなる」
「ああ、そうかも」
「逆に『ラヴ』は強く言う。アクセントのある『ラ』を長く、強く。結果、『ウラーヴュ』みたいな発音になる」
「そうかも」
「日本語は、『私』とか『あなた』を省略しちゃう。で、『愛してる』とだけいう」
「確かに」
「その代わり、『アイシテル』の五文字は、全部はっきり言う。一音一音同じ長さで、ぱっきり、ぱっきり」
「ふーん」
「つまり」
「つまり?」
「大切なことを伝えたいっていう気持ちは、どの言葉も一緒ってこと」
「面白くない?」
「え、まあ?」
「えええ。こんなに面白いのに」
彼女は頬をふくらませる。
「日本語は、かなり珍しい言語なんだよ。他に、一音一音パキパキしゃべるのは、ハワイの言葉かな。私は、ハワイ語も好きだよ。アロハ、マハロ。あと、ハノハノも好き」
「なにそれ?」
「輝かしい」
「ふーん」
「もっと面白がってよう」
「あははは、面白いよ」
面白いな。確かにそう思った。
彼女は、食いしん坊だった。
夜になると、ラーメンを食べにいこうとねだる。
「マヤ、ラーメン食べにいこう」
「また? 昨日も食べたよ」
「ラーメンは、毎日食べても飽きないよ」
「飽きるよ」
三田駅の近くに、小さなラーメン屋があった。
彼女のお気に入りの店だ。
そのラーメン屋は、その日も空いていた。
感染症が流行ってから、通学も、通勤も減った。
駅前から人が減り、駅近の価値が下がった。彼女は「価値消えた駅近」という回文を作って、悲しそうにしていた。
店主は無愛想なおじさんだった。
「おじさん、今日もマシマシで」
「……ああ」
「おじさんのラーメン、おいしいよ」
「……そうかい」
おじさんは、ぶっきらぼうに答えた。
「ふんふふーん」
彼女は、何か歌っている。きれいな声だ。
そんなにおいしいのだろうか。
何度も通ううちに、おじさんは笑顔が増えた。
「今日も来たのか」
「うん、おじさんのラーメン食べないと一日が終わらないよ」
「大げさだな」
「本当だよ」
ある日、おじさんが言った。
「嬢ちゃんが来るようになってから、店が明るくなった」
「そう?」
彼女は、にっこり笑った。
「おじさんのラーメンがおいしいからだよ」
「……そうかもな」
「ふんふふーん」
彼女は、また歌っていた。
「それ、何?」
私は尋ねた。
「ラーメンの夜唄」
「なにそれ」
「……よく聞くよ。夜唄うたうよ。遠い音」
「なにそれ、回文?」
「うん、俳句型回文。いいでしょ」
「うん。きれいだね」
ラーメン屋の夜に、歌声が響いた。
三年生の春休み、彼女が富山に行こうと言い出した。
「富山?」
「うん、思いついちゃった」
「思いついちゃったのか……」
それなら仕方ない。彼女は、そういうところがある。
「いいよ。行こう」
「やった!」
私たちは、新幹線に乗って、富山に出かけた。
「で、富山で何するの?」
「え? さあ」
「さあって」
「私は、マヤと富山に行ければいいから」
「えええ……」
「本日も北陸新幹線をご利用くださいまして、誠にありがとうございます……次は富山に停まります」
車内アナウンスが聞こえた。
「もうすぐだよ」
「うん。マヤ、日本の新幹線は安全だね」
彼女は、改まって、新幹線の安全性に言及した。
「ん? まあ、そうだね」
「さすがだなー。私たちは、無事だ」
「いや、それはそうだけど……どうしたの?」
「何でもない、何でもない。ぬふふふ」
「変なの」
そして、私たちは、富山駅に降りた。
「富山だー!」
「そんなにうれしい?」
「ふっふっふ。ここで大発表です」
「なに?」
「だらだらだらだら、じゃん!」
「マヤと自分、無事富山!」
「……なにそれ?」
「回文。まやとじぶん、ぶじとやま」
「ああ」
「どう?」
「どうって、それを言うために富山に来たの?」
「うん」
「えええ……」
しばらく、言葉を失った。
それから、笑いがこみあげてきた。
「あははははは、え、それだけなの?」
「うん、それだけだよ?」
私は大笑いした。こんなに笑ったのは、久しぶりだ。
いや、はじめてかもしれない。
くだらない。くだらなすぎる。
「ありがとう。幸せな気持ちになった」
「んあ?」
彼女は、人を幸せにするのが得意なんだ。そう思った。
「でも、行く場所決めてないんでしょ?」
「うん。富山に来れば、それでよかったから」
「じゃあ、お花を見に行こう」
「お花?」
「さっき調べたんだ。たくさん咲いているらしいよ」
そこから在来線の電車に乗って、一時間くらい。その後、さらにシャトルバスに乗った。
「うわあ」
チューリップ。桜。色とりどりの花。
そして、川沿いには一面の菜の花。
私は、息を呑んだ。
こんな見事な菜の花は、見たことがなかった。
隣を見ると、彼女が泣いていた。
涙をぬぐうこともせず、ぽたぽたと涙を流している。
「えええ、そんなに?」
「……マヤ、あの黄色い花、なんていうの?」
「あれは、菜の花だよ」
「そう。菜の花っていうんだ」
「そんなに感動したの?」
「うん」
菜の花畑の中を、二人で歩いた。
