名
菜の花は、リーネとミラと市場で遊んでから家に帰った。
ノナは台所で夕食の仕度をしていた。
木べらが鍋肌に当たる音が聞こえる。野菜を煮込む甘い匂いがする。
「ただいま」
「おかえり」
「薬草、買ってきたよ」
菜の花は、鞄から布袋を取り出してノナに渡す。
「ありがとう。助かるよ」
ノナは袋の中をのぞき込み、満足そうにうなずいた。
「『夜になっても葉が閉じない夜眠り草の葉っぱ』の効能は、『ギンギン』だって……」
「ああ、そっちの効能もあるけどね。今回は別の効能を使うんだ」
「どんな効能?」
「うーん、『打破』かな。打ち勝つ力」
「何それ」
「気力の底上げをする効果だ。病気やケガには、最後は気力が重要なんだ」
「へえ」
「まあ、『ギンギン』も『打破』も根っこは同じなんだけどね」
「ふーん。で、何を作ろうとしているの?」
「秘密だよ」
相変わらず、徹底している。
「母さん、私、ちょっと部屋で勉強してくるね」
「分かった。夕食ができたら呼ぶよ」
「うん」
菜の花は、階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
ノートを開き、羽根ペンを手に取った。
「菜の花、夕食できたよ」
ノナの声で、時間が一気に戻ってきた。
「うん、今行く!」
慌てて階下に降り、菜の花は席に着いた。
「いただきます」
菜の花は、スープを一口飲む。温かくて、優しい味。でも、菜の花の頭の中は、まだ回文でいっぱいだった。
「スープは、うまくいかないんだよなあ」
回文にならない単語は、直感的に分かるようになってきた。
「あれ、おいしくなかった?」
「あ、なんでもない。おいしいよ」
菜の花は、慌てて首を振る。
ノナはそんな菜の花を見て、小さく笑う。
自分の部屋に戻り、菜の花は窓辺に座った。
羽根ペンを手に取る。今日は何を題材にしようか。視線が、窓に向かう。
「塔」
白い姿が月の光で浮かび上がっている。
「塔……とう、うと……ああ、ある」
菜の花は、『うと』から始まる言葉を探す。
「『疎い』があるね。生まれた時から見てるのに。ああ、『尊い』もある」
菜の花は、文字を書く。
「見つけた」
「尊い塔と疎い塔と」——とうといとうとうといとうと。
祈りの塔のことは、聖域の一般居住者にはあまり知らされていない。魔王の瘴気から守ってくれる尊い塔。でも、その正体はよく分からない。だから、疎い塔。
その後も、菜の花は何度も試行錯誤を繰り返した。
時計の針が進む。夜が更けていく。
ふと、自分の名前をひっくり返してみる。
「なのはな……。な、は、の、な……あ、『ノナ』が入ってる」
前に回文の話をしたとき、ノナは「へえ、どんなものなの?」と言っていた。
でも、ノナは回文を知っている気がする。
「母さん……母さん、母……はは」
あ、ここに何かある。
試しに、子どもの頃に何度も聞いた言葉を、日本語で書いてみる。
「菜の花の母の名はノナ」——なのはなのははのなはのな。
文字を見つめる。それから、後ろから読んでみる。手が、震えた。
回文になっていた。最初が最後につながる、円の形をしている。
菜の花は立ち上がり、何度も確認する。部屋の中を歩く。歩かずにはいられない。
……間違いない。
母さんは、なぜ、こんな完璧な回文を、子守唄のように言い続けていたのか。
「偶然……?」
そんなことあるだろうか。菜の花は、ノートを握りしめた。
ノナは、まだ起きているはずだ。部屋を出て、階段を降りる。
居間に行くと、ノナが暖炉の前で薬草を調合していた。
「母さん」
「どうしたの。もう遅いよ」
「聞きたいことがあって」
菜の花の真剣な声に、ノナが手を止めて振り返る。
「日本語の『回文』って、本当に知らない?」
「……あまりね」
「知ってたんだね」
「ちょっとね」
菜の花はノートを差し出す。
そこには、「なのはなのははのなはのな」と日本語で書かれている。
「これは?」
ノナは、日本語は読めない。
「母さんが言ってた『菜の花の母の名はノナ』ってね、日本語だと回文になるんだ」
「……へえ」
ノナは、じっとノートに目を落とす。
「これは、最初から読んでも、最後から読んでも同じなんだね?」
ノナが顔を上げて、菜の花を見た。
「うん」
「そう。そうなんだね」
「ねえ、母さん。どうして、これが回文になるの?」
ノナは黙って菜の花を見つめた。それから、窓の外を見た。祈りの塔を見ている。
やがて、小さく息をついた。
「ごめん。今は、まだ話せない」
「どうして?」
「話す内容が、決まっていないから」
「どうして、今決まらないの?」
「時が来ないと、決まらないものだから」
「……その時は、いつ?」
「春。菜の花が十五歳になって、成人の儀が終わったら」
ノナは優しく、けれど揺るぎない声で言った。
「それまで、待っておくれ」
ノナは、菜の花の目を見つめた。
笑っているような、泣いているような、不思議な目だった。
菜の花は唇を噛んだ。まだ聞きたいことが、たくさんある。でも。
「……分かった」
菜の花はうなずいた。唇を、きゅっと結んでいた。
「ありがとう」
ノナが娘の頭をなでる。
「もう寝なさい。明日も学舎でしょう?」
「うん」
菜の花は部屋に戻った。
けれど、その夜はほとんど眠れなかった。
回文のこと。母さんの秘密のこと。そして、自分の名前のこと。
頭の中でぐるぐると回り続けた。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
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