初夏、学舎
それから、菜の花は、日本語に夢中になった。
毎日、図書館に行っては本を借り、夜遅くまで読んだ。
最初は、音をなぞるだけだった日本語の文字が、今では意味を持って目に飛び込んでくる。
紙の上の記号だったものが、いつの間にか言葉になっていた。
初夏になった。
ヌーン、ヌーン、ヌーン……。
お昼休み。教室から、生徒たちがぞろぞろと出てくる。
「お腹空いた!」
ミラが、両手を上げて伸びをする。
「午前中の魔法理論の授業、眠かった……」
菜の花が欠伸を噛み殺しながら言う。
「ノア、寝てたでしょ」
リーネは、にやにやしながら尋ねる。
「いや、目を閉じて、集中して聞いてた」
「それは寝てるって言う」
「……何かあったの?」
ミラがやや心配そうに言った。
「うん、日本語の本を読んでたら、遅くなっちゃって……」
「日本語?」
「うん、面白いんだよ」
「また、変なもんに興味もったな」
リーネが笑う。
「なんで日本語なの?」
「なんでだろう。『菜の花』が日本語だから?」
「『菜の花』って、ノアの正式な名前でしょ? それが日本語なの?」
「うん」
「ふーん」
「でも……それにしたって、そこまで気になる?」
ミラが首をかしげる。
「『ミラ』も別の大陸の言葉らしいけど、私は勉強しようと思ったことはないよ」
「え、そうだったの」
「うちの家系は、たどると別の大陸から来てるみたい」
「へえ。じゃあ、私は……なんでだろう?」
「知らないよ」
三人は笑いながら、学舎の中庭へ向かった。
中庭では、多くの生徒が昼食をとっている。
三人は、いつもの場所——噴水の近くの石のベンチに腰を下ろす。
菜の花は、ノナが持たせてくれた弁当を開けた。
木の蓋が、ことりと小さな音を立てる。パンとチーズ、茹で卵、それに小さなリンゴ。
「ふんふふーん」
思わず、口ずさむ。
「ご機嫌だな」
リーネが菜の花を見て笑う。
「うん」
菜の花は、嬉しそうに微笑んだ。
リーネは、食堂で買ってきた野菜スープのカップを両手で持ち、ゆっくりと飲む。
「はあ……」
野菜とハーブの良い香りが漂っていた。
「リーネは、いつも学舎のスープだね」
「父さんも母さんも商売で忙しいからな。そして私は、料理が苦手だ」
「やればできるよ」
ミラは笑う。ミラは、料理が得意だ。
中庭には、他の生徒たちの笑い声が響いている。
ミラは、小さなパンの塊を頬張りながら、噴水の水面を眺めている。小柄で、丸い頬で、小動物みたいだと菜の花は思うことがある。本人に言ったら怒られるだろうけど。
ミラが、ふと思い出したように言った。
「ねえ、ノア。成人の儀、もうすぐだね」
「んあ? ああ、あいねんのあるあもんね」
リンゴをガジガジかじりながら、菜の花はうなずいた。
「食べ終わってからでいいよ」
「ごくん」
菜の花は急いでリンゴを飲み込む。
「はあ。あと一年で十五歳の大人かあ……」
少しだけ、感傷的な気持ちになる。
沈黙。リーネとミラが吹き出す。
「あははははは」
「うえ?」
「待って待って」
「突然、切ない感じになるのやめて」
「リンゴかじって、モゴモゴしてたのに」
二人はひとしきり笑う。
「でも、そうだよなあ」
リーネが、しみじみと言う。
「ついこの間まで、あそこで鬼ごっこしてたのにね」
ミラは、中庭の端の芝生を指す。
「懐かしいねえ」
「ノア、いつも捕まってたよね」
ミラは、目を細めて笑う。丸い頬に、少しだけえくぼが出る。
「だって足遅いんだもん」
菜の花が、頬をふくらませた。菜の花は、運動はあまり得意ではない。
「でも、隠れんぼは、得意だったよ」
「そうなんだよなあ。特に見つけるの」
ここにいると思えば、たいていそこに隠れている。
それから、ミラが真面目な顔で尋ねる。
「成人の儀で、どんな力に目覚めたい?」
成人の儀。十五歳を迎えた者が聖堂で受ける儀式だ。
「格闘とか剣術とか、聖域を守る力もあるし、料理とか調合とか」
「力によって、できる仕事が変わるからなあ」
十四歳になってから、菜の花の周りでは、成人の儀の話が増えた。
「ミラは?」
菜の花が尋ねる。
「祈りの力。巫女になりたい」
「巫女かあ……」
「そしてあの衣装を着たい。淡い青の衣に、白いベール」
「うん。あれは確かにあこがれる」
リーネがうなずく。
「でも、祈りの力は、ほんの一握りの人にしか現れないからねえ」
ミラはため息をついた。
「リーネは?」
「そうだなあ……」
リーネが、腕組みをしながら考える。横顔がりりしい。リーネは、同性の菜の花から見ても、かっこいいと思う。
「魔法が使えたらいいな。火とか」
「火? 交渉の力とかじゃなくて?」
「うん。うちの商品さ、他の街から運んでくるときに、山賊に取られることがあるんだよ……いざってときには、戦えるようになりたい。だから火」
「かっこいい!」
ミラが目を輝かせる。
「ノアは?」
ミラが菜の花に視線を向ける。
「ええ。どうだろう……」
菜の花は、ぼんやりと空を見上げる。
「案外、すごい力に目覚めるかもな。ノアって、ちょっと不思議なところがあるから」
「不思議?」
「うん。なんていうか……何かやりそうな感じ?」
「分かる分かる!」
ミラがうなずく。
「え、ほめてる? それは私のことをほめてるの?」
「いや」
「否定した⁉」
「正確に言うと、何かやらかしそうな感じ……かな」
リーネが訂正した。
「なんだよう!」
三人の笑い声が、中庭に響いた。
「私は……母さんと同じ薬師かな?」
菜の花は、空を見上げる。
「パン屋さんになるのもいいな」
「ノア、パン好きだもんね」
「うん」
——でも、本当は……。『祈り』でも『魔法』でもない別の言葉を、菜の花は喉の奥で飲み込んだ。
ゴーン、ゴーン。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
お昼の始まりだけ「ヌーン」と鳴る鐘——この鐘には、異世界の重大な秘密が隠されている。菜の花は、講師の言葉を思い出す。
「ほんとかな」
作りたいから、作った。案外それだけなのかもしれない。
「ん? なんか言った?」
「ううん」
中庭の生徒たちは、ゆっくりと立ち上がって伸びをしている。
三人も、弁当箱やカップを片付け、教室へと向かった。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
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