放課後
放課後、石畳の小道を歩く。
道の両脇の石壁には蔦が這い、ところどころに小さな花が咲いている。
図書館のドアを開けると、古い紙と革表紙の匂いがした。
学舎の生徒が勉強している。
「こんにちは、エルドンさん」
「やあ、ノア」
菜の花は、エルドンとよく話すようになった。この図書館で三十年近く働いているらしい。
「今日も、日本語の本かい?」
「はい」
「よく続くね」
「楽しいんです」
エルドンは笑って、「来なさい」と言って立ち上がった。
彼は、本棚の奥へと迷いなく歩いていく。
「ここだったかな」
エルドンは、高い棚を見上げる。梯子を引き寄せ、登り始める。
菜の花は心配そうに見上げる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。慣れてるから」
「でもエルドンさんが落ちて死んだら」
「めったなことを言うもんじゃない」
エルドンが棚に手を伸ばしたその時。
「おっとっと」
「ぎゃーーー!」
「ほっほっほ。うっそー」
「えええ⁉ ちょっと、やっていいことと悪いことが」
「すまん、すまん」
エルドンは梯子を降りてくると、古い本を菜の花に渡した。
「これは?」
「日本語の詩集だよ。『俳句』というものが書かれている」
「はいく?」
「五・七・五の音で作られた、極めて短い日本の詩だ」
エルドンは、パラパラと本をめくり、真ん中あたりを開いて菜の花に渡す。
「ここだ。読んでごらん」
小さく声に出して、ゆっくり読む。
「ふるいけや かはづとびこむ みづのおと」
ぽちゃん。水の音が聞こえた気がした。
「どうかな?」
エルドンが眼鏡を押し上げながら微笑む。
「……静かですね」
「うん。面白い感想だ」
菜の花は本をめくる。
「貸し出しできますか?」
「もちろん」
菜の花は窓際のいつもの席に座って、俳句集のページをめくる。一つ一つの俳句を、小さく声に出して読む。
ノートに、文字を書き写す。丁寧に、一音ずつ。
気づくと、ほかの生徒は帰っていた。
図書館には、菜の花とエルドンだけ。午後の白い光が、淡い蜜柑色に変わっている。
「五・七・五の十七音しかないのに、なんで詩ができるんだろう?」
「いいところに気づいたね!」
「ぬえええ?」
「ははは、すまない。驚かせたね」
エルドンは、目を細めた。
「今のは、いい疑問だ」
「日本語は、書いてないことを伝えるのが得意なんだ。例えば、さっきの俳句の『ふるいけや』だけど」
エルドンが、ノートの一行を指さした。
「この『かはづ』——カエルは、何匹いると思う?」
菜の花は、その句をもう一度読む。
「一匹……な気がします」
「どこに書いてある?」
菜の花は言葉を探した。
「書いてないです」
「そう。書いてない。でも、一匹な気がする」
菜の花は、うなずく。なんで一匹だと感じたんだろう。
「じゃあ、何匹もいたらどうだろう?」
菜の花は目を閉じた。頭の中で、「ぽちゃん」という音が聞こえた気がした。続いて、「ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん」と重なる。
「うるさい……」
「あはは、そうだね」
「でも、これはこれで……にぎやかな池でいい気がします」
「古い時代の俳句だからね。カエルの合唱の中で、次々に飛び込む音がしても、おかしくはないよね」
「なるほど」
知れば知るほど、面白い。
「そうだ。エルドンさん、これ、『かはづ』って書くんですね」
「それは、古い書き方なんだよ。『は』と書くけど、『わ』と読む。他にも、『ふ』と書いて『う』と読んだりするね」
「なるほど、時代によって違うんですね」
いつの間にか、窓の光が橙色に変わっていた。
「あ、もうこんな時間!」
「おお、そうだね」
「私、母から、薬草を買うのを頼まれてたんです!」
「おお、そうか。じゃあ、この本は借りていくかい?」
「はい!」
エルドンは、手早く貸出帳に記録をつける。
