菜の花という名前の子
ノナから、敬愛する美咲さんへ。
この物語は、美咲さんの愛する世界の言葉で紡ぎました。
どうか、あなたに届きますように。
「おかーたん、みちゅけた!」
母を見つけたうれしそうな声が、静かな夜に響く。
「見つかった」
ノナは、机の下から顔をのぞかせた。
茶色の髪をひとつに束ね、笑うと目尻がやわらかい。薬草を扱う仕事のせいか、指先に乾いた薬草の匂いが残っている。
「あははは」
四歳の娘が笑っている。
金色の髪が月明かりに淡く光っている。
「さ、菜の花、そろそろ寝る時間だよ」
「もういっかい」
菜の花と呼ばれた子は、かくれんぼをせがむ。
「じゃあ、ベッドでお話してあげるよ」
「うん!」
菜の花は二階へ駆けていった。ノナは、のんびり追いかける。
質素だが清潔な寝室。
窓から差し込む月明かりが白い壁を照らしている。
「おかーたん、おはなち、ちて」
お話をねだる幼い声。毛布の中から、菜の花がこちらを見上げている。
「はいはい」
ノナは、小さなベッドの脇に座った。
「どんな話がいい?」
ノナは娘の頭をなでた。柔らかな髪が指の間をすり抜ける。
「ゆーちゃたまと、せーじょたまのおはなち」
勇者様と聖女様のお話。
菜の花はすぐ答えた。いつもと同じ話だ。
「またそれ?」
「だって、いちばんちゅきなんだもん。せーじょたまが、おならぷーちたおはなち。あはははは」
「ああ、それもいいけど、そうだねえ……」
ノナは少し遠い目をした。それから、ゆっくりと語り始める。
「昔々、恐ろしい魔王が現れました」
「こわーい」
菜の花が毛布を顔まで引き上げる。
「魔王は、瘴気という、悪い空気をまき散らし、人々を苦しめました」
「なんで?」
「なんでだろうねえ。人間が嫌いだったのかねえ」
「ふーん」
「そこに勇者様と聖女様が現れました。勇者は魔王を封じる力を持っていました」
「せーじょたまは?」
「聖女様は瘴気をきれいにする力」
ノナの声がやわらかくなる。菜の花は、目を輝かせて聞いている。
「勇者様と聖女様には、仲間がいました」
「たてちとポーター!」
盾士とポーター。菜の花はもう何度もこの話を聞いているので、すっかり覚えている。
それでも聞きたがる。
「仲間たちは、大変だけど楽しい旅をしました」
「せーじょたまが、おはなを さかせようと おいのりちたら、おならがでたり?」
「その話、好きだねえ」
「ゆーちゃたまが、おぱんちゅ いっちょうで、むらびとのまえに あらわれたり?」
「あははは。そうだねえ」
「たてちたんが、おたけを のみすぎて、たてを なくちたり?」
「ダメな酒飲みだねえ」
「ぽーたーたんが、まいごになