帰還
菜の花は、走った。息が切れる。それでも走った。
門に、子ノナが、立っていた。
日焼けした肌。伸びた髪。旅で鍛えられた体つき。
十七歳になった娘は、すっかり大人になっていた。
そして、その腕の中に——
小さな赤ん坊が、抱かれていた。
「ノナ!」
菜の花が、叫んだ。
子ノナが、振り返る。そして、にっこり笑った。
「ただいま、母さん」
その笑顔は、昔と変わらない。
お届けものを終えた後の、誇らしげな笑顔。
「おかえり……ノナ」
菜の花は、子ノナを抱きしめた。
細い体。でも、しっかりとした芯がある。
「その子は……」
菜の花が、赤ん坊を見た。
寝ている。小さな顔。墨色の髪。静かに寝息を立てている。
子ノナが、笑った。
「いやー、魔王にお届けものをしたら、返礼品がさ」
「返礼品って」
「うん。赤ちゃん」
子ノナは、軽い調子で言っている。でも、その目には、深いものがあった。
「分かった。詳しく聞かせて」
「うん。でも、おばあちゃんにも会いたい」
リオンが、駆けつけてきた。
「ノナ!」
「父さん、ただいま」
リオンが、子ノナを抱きしめる。赤ん坊を潰さないように、そっと。
「心配したぞ」
「ごめんね」
「いや、いい。帰ってきてくれて、よかった」
三人で、母ノナの家に向かった。
母ノナは、縁側に座っていた。子ノナの姿を見て、ゆっくりと立ち上がる。
杖をついて、歩いてくる。
「おばあちゃん」
「ノナちゃん」
子ノナが、母ノナを抱きしめた。
赤ん坊を片腕で抱えたまま、そっと。
「帰ってきたよ」
「ああ、帰ってきたね」
「待ってたよ。ずっと待ってた」
「うん。ごめんね、遅くなって」
「いいよ。帰ってきてくれたから」
母ノナが、赤ん坊を見た。
「この子は……」
「うん。お届けものの返礼品」
「返礼品ねえ」
母ノナが、小さく笑った。
「中に入ろう。話を聞かせておくれ」
暖炉の前に、四人が座っている。菜の花、リオン、母ノナ、そして子ノナ。
赤ん坊は、子ノナの腕の中で眠っている。
「何があったか、教えてくれる?」
菜の花が、静かに聞いた。
子ノナは、しばらく暖炉の火を見つめていた。
それから、ゆっくりと語り始めた。
「四つの聖域で、母狼の魂を受け取ったんだ」
「うん」
「最初は、よく分からなかった。何か温かいものが入ってくる感じがしただけ」
「手紙に書いてあったね」
「うん。でも、四つ全部受け取ったとき、分かった」
子ノナが、自分の胸に手を当てた。
「これは、後悔なんだって」
「……」
「ハノと遊びたかった。一緒に獣を狩って、大きくなるところを見たかった。ハノを守れなかった。その悔しさと、悲しさと、ハノが大好きっていう気持ち」
菜の花は、黙って聞いている。
「封魔の森に着いたとき、ここに、魔王がいるんだって思ったら足が震えた」
「……」
「でも、届けなきゃいけないと思った。ハノのお母さんを、届けなきゃって」
子ノナが、赤ん坊を見つめた。そして、ゆっくり話し始める。
——封魔の森の洞窟に入った。暗かった。瘴気はもう全然なかった。
その一番奥の部屋に、両手で抱えられるくらいの、黒い石があった。
そこだけ穴が開いているみたいだった。光が吸い込まれているような黒だった。
その中に、魔王が封印されていた。
「お届けものに来ました」
私は言った。
「お母さんの魂を、お届けします」
それから、声がした。
『お届けもの?』って。
すごく不思議そうな声だった。
「そう。お母さんの魂を、届けに来ました」
『母さん……?』
「はい」
私は、目を閉じて、母狼の魂を送り出した。
四つの聖域で受け取った、母狼の魂。
透明で、きれいな白色だった。
光が溢れた。眩しくて、目を開けられなかった。
そのまま、しばらく、時間がたった。
泣き声が、聞こえてきた気がした。
光が収まったとき、石が割れていた。ぱかーんって。
そしたら、今度は、本当に泣き声が聞こえた。
子ノナが、腕の中の赤ん坊を見つめた。
「この子がいた。小さくて、震えるように泣いてた。私が抱き上げると、泣き止んだ」
子ノナが、赤ん坊の髪をなでた。
「でも、衰弱してた。ものすごく。だから、おばあちゃんの回復薬を飲ませた」
「えっ」
「どうしたの、母さん」
「あ、いや、なんでもない」
子ノナが、赤ん坊を抱きしめる。
「回復薬を飲んだら、この子の体から、黒い瘴気が立ち上って、消えていった」
「キクンダ」
「どうしたの、母さん」
「なんでもない」
「その晩、私とマルナは、封魔の森のそばで野営した。そして、夢を見た」
——暗い森の中で、小さな狼の魔物が、泣いていた。
輝くような、雪色のふわふわの毛をした子どもの狼だった。
その子は、母狼にすがりついて、静かに泣いていた。
母狼は、深く傷ついていて、血だらけで横たわっていた。
「母さん……母さん……起きて」
小さな狼は泣いていた。
「泣いてはだめ。ハノ。母さんは、もうだめ。今すぐ逃げなさい」
周りには、人間の兵士たちがいた。
剣を持って、大きな狼の魔物を討伐した後だった。
兵士たちは、その魔物の子どもを見て、言った。
「子どもも殺すか」
兵士たちは、ごつごつした鎧を着ていた。
体は影のように真っ黒で、笑っているように見えた。
三日月のような口が、いくつも浮いている。
実際は違ったのかもしれない。
でも、そう見えた。
「まだ子どもだぞ」
「いやでも、魔物は魔物だ」
「放っておけ、二十年後にはまた貴重な素材になる」
素材。
母さんを、どうするつもりだ。ハノは、震えた。
素材。
素材?