「返却は、二週間後までだよ」
「ありがとう! また来ます!」
菜の花は詩集を鞄にしまい、図書館を出た。
西の空が、茜色に染まっている。
「わあ」
そういえば、「ふるいけ」の俳句は、群青の空だと思い込んでいた。
でも、こんな空の下でもいいかもしれないな。菜の花は、ぽちゃん、ぽちゃんと小さく口ずさみながら歩いた。
夕方の市場は、朝とはまた違う空気が漂っている。
一日の商売を終えようとする者たちが、残った品を並べ直している。西日が彼らの姿を照らしている。
菜の花は、市場の奥にある薬草屋へ向かった。
小さな店先には色とりどりの薬草が並べられ、独特の香りが漂っている。
「こんにちは」
菜の花が声をかけると、店主のおばあさんが顔を上げた。
「この前は大丈夫でしたか?」
「ああ。心配かけたね」
「いえ」
よかった。
「ノナのお使いかい?」
「はい。満月草ともつれな草をください」
「どんなの?」
「ええと、満月草は新月の夜に採れた新鮮なものがいいんだって」
「相変わらず、変なもん使うねえ」
「あと、もつれな草は、もつれたまま枯れたやつが必要なんだって」
店主が首をかしげる。
「何に使うんだい?」
「さあ……」
ノナは、薬草の使い道は言わない。依頼人のことも、口にしない。
「でも、今日のは、特に変わってる気がする」
「そうだね。あんまり使わないね。在庫はあるけど」
店主は、店の奥から小さな布袋を二つ取り出した。
「はいよ」
と言って、菜の花に渡す。
一つ目の袋には、鮮やかな緑色の草が入っていた。
満月のような丸い葉だから、満月草。けれど採るのは新月の夜——やっぱり変な薬草だ。
二つ目の袋を開けると、カラカラに乾いた茶色い草が入っていた。
まっすぐ育つから「もつれな草」なのに、くるくると複雑に絡まっている。
「まあ、ノナなら使い方を知ってるだろ」
「ありがとうございます」
菜の花は、代金を払い、薬草を鞄に入れた。
それから菜の花は、家へ帰る道を歩き出した。
祈りの塔が見える。神官と巫女は、祈りを終えて帰り支度をしている頃だろう。
巫女。
パン屋、学舎の講師、司書、薬草屋。
私がなりたいものは何で、なれるものは何だろう。
ノナの顔が浮かんだ。ノナは色々な仕事を経験している。今は薬師だが、昔はポーターとして旅をしていたこともあるらしい。
母さんに聞いてみようかな。
菜の花は、ぽてぽてと歩きながら考えた。
ドサッ。
「ふなっ?」
菜の花の目の前に、また、人が吹き飛ばされてきた。
春の朝と同じ、銀色の髪の騎士見習いだ。
少年は地面に転がったまま、しばらく動かなかった。
「大丈夫?」
「ありがとう」
少年は短く答えて、立ち上がる。
菜の花と目が合った。
「あ、この前の……」
少年は、菜の花のことを覚えていた。
「がんばってるね」
菜の花は、思わずそう言った。
「でも弱い」
少年は落ちた木剣を拾い上げた。
「弱いままだと、がんばっても意味がない」
「どうして?」
何気ない問いだった。
でも、少年は、菜の花をまっすぐ見返した。
「目標があるから」
それだけ言って、少年は訓練場へ走っていった。
その背中を、菜の花は見送る。
「リオン、今日はここまでにしておけ」
騎士長の声が聞こえる。
「……はい」
リオンはしばらく黙ってから、短くうなずいた。
菜の花は訓練場を離れ、家へ向かった。
歩きながらリオンのことを考える。たぶん、同い年くらいだろう。
けれど、自分とはまるで違う。剣を振るい、魔物と戦おうとしている。
自分は、理由も分からず、本の中の日本語を追いかけている。
全然、違う。
——目標があるから。
リオンの言葉は、菜の花の胸の奥に重さを残した。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
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