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母の名、子の名、そして菜の花  作者: 劇団だるい
第一章 菜の花
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春、聖域の朝

 その十年後、春の朝。

 庭の隅に植えられた木は背を伸ばし、蔦が石造りの壁にはっている。


「母さん、行ってきます!」

 明るい声とともに、菜の花が玄関から勢いよく飛び出してくる。金色の髪が、朝日を浴びて輝いている。学舎の鞄を肩に掛けている。

 あの小さかった少女は、十四歳になった。


「ああ、気をつけてね」

 家の中から、ノナの声が返ってくる。落ち着いた声だ。

「うん!」


 菜の花の家は、菜の花とノナの二人暮らしだ。

 父は、菜の花が生まれて間もない頃、魔物と戦って亡くなった——そう聞かされている。


 菜の花は手を振り、小さな家の門を抜けて石畳の道を走り出した。

「菜の花!」

 ノナが呼び止める。

「ぬえ?」

「お弁当忘れてるよ!」

 ノナが玄関に立っていた。寝癖がまだ残っている。その手には小さな包みがあった。

「ぬあああ、しまったああ」

「そんなに?」

「そんなにだよ! ありがとう!」


 菜の花は弾けるように駆けだした。束ねた髪が左右に大きく揺れる。


 菜の花が住む聖域フィルネの街を駆け抜ける。

 大通りには、早朝から人々が行き交っている。商人たちは市場に急ぎ、職人たちは朝の仕事に精を出している。


 神官や巫女たちは、祈りの塔に向かっている。


 祈りの塔は、魔王が現れた時、瘴気を抑えるために建てられたと伝えられている。以来、神官と巫女が、日々祈りを捧げている。

 祈る者たちが暮らすところに、人が集まり、この街ができた。菜の花は、この街で生まれ育った。


「お、ノアちゃん。おはよう!」

「おはようございます!」

 パン屋の店主が、小麦粉で白くなった手を振る。

 焼きたてのパンの香ばしい香りが漂っている。


 フィルネの人たちは、みんな菜の花のことを『ノア』と呼ぶ。

 この地方の言葉では『なのはな』は発音が難しく、『ノァヌァノ』になってしまう。

 だから『ノア』と呼んでもらっている。


「今日はパンが美味しく焼けたよ!」

「うん、いい匂い!」

 菜の花は笑顔で手を振り返し、そのまま人波をすり抜けていく。


 大通りから少し外れたところに、市が立っている。

 農家の人たちや漁師が客を呼んでいる。

「これ、もう少し安くならない?」

「しょうがないねえ」

 笑い声と交渉の声が入り混じる。


 市場の奥に差しかかったとき、薬草屋の店先に人だかりが見えた。

 店主のおばあさんが、椅子に座って目を閉じていた。なじみの薬草屋だ。菜の花は、ノナのお使いで、よくこの薬草屋で買い物をしていた。


「おばあちゃん?」

 菜の花が声をかけると、おばあさんはゆっくりと目を開けた。

「ああ……ノア。大丈夫だよ。朝から、少し息が苦しくてね」


 近くにいた商人が、水を持ってきてくれた。

「最近、多いよなあ。うちのかみさんも先週寝込んでた」

「瘴気が濃くなってきてるってさ。咳き込む人、増えただろ」

 周りの商人たちが、口々に言う。


「心配しなくていいよ。ちょっと休めば治るから」

 おばあさんは、菜の花の手をぽんと叩いた。その手が、少し冷たかった。

「……うん。無理しないでね」

 菜の花は、何度も振り返りながら、市場を後にした。


 ちりん、ちりん。

 鈴の音が聞こえる。神官と巫女が、祈りの塔に向かうときに鳴らす鈴の音だ。

「おはようございます! 神官様、巫女様!」

「おはよう、ノア」

「あら、おはよう」

 菜の花は二人に頭を下げた。


 遠くに祈りの塔が見える。白く、高い塔だ。

 菜の花は子どもの頃からあの塔を見て育った。


「お祈り、お疲れ様です!」

「ありがとう、ノア」

「うふふ、がんばりますわ」

「それにしても、最近、お祈りの時間が増えたよなあ」

 神官がぼやく。

「最近、封印が弱まっていますから」

 巫女が心配そうに塔を見る。


「森の木が枯れて、魚も減っているって……先生も言ってました」

 菜の花は学舎で聞いた話を伝える。

「うん。お祈りをがんばらないとな」

 神官と巫女はうなずく。


 十五年ほど前、勇者と聖女が魔王ハノを封印した。それ以来、瘴気は落ち着いていたが、近頃、再び濃くなり始めている。


 聖女と勇者が、もう一度『封魔の森』へ行って祈る必要がある——学者たちはそう言っているそうだ。けれど、封印以来、勇者も聖女も現れていない。

 だから今は、塔の祈りでどうにか押さえ込んでいる。

 菜の花はそう教わっている。


 大通りの掲示板に、紙が貼り出されている。


『昨夜、東の森の境界付近で魔物の目撃情報あり。

 魔物が増えているので、夜間の外出を控えるように』


 魔物とは、人間に害をなす生き物だと、学舎で教わっている。菜の花はまだ、魔物を見たことはない。

 瘴気によって、魔物が増え、強くなっているそうだ。


 菜の花は掲示板から目を離し、歩き出す。


「せいっ!」

「やーっ!」

 剣と剣がぶつかり合う、乾いた音が響く。

 学舎へ向かう道の途中に、聖域の訓練場がある。石畳の広場の中央で、守護騎士たちが朝の訓練をしていた。

 若い騎士見習いたちも、汗を流しながら木剣を振っている。

「腰が入ってない! もう一度!」

 ベテラン騎士の声が飛ぶ。


 ドサッ。

「ぬあっ?」

 見習いが一人、菜の花の目の前まで吹き飛ばされてきた。銀髪の少年だ。菜の花より背が高い。痩せているが、手足が長い。

 砂埃まみれで、頬の擦り傷が痛々しい。


「大丈夫?」

 菜の花は思わず声をかける。

「痛てて……うん、大丈夫。ありがとう」

「リオン! もう一度だ!」

「はい!」

 リオンと呼ばれた少年は、膝の砂を払いもせず、再び訓練場へ走っていった。


 菜の花は、訓練場の柵の外から、その様子をじっと見つめる。

 魔物の襲撃が増えている。訓練をする騎士たちの表情は、以前より引き締まっている。


 どうか、みんなが無事でありますように。小さく祈る。

 そして、学舎へと続く道を歩き出した。


「ノア!」

 菜の花を呼ぶ声に振り向くと、リーネとミラが手を振っていた。

「リーネ、ミラ! おはよー!」


 リーネとミラは、菜の花の幼なじみだ。

 リーネは商家の娘で背が高く、しっかり者——でも実は、ちょっと大雑把。

 ミラは文官の娘で小柄。いつも笑顔を絶やさない。こまごまとしたことが得意だ。

 三人並ぶと、リーネが一番高くて、菜の花が真ん中で、ミラが一番小さい。ミラはそれをちょっと気にしている。


「ノア、昨日の算術の課題、やった?」

 リーネが尋ねる。

「うん、やったよ」

「お、めずらしい」

「何だよう」

 三人は笑いながら、学舎に向かって歩き出した。


読んでいただき、ありがとうございます。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。


本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。

3/29(日)まで毎日20時に更新予定です。

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