素材って何?
何のために。どうして。
真っ黒な影の中で、白い三日月が動いた。
何かしゃべっているのだろうか。
しかし、その声は耳に入らず、地を這う虫が動いているようにしか見えなかった。
おぞましい、と感じた。
魔という言葉が、『害をなすもの』という意味なのであれば、どちらが魔物なのだろう。
ハノの身の回りにいる獣たちと、魔物。それらは大差がない。
そして、目の前にいるこの生き物も、大差はない。
これらは、なぜ自分を特別だと思っているのだろう。
害とは、人間にとっての害だけをいうのであって、魔物にとっての害は含まれないのか。あなた方は、なぜ、どうして、そんなに……
えらそうなんだ。
三日月は、尺取虫のようにくねくねと動いた。
「放っておけ。どうせ生きていけない」
「弱いものを殺すのは気が引ける」
という音が聞こえた。極めて難解な、理解に苦しむ内容だった。
内容は分かる。しかし、意味が分からない。別の世界の音のようにしか聞こえなかった。
強い弱いに関係なく殺すならまだ分かる。
気が引けるというなら、最初からやらなければいい。
それとも、それが、彼らなりの正しさなのか。
理解ができなかった。
でも、小さな魔物には、彼らを変えることはできない。
母ですら勝てなかった。自分がどうにかできる相手ではない。
そう、小さな魔物は思った。
彼らは、そして、去っていった。
小さな狼の魔物の子どもは、一人取り残された。
そして、泣き続けた。何日も、何日も。
静かに泣いた。
誰にも見つからないように。
空腹だった。
みじめだった。
泣いているうちに、美しい白の毛は、黒くなった。
つやがなく、ただ、平坦な黒になった。
そこに、ぽっかりと、深くて暗い穴が開いたかのようなのっぺりとした黒だった。あるいは、あらゆるものを飲み込み、光すらも飲み込む、完全な黒だった。
悲しみを飲み込んでほしいという願いが生んだ色だった。
やがて、黒くなった魔物の体から、瘴気があふれ出した。
瘴気は、森を腐らせ、水を汚し、周囲の『魔物』を強くした。
瘴気は、やがて周囲を脅かすようになった。
瘴気はいつまでも止まらなかった。
母さんを返せ、母さんを返せ、母さんを返せ。
いなくなりたい、いなくなりたい、いなくなりたい。
悲しい、さみしい、悔しい、憎い、悔しい、さみしい、悲しい……。
ぐるぐる、ぐるぐる。
瘴気は、そのたびに強くなった。
その小さな狼の子どもが——
「魔王ハノになった」
静けさが広がる。
母ノナは、ハノを優しくなでた。
「ハノは、魔王になりたくてなったわけではなくて、なってしまったんだね」
子ノナはハノを見つめる。
「うん。ハノは、百三十年の憎しみから解放されて、赤ん坊として生まれた。もう魔王じゃない。ただの赤ん坊だよ」
長い沈黙。
母ノナが、静かに口を開いた。
「それで、お前はどうするつもりなんだい」
子ノナは、母ノナを見た。
「私が育てる」
はっきりとした声だった。
「この子を、私の子として育てる」
「……」
「だって、私が届けたんだから。届けたものの責任は、届けた人が取らなきゃ」
子ノナが、笑った。
「お届けものは、届けたら終わりってわけじゃない」
母ノナが、ゆっくりと立ち上がった。
杖をつきながら、子ノナの隣に座る。
そして、赤ん坊の頭を、優しくなでた。
「よく決断したね、ノナちゃん」
「おばあちゃん……」
「私も、同じことをした」
母ノナが、微笑んだ。
「菜の花を、自分の子として育てた」
「……」
「この子も、家族だよ。私たちの家族」
菜の花も、子ノナの隣に座った。
「名前は決めたの?」
「うん。ハノ」
「ハノ……」
「魔王ハノ。でも、もう魔王じゃない。ただのハノ」
菜の花は、赤ん坊を見つめた。穏やかな寝顔。
「一緒に育てよう」
菜の花が言った。
「私も手伝う。おばあちゃんも。父さんも」
「母さん……」
リオンが、うなずいた。
「ノナが決めたことだ。俺は支えるよ」
「ありがとう……」
赤ん坊が、小さく声を上げた。
「あー……」
目を開けている。黒い瞳。きょろきょろと、周りを見回している。
「起きた」
「お腹空いたのかな」
「ミルク、作らなきゃ」
母ノナが、立ち上がろうとする。
「私がやるよ、おばあちゃん」
「いいよ、抱っこしてあげな。ミルクは、私にやらせておくれ」
母ノナが、杖をつきながら台所に向かう。
子ノナは、赤ん坊を見つめている。
「ハノ」
小さく呼びかける。
「私が、あなたのお母さんになるよ」
赤ん坊が、子ノナを見た。そして、笑った。
小さな、小さな笑顔。
「笑った……」
「ああ、笑ったね」
菜の花も、微笑んだ。
この子は、きっと大丈夫だ。
「あー……あー……」
ハノが本格的に泣き始めた。
家族は、おろおろと、あわあわと、でも笑いながら、世話を始めた。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
3/29(日)まで毎日20時に更新予定です。




