空白の一年間
「封魔の森の近くの村にとどまってから、数ヶ月経った。夏の盛りだった」
ノナは、続きを話す。
「美咲が、みんなに言ったんだ」
——その日の朝だった。
私たちは、いつものように村の小さな家で朝食を囲んでいた。
パンとスープ。村の人たちが分けてくれた、素朴な食事だ。
美咲が、スプーンを置いた。
それから、私たちを見回して、言った。
「あのね、みんな。私、赤ちゃんができたみたい」
一瞬、静かになった。
私は、ああ、そうかもな、と思った。
スオヤラは、ぽかんとした後、大声で笑い出した。
「はははは、めでたいな!」
アルヴィンの背中をバンバン叩いている。
「よかったな、アルヴィン! はははは!」
「スオヤラ、痛い」
私は、美咲の顔を見ていた。嬉しそうだった。
でも、どこか、覚悟を決めたような顔にも見えた。
あの夜、焚き火を囲んでいた時と、同じ顔だった。
私たちは、村に残ることにした。
赤ちゃんが生まれるまで、ここで過ごそうって。
それからの日々は、穏やかだった。
美咲のお腹が、少しずつ大きくなっていく。
アルヴィンは、不器用に世話を焼いた。
スオヤラは、村の子どもになつかれて遊んでた。
私は村の薬師について本格的に調合を勉強しはじめた。
「誰に教わったのか知らないが、適当すぎる」って怒られたよ。算術も学びなさいって。
だから、たまに美咲に算術を教わったりしてた。
ある日、スオヤラが銀細工を始めた。
「何作ってるの」
私は尋ねた。
「髪飾り。赤ん坊に」
「ちょっと早くないかい」
「大きくなったら、つければいい」
大きな手で、小さな銀のかけらを叩いている。
カンカンカン、カンカンカン。
「私も手伝うよ」
私は、スオヤラの隣に座った。
「いいぞ」
スオヤラは道具を渡してくれた。
「何作ってるの?」
「蝶」
「いいね」
「羽を、半分ずつ作ろう」
「うん」
カンカンカン、カンカンカン。
二人で並んで、銀を叩く。
美咲とアルヴィンが、その音を聞きながら、縁側で話していた。
二人とも、穏やかな顔をしていた。
「あのさ、スオヤラ」
「ん?」
「男の子だったらどうするの?」
「さあ。でも、美咲が、きっと女の子だって言ってたぞ」
「ふーん」
ある夜のことだった。
私は、美咲と家の前の縁側に座っていた。
お腹が大きくなった美咲は、もう遠くには出かけられない。だから、こうして縁側で夜風に当たるのが、彼女の楽しみになっていた。
星が、きれいだった。
虫の声が、遠くで聞こえていた。
「あのさ、美咲」
「ん?」
「子どもができたら、『菜の花』って名前をつけるって話、あったでしょ」
「うん」
「男の子だったら、どうするの?」
ふと、疑問に思ったことを聞いてみた。
美咲は、お腹に手を当てた。
「考えてない」
「あはは。考えておきなよ」
「うん。でも、女の子な気がする」
「そうなの?」
「うん」
美咲は、笑った。それから、少し黙って、空を見上げていた。
私も、一緒に空を見ていた。
美咲は、微笑んでいたよ。
でも、その目は、どこか、遠くを見ていた。
「美咲さんは……」
菜の花の声が、少し、震えていた。
「美咲さんは、何が見えてたんだろう」
ノナは、しばらく黙っていた。暖炉の火が、揺れる。
それから、ゆっくりと首を振った。
「分からない。でも」
「でも?」
「何も言わなかった。私たちには、何も」
ノナは、ふうっと息をついた。
「少し、どうでもいい話をしよう」
「何?」
「私は、女神になったんだよ」
「え?」
——妊娠九ヶ月目。もうすぐ春になろうとしていた。
朝起きて、食堂に行ったら、美咲が突然言ったんだ。
「ノナ、今日、安産のお祈りの儀式をするよ!」
「おお、そりゃいいね」
「だから、ノナ、女神様になって」
「ん?」
美咲は、嬉しそうに笑ってた。
私はアルヴィンを見た。こういうときは、アルヴィンのほうが早い。
アルヴィンが苦笑しながら説明した。
「どうやら、美咲の故郷では『ノナ』という名前の女神がいるらしいんだ」
「へえ」
「すごいでしょ」
美咲は、なぜか自慢げに言った。
「いや……どうだろう」
「その女神『ノナ』には、運命の糸を紡ぐという役割があったらしいよ」
「へえ、そりゃ大したもんだ。ポーターの私とは大違いだね」
私は肩をすくめた。
「同じようなものだと思うけど……」
美咲は首をかしげる。
「スオヤラ、どう?」
私はスオヤラのほうを見る。
「うーん、正直、同じだとは思えないな」
「そうかなあ」
美咲は、頬をふくらませて、スオヤラと私を見た。
「で、『ノナ』には、美咲の世界の言葉で『九』っていう意味もあるんだって。だから、妊娠九ヶ月の女性が、安産の祈りを捧げてたらしいんだ」
アルヴィンは、端的にまとめてくれた。
「へえ、美咲はいろんなことを知ってるね」
「好きだったんだよ。そういう話が」
美咲は、うれしそうに笑った。
「だからノナ。安産のお祈りの儀式の女神様になって」
美咲の目がきらきらしてた。断れなかった。
