翌朝
朝、鏡を見ると、目の下にうっすらと隈ができていた。
「やばい……」
冷たい水で顔を洗う。けれど、頭の中はまだ回っている。
「菜の花の母の名はノナ」——なのはなのははのなはのな。
止めようとしても、止まらない。
重い足取りで家を出た。
学舎への道。
いつもなら、大通りの賑やかな音が聞こえてくる。市場で野菜や魚を売る声。
パン屋の店主が「おはよう!」と声をかけてくれた気がする。
手を振り返した気がする。
「ノア!」
リーネの声が聞こえる。顔を上げると、リーネとミラが手を振っている。
菜の花は、お腹にぐっと力を込めた。
「おっはよー!」
いつもと同じ調子の、同じ声になったはずだ。
「お、見なよ、ミラ。ノアが無理してるぞ」
「そうだね、リーネ。ノアが無理してるね」
「ふなっ?」
「変な反応をするのはいつも通りだな」
「そうだね」
「……ノア、大丈夫か?」
リーネとミラが、心配そうに菜の花の顔をのぞき込む。
「うん、ちょっと寝不足で」
「また回文作ってたの?」
「ええと、うん……」
菜の花は曖昧にうなずく。
「あのさ……リーネ、ミラ」
菜の花は言葉を探しながら続けた。
「私の話じゃないんだけどね」
「うん」
「一般論としてね。自分の名前が日本語の回文になってたとしてさ」
「そんな一般論はない」
「あ、あるんだよ、ところが」
「分かった。続けて」
「でも、なぜその回文ができているのか、理由が全く分からないんだ」
「だろうね」
「それで、自分の名前って何だろうとか、母さんは何を隠してるんだろうとか……ぐるぐる考えてる友だちがいたら、どうする? 一般的な事例として」
「一般的な事例には見えないけど……」
リーネは肩をすくめた。それから少し真面目な顔になった。
「……その悩みの、ゴールは何?」
「え?」
「ゴールが分からないうちは、同じところを回り続けるよ」
リーネは指先で、くるくると円を描いた。
「ミラぁ、リーネが意味分かんないこと言うよう」
「めっちゃ良いこと言ったんだけどなあ」
リーネはミラを見る。
「ミラはどう思う?」
「うーん……」
ミラは、少し考えてから、にっこり笑った。
「ノア、ミルクティー、好き?」
「え、うん」
菜の花はうなずいた。聖域では冬になると、温かいミルクティーを飲む。
苦いお茶にミルクと蜂蜜を入れる、甘くて優しい味だ。
ミラは頬に手を当てる。
「あれってさ、お茶の中に、白いミルクをとろとろ入れていくと、最初はお茶の茶色の部分とミルクの白の部分が分かれてるでしょ」
ミラが、混ざっていない様子を両手で表現する。右手と左手を、離したまま。
「うん」
確かに最初は、茶色と白が別々だ。
「そうなってるときは、だめよ」
ミラが、きっぱりと言う。ミラの丸い目がまっすぐに菜の花を見ている。
「……それで?」
菜の花が続きを促す。けれどミラは首をかしげる。
「それでって……、これで、おしまいだけど」
静寂。
菜の花は、困惑する。
「えっと……」
菜の花が、言葉を探す。
「つまり……かき混ぜろってこと?」
菜の花は、スプーンでかき回すしぐさをする。
「結果として、混ざるならそれもいい」
ミラは、満足気な顔をしている。どうやらミラの話は終わったらしい。
「リーネ、どうしよう。ミラのほうが意味分かんなかった」
「えええ」
ミラが膨れる。リーネが笑う。菜の花も、つられて笑った。
「安心しろ、ノア。今のは、私にも全く分からなかった」
「ええ? リーネも分かんなかったの?」
ミラがさらに膨れる。
「ありがとう、ミラ。でも、少し楽になった」
「うん」
「意味分かんなかったけど」
「なんだとう」
ミラが菜の花の腕をぺしぺし叩く。全然痛くない。
「リーネもありがとう」
リーネが菜の花の頭をなでる。
「まあ、私たちがいるから」
「……うん」
その日の授業は、全く頭に入らなかった。
菜の花は、ノートに書き続ける。本来なら、授業の内容を書くはずのページ。
けれど、そこには、同じ言葉が何度も書かれている。ぐるぐる、ぐるぐる。
「はい、今日のところは試験に……」
教室の視線が菜の花に集まる。
「出しません」
「ほえ?」
「ノア、顔色が悪いですよ。無理はしないように」
何も言えなかった。先生の優しさが、かえって胸に刺さった。
「大丈夫?」
隣のリーネが、小さく声をかける。
菜の花はうなずいた。
「うん、大丈夫じゃないね」
ミラが後ろの席から、そっと菜の花の背中をなでた。小さい手だった。温かい。
その日の放課後、菜の花は図書館に寄らなかった。
真っ直ぐ家に帰る。けれど、家に戻るとノナは留守だった。
机の上に、短いメモがある。
——薬草を採りに行ってくる。秋のうちに採っておきたい素材がある。
一週間ほど留守にする。私のことだから、一週間で帰れないかもしれない。家を頼む。
菜の花は、少し笑った。
ノナは、ときどき依頼の薬に必要な薬草を採りに出る。でも、方向音痴で、よく道に迷う。
それにしても、今回は、ずいぶん急な話だ。
でも、逆に都合がよかったかもしれない。なんだか顔をあわせづらかったから。
母さんは、何を探しているんだろう。迷子になってないかな。大丈夫かな。
菜の花は自分の部屋に戻り、窓辺に座った。
ノートを開いて、もう一度、あの言葉を見つめる。
「菜の花の母の名はノナ」——なのはなのははのなはのな。
絶対に、何か意味がある。
でも、それが何なのかは、まだ分からない。
なぜ、この言葉が回文になるのか。
母さんは、これが日本語の回文になっていることを、初めて知ったようだった。
だとすると、なぜ母さんは、菜の花に言い聞かせてきたのか。
窓の向こうに、塔が見えた。
夕暮れの空に、白く立っている。
『菜の花』の名前。ノナはお世話になった人からもらった、と言っていた。その人は、誰だろう? なぜ日本の花の名前にしたんだろう?
すべてが、どこかでつながっているような気がする。けれど、その糸の先が見えない。
風が吹き、窓がかすかに鳴った。
菜の花はノートを机の上に置き、部屋を出る。
成人の儀は春。あと三ヶ月後だ。それまでは、待とう。母さんを信じるんだ。
菜の花は、そう自分に言い聞かせた。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
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