小さなノナ
それから五年が経った。穏やかな日々が続いていた。
春。聖域フィルネの外れにある、小さな石造りの家。
庭は、前より花が増えた。美咲の花が、たくさん咲いていた。
「ママ、おとどけもの!」
四歳の女の子が、小さな花を持って走ってきた。
菜の花と同じ金色の髪が、光を浴びて輝いている。大きな瞳。菜の花に、よく似た顔立ち。
「ありがとう。おはなくれるの?」
「うん、おとどけもの!」
「ありがとう、ノナ」
ノナと呼ばれた女の子は、嬉しそうに笑った。
「ねえ、ママ」
「ん?」
「どうちて のなのなまえは、のななの?」
女の子——ノナが、首をかしげる。
菜の花は、微笑んだ。
「変?」
「へんじゃないけど……なんで、おばあちゃんといっちょなの?」
「だって、『子の名はノナ。菜の花の子』でしょ?」
「どういうこと?」
子ノナが、不思議そうな顔をする。
菜の花は、笑いながら日本語で言う。
「子の名はノナ。菜の花の子」
「このなはのな。なのはなのこ」
子ノナが、真似して言う。
「じゅもん?」
「そうだね。最初から読んでも、最後から読んでも同じになる、魔法の言葉」
「かっこいい!」
菜の花が、娘の頭をなでる。
家の前では、リオンが結界術の教本を書いていた。図が細かい。
壁に、勇者の剣が立てかけてある。
リオンは、学舎で結界術の講師をやっている。騎士団の団長に推す声もあったが、剣よりやりたいことがあるのだという。
「パパー!」
子ノナが、花をもって、リオンに駆け寄る。
「おう」
リオンが、片腕で軽々と娘を抱き上げる。
「おとどけもの!」
「ありがとう」
「けん、かっこいい」
壁の剣を見て、子ノナが言った。
「だろう?」
「ノナも、けんちゅかえるようになる?」
「こぶしで戦うほうが強いよ」
「こぶち?」
「そう。こぶしでどーん」
「かっこいい!」
「だろう? ナックルダスターって知ってるか」
「変なこと教えないで」
「あははは。変じゃないさ」
リオンが、娘を下ろす。
それから、菜の花の方を見る。
「きれいに咲いたな」
「うん」
菜の花が、満足そうに花畑を見つめる。
「おならばな! あはははは」
子ノナが、笑っている。
「……」
菜の花が、うっかり「おなら花」と呼ばれていることを教えてしまったのだ。
そしたら、子ノナは、大好きになってしまった。
「ま、まあ、花の名前はともかく。美咲さんに、見せたかったな」
「きっと、見てるよ」
リオンが、菜の花の肩に手を置く。
「そうだね」
二人は、微笑み合った。
その時、隣の家の扉が開いた。母ノナが、出てくる。
五十歳になった彼女は、腰が痛いとこぼすことが増えた。
「おばあちゃん!」
子ノナが、駆け寄る。
「おや、ノナちゃん」
母ノナが、孫娘を抱きしめる。
「おはな、おとどけもの!」
「ああ、きれいだね」
母ノナは、黄色い花を見つめる。
「美咲……たくさん咲いたよ」
母ノナは、小さくつぶやく。
「みさきさんのおならばな! あはははは」
「ノナ、おなら花の前に『みさきさんの』をつけちゃだめ」
「えーなんでー」
風が、優しく吹く。
おなら花と呼ばれた黄色い花が、少し、残念そうに揺れていた。
その夜。
菜の花は、自分の部屋でノートを開いた。
十四歳のときに、必死に書いた回文たち。
三つの回文が、ページの上で静かに並んでいる。
菜の花は、ペンを取った。新しいページに、日本語で書き始める。
それは、日記とも美咲への手紙ともつかない、菜の花の気持ちだった。
——「菜の花の母の名はノナ」という回文を、美咲さんは残しました。
私は、母ノナに育てられ、『ノナは母なの』という言葉を見つけました。
そして、私にも、娘がいます。名前は、ノナ。
あなたと一緒に旅をしたノナと同じ名前です。
「子の名はノナ。菜の花の子」——このなはのな。なのはなのこ。
この言葉を、私は見つけました。
最初が最後につながる、円の形の言葉。
そして、いつか娘が大きくなったら、すべてを話すつもりです。
あなたのこと。母、ノナのこと。
この家族の物語を——
菜の花は、ペンを置いた。それから、窓の外を見る。
月が、静かに輝いている。黄色い花畑が、月明かりの中で揺れている。
菜の花は、成人の儀のことを思い出す。
シオナは言った。
力は『できること』でしかないと。答えは自分で見つけるものだと。
今の菜の花には、分かる。
私のなすべきことは、「聖女」ではない。それは役割であって、なすべきことでは、ない。
なすべきことは、「見つけること」だ。
「美咲さん」
小さくつぶやく。美咲さんのなすべきことは、何だったのだろう。
名前をめぐる回文——どこまでが偶然なんだろう?
風が、窓を揺らす。ペンを取る。
それから、ノートに最後の一文を書いた。
——そして、名前にまつわる、この回文が行きつく先は……
まだ、分からない。
菜の花は、ノートをしまった。
隣では、リオンがすでに眠っている。
菜の花は、そっとリオンの隣に横になった。
目を閉じる。明日も、幸せな一日が来る。
そして、いつか娘も、この幸せをつないでいくだろう。
「おやすみ、ノナ母さん」
「おやすみ、リオン」
「おやすみ、ノナ」
小さくつぶやく。
「おやすみ、美咲さん」
庭では、美咲の花が揺れている。月明かりの中で、黄色い花が浮かび上がる。
遠くに、祈りの塔が見える。
菜の花は、そっと目を閉じた。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
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