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母の名、子の名、そして菜の花  作者: 劇団だるい
第一章 菜の花
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翌朝

 朝、鏡を見ると、目の下にうっすらと隈ができていた。

「やばい……」

 冷たい水で顔を洗う。けれど、頭の中はまだ回っている。


「菜の花の母の名はノナ」——なのはなのははのなはのな。


 止めようとしても、止まらない。

 重い足取りで家を出た。


 学舎への道。

 いつもなら、大通りの賑やかな音が聞こえてくる。市場で野菜や魚を売る声。

 パン屋の店主が「おはよう!」と声をかけてくれた気がする。

 手を振り返した気がする。


「ノア!」

 リーネの声が聞こえる。顔を上げると、リーネとミラが手を振っている。


 菜の花は、お腹にぐっと力を込めた。

「おっはよー!」


 いつもと同じ調子の、同じ声になったはずだ。


「お、見なよ、ミラ。ノアが無理してるぞ」

「そうだね、リーネ。ノアが無理してるね」

「ふなっ?」

「変な反応をするのはいつも通りだな」

「そうだね」

「……ノア、大丈夫か?」

 リーネとミラが、心配そうに菜の花の顔をのぞき込む。


「うん、ちょっと寝不足で」

「また回文作ってたの?」

「ええと、うん……」

 菜の花は曖昧にうなずく。


「あのさ……リーネ、ミラ」

 菜の花は言葉を探しながら続けた。

「私の話じゃないんだけどね」

「うん」

「一般論としてね。自分の名前が日本語の回文になってたとしてさ」

「そんな一般論はない」

「あ、あるんだよ、ところが」

「分かった。続けて」


「でも、なぜその回文ができているのか、理由が全く分からないんだ」

「だろうね」

「それで、自分の名前って何だろうとか、母さんは何を隠してるんだろうとか……ぐるぐる考えてる友だちがいたら、どうする? 一般的な事例として」


「一般的な事例には見えないけど……」

 リーネは肩をすくめた。それから少し真面目な顔になった。


「……その悩みの、ゴールは何?」

「え?」

「ゴールが分からないうちは、同じところを回り続けるよ」

 リーネは指先で、くるくると円を描いた。


「ミラぁ、リーネが意味分かんないこと言うよう」

「めっちゃ良いこと言ったんだけどなあ」


 リーネはミラを見る。

「ミラはどう思う?」

「うーん……」

 ミラは、少し考えてから、にっこり笑った。


「ノア、ミルクティー、好き?」

「え、うん」

 菜の花はうなずいた。聖域では冬になると、温かいミルクティーを飲む。

 苦いお茶にミルクと蜂蜜を入れる、甘くて優しい味だ。


 ミラは頬に手を当てる。

「あれってさ、お茶の中に、白いミルクをとろとろ入れていくと、最初はお茶の茶色の部分とミルクの白の部分が分かれてるでしょ」

 ミラが、混ざっていない様子を両手で表現する。右手と左手を、離したまま。


「うん」

 確かに最初は、茶色と白が別々だ。


「そうなってるときは、だめよ」

 ミラが、きっぱりと言う。ミラの丸い目がまっすぐに菜の花を見ている。


「……それで?」

 菜の花が続きを促す。けれどミラは首をかしげる。

「それでって……、これで、おしまいだけど」


 静寂。


 菜の花は、困惑する。

「えっと……」

 菜の花が、言葉を探す。

「つまり……かき混ぜろってこと?」

 菜の花は、スプーンでかき回すしぐさをする。


「結果として、混ざるならそれもいい」

 ミラは、満足気な顔をしている。どうやらミラの話は終わったらしい。


「リーネ、どうしよう。ミラのほうが意味分かんなかった」

「えええ」

 ミラが膨れる。リーネが笑う。菜の花も、つられて笑った。


「安心しろ、ノア。今のは、私にも全く分からなかった」

「ええ? リーネも分かんなかったの?」

 ミラがさらに膨れる。


「ありがとう、ミラ。でも、少し楽になった」

「うん」

「意味分かんなかったけど」

「なんだとう」

 ミラが菜の花の腕をぺしぺし叩く。全然痛くない。

「リーネもありがとう」

 リーネが菜の花の頭をなでる。

「まあ、私たちがいるから」

「……うん」


 その日の授業は、全く頭に入らなかった。

 菜の花は、ノートに書き続ける。本来なら、授業の内容を書くはずのページ。

 けれど、そこには、同じ言葉が何度も書かれている。ぐるぐる、ぐるぐる。


「はい、今日のところは試験に……」


 教室の視線が菜の花に集まる。


「出しません」

「ほえ?」

「ノア、顔色が悪いですよ。無理はしないように」

 何も言えなかった。先生の優しさが、かえって胸に刺さった。


「大丈夫?」

 隣のリーネが、小さく声をかける。

 菜の花はうなずいた。

「うん、大丈夫じゃないね」

 ミラが後ろの席から、そっと菜の花の背中をなでた。小さい手だった。温かい。


 その日の放課後、菜の花は図書館に寄らなかった。

 真っ直ぐ家に帰る。けれど、家に戻るとノナは留守だった。

 机の上に、短いメモがある。


——薬草を採りに行ってくる。秋のうちに採っておきたい素材がある。

 一週間ほど留守にする。私のことだから、一週間で帰れないかもしれない。家を頼む。


 菜の花は、少し笑った。

 ノナは、ときどき依頼の薬に必要な薬草を採りに出る。でも、方向音痴で、よく道に迷う。


 それにしても、今回は、ずいぶん急な話だ。

 でも、逆に都合がよかったかもしれない。なんだか顔をあわせづらかったから。

 母さんは、何を探しているんだろう。迷子になってないかな。大丈夫かな。


 菜の花は自分の部屋に戻り、窓辺に座った。

 ノートを開いて、もう一度、あの言葉を見つめる。


「菜の花の母の名はノナ」——なのはなのははのなはのな。


 絶対に、何か意味がある。

 でも、それが何なのかは、まだ分からない。


 なぜ、この言葉が回文になるのか。


 母さんは、これが日本語の回文になっていることを、初めて知ったようだった。

 だとすると、なぜ母さんは、菜の花に言い聞かせてきたのか。


 窓の向こうに、塔が見えた。

 夕暮れの空に、白く立っている。


『菜の花』の名前。ノナはお世話になった人からもらった、と言っていた。その人は、誰だろう? なぜ日本の花の名前にしたんだろう?


 すべてが、どこかでつながっているような気がする。けれど、その糸の先が見えない。


 風が吹き、窓がかすかに鳴った。

 菜の花はノートを机の上に置き、部屋を出る。


 成人の儀は春。あと三ヶ月後だ。それまでは、待とう。母さんを信じるんだ。

 菜の花は、そう自分に言い聞かせた。

読んでいただき、ありがとうございます。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。


本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。

3/29(日)まで毎日20時に更新予定です。

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