「マヤ」
「ん?」
「きれいだね」
「うん」
「マヤ、美しく咲くってこういうことだ」
「うん」
彼女は、菜の花を見つめていた。
風が吹いて、花が揺れた。菜の花の香りを感じた。
「マヤ」
「んー?」
「私、日本に来てよかった。マヤに会えてよかった」
「うん、私もだよ。あなたに会えてよかった」
本心だった。
彼女に会う前の自分が、思い出せないくらいだった。
その後も、はちゃめちゃな旅をした。彼女は突然ホタルイカが見たいと言い出し、一泊してホタルイカを見た。光る海を見ながら彼女は感動していた。
「これは神の使いだね……」
「イカだよ」
帰りの新幹線を待つ時間、近くの神社に立ち寄った。
「コノハナサクヤヒメをお祀りしています」
彼女は看板を読み上げる。
「花と……安産の女神。ローマ神話でいうと、ノナだ」
彼女は、私を振り返る。
「どうしたの?」
「マヤ、私、お土産がほしい。この旅を忘れないように」
「え? いいけど」
私たちは、富山駅でお土産にペンダントを買った。
菜の花の形をした、淡い金色の飾り。繊細な細工が施されている。ちょっと高かったけど、二人ともひとめぼれし、即買いした。
「ふふふ」
彼女は、とてもうれしそうだった。
私もうれしかった。
大学四年生の秋、私たち二人は、大学院の言語学科に合格した。
私が言語学の研究をする。彼女に出会わなければ、考えもしなかった道だ。
「ありがと」
私は素直な気持ちを伝えた。
「ふえ? 私は何もしてないよ?」
「してるよ。たくさん」
「そう?」
「そうだよ」
その日、彼女はしましまの服を着ていた。彼女は出会ったあの日と同じ、赤と緑のしましまのセーターを着ていた。
「マヤ、私、帰るね」
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
彼女は、手を振って研究室から出ていった。
それが——彼女を見た最後だった。
翌日、彼女は大学に来なかった。
連絡がつかない。アパートにもいない。荷物だけが残っていた。
警察に届けた。大学にも報告した。みんなで探した。
最後の目撃情報は、あのラーメン屋だった。
しましまの服を着た彼女は、三田駅前のラーメン屋でマシマシを注文した。
そして、店を出た。そこまでは分かった。
でも、そこから先が、分からない。まるで、消えてしまったみたいに。
探した。何年も探した。でも——見つからなかった。
あれから、十年が経った。私は、言語学の専任講師になっていた。
彼女が座っていた窓際の席には、今は私のゼミの学生が座っている。
あのラーメン屋は、まだある。味は変わらない。私は今でも、時々食べに行く。
店の壁に、一枚の写真が飾ってある。しましまの服を着た、菜の花色の髪の女の子。笑顔で、ラーメンを食べている。
学生たちが、ラーメンをすすっている。
「おやっさん、この写真の人、誰?」
「昔の常連さんだよ」
「へえ。外国人?」
「うん。北欧からの留学生」
「なんでかざってるの?」
「ラーメンを一番おいしそうに食ってたんだよ」
「ふーん」
「歌いながら」
「ええ、変」
「だろう? でも、元気づけられた。昔、感染症が流行った時があっただろ」
「あったね」
「この店も不調になった。店をたたもうかと思った。でも、この子が、ものすごくおいしそうに食べてた。だから、がんばれたんだよ」
「俺たちがラーメンを食べられるのも、この子のおかげか」
「まあ、そんなもんだ」
彼女と関わった人は、みんな幸せになった。
私は、夢を見つけた。
ラーメン屋のおじさんは、店をやめずにがんばれた。
学生たちは、おいしそうにラーメンをすすっている。
「ふんふふーん」
「え?」
遠くから、彼女のラーメンの夜唄が聞こえた気がした。
彼女は、知らず知らず、幸せを配って歩く人だった。
本人は気づいていなかったかもしれない。ものすごく考えて何かを仕組むわけでも、何かを見通してそうしているわけでもない。
でも、そうだった。
できることなら、もう一度だけ、彼女に会いたい。彼女に会って、お礼を言いたい。でも、それは、かなわない気がする。
今も、あなたは、どこかで、誰かのことを幸せにしているんだろうね。
きっと。
ありがとね。エマ。
おしまい
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
回文をめぐるちょっと変わった異世界ファンタジーです。
どれくらい、社会にニーズがあるのかは分かりませんが、楽しく書きました。
五つの回文は、本当、偶然に「見つけた」感覚です。
作ったのではない、「見つけた」といつ感覚。
しかし、それを物語にするのは苦労しました。
ここまでの長編は、はじめてのことで、読みにくい部分もあるかもしれませんが、楽しんでいただけたら、幸いです。
ちなみに、最後まで迷ったのは、「マルナ」(覚えているでしょうか)のセリフで、
「マルナに丸投げしてください」
これを書くか、最後まで悩みました。