私は、その後、白くて薄い服を着させられて、村の広場に連れてかれた。
美咲は、私の前にひざまずいて、お祈りを始めた。
美咲が祈るとさ、空から金色の光が降ってくるんだ。
その光が、私の周りに集まってくるんだよ。
「えええ……」
私は、それなりに、神々しくなってしまった。
いや、神々しいというより、「おめでたい」って感じだった。
ちょうど、今の菜の花みたいな感じだね。
気にしてるんだから言うなって? あははは。
スオヤラが悪ノリして、私の足元に、果物やら酒やらを捧げた。
「勘弁しとくれ」
「そうか? 女神っぽいぞ」
スオヤラは、私を無遠慮に眺めまわした。
「めでたいな、ノナ」
「うるさい」
「新年のおかざりみたいだ」
「うるさい」
「まあ、俺もお祈りしとくか。とりあえず」
スオヤラが、美咲の隣に座って、お祈りをはじめた。
「え、スオヤラがやるなら、俺もお祈りしようかな。とりあえず」
アルヴィンもお祈りをはじめた。
「あんたら、とりあえずってさあ」
そしたら、村人たちが、集まってきた。
「美咲様、何をされているのですか?」
「安産のお祈りを捧げています」
「なぜ、ノナさんが、女神役なんですか?」
「女神『役』ではありません。女神ノナです」
「美咲、やめて……」
「女神ノナは、運命の糸を紡ぐ役割をもちます。皆さんも幸運を祈るとよいでしょう」
「おおお、それなら……とりあえず」
「私も、とりあえず」
「よく分からないけど、とりあえず」
「どいつもこいつも」
村人たちは、結局、全員集まって私に祈ったよ。
「あはははは」
菜の花は大笑いした。何だかほっとした。
「ひどいだろ?」
「実際はどうだったの?」
「安産だったよ」
「効いたんだ。お祈り」
「かもしれないね。でも、出産が大変なことに変わりはないさ」
ノナは、話し始める。
——春先。
村に、産婆さんがやってきた。隣の町から、わざわざ来てくれたんだ。
「もうすぐだね」
産婆さんは、美咲のお腹を触って、微笑んだ。
「元気な子だよ。よく動いてる」
「本当ですか?」
「ああ」
アルヴィンは、ずっとそわそわしていた。
「俺、何かできることはないか」
「男は、邪魔になるだけさ」
産婆さんに追い出されてた。
「でも」
「大丈夫だよ」
美咲が、アルヴィンの手を握った。
「待ってて」
「……分かった」
アルヴィンは、渋々外に出た。
スオヤラも、うろうろしてた。
「何かできることはないか」
「何もないよ」
私はスオヤラを外に出した。
夜明け前のことだった。
美咲の陣痛が始まった。長い、長い時間だった。
美咲は、汗だくになりながら、必死に頑張っていた。
「大丈夫、大丈夫」
産婆さんが、的確に指示を出す。
私は指示に従って手伝いをした。
そして。
赤ん坊の泣き声が、部屋に響いた。
「生まれたよ」
産婆さんが、小さな体を抱き上げる。
「女の子だよ。元気な女の子」
産婆さんが、赤ん坊を美咲の腕に抱かせた。
小さくて、赤くて、しわくちゃで。
でも、とても、とても、愛おしかった。
「菜の花」
美咲が、赤ん坊に語りかける。
「あなたの名前は、菜の花。私の、大切な赤ちゃん」
言葉が、涙で途切れた。
私は、その光景を見つめていた。涙が、止まらなかった。
「それが……私」
「そう」
ノナは、うなずいた。
「美咲は、お前を抱いて、何度も何度も名前を呼んでいた」
「菜の花、菜の花、って」
「うん」
「私の、大切な菜の花、って」
菜の花の頬を、涙が伝う。
——アルヴィンとスオヤラが、部屋に入ってきた。
二人とも、泣いていた。
大の大人が、声を上げて泣いていた。
「美咲……」
アルヴィンが、美咲と赤ん坊のそばに膝をついた。
「『菜の花』……俺たちの、子だ」
「うん」
美咲は、微笑んだ。
「私たちの、娘」
スオヤラが、鼻をすすりながら言った。
「いい名前だ」
「うん。ずっと決めてたんだ」
「ちょっと言いにくいけどな」
「あはは。みんなには、『ノア』って呼んでもらおうかな」
「ノア、か。いいじゃないか」
私は、少し離れたところから、その光景を見ていた。
四人と、一人の赤ん坊。
家族だ、と思った。
ノナは、笑っていた。
「幸せだったよ」
「うん」
「スオヤラは、特に菜の花を溺愛してた」
「へえ」
「溺愛しすぎて、舐めてた」
「ええ……」
「美咲とアルヴィンは大笑いしてた」
「ちょっと、止めてよ……」
二人は笑った。
「ここからは、つらい話になる」
「……うん」
菜の花は、うなずく。
「菜の花が生まれて、三ヶ月ほど経った頃」
ノナは、うつむいて、静かに言った。
「異変が、起きた」
読んでいただき、ありがとうございます。
もし気に入っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。
本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
3/27(金)まで随時に更新予定です。※更新スケジュールを変更しました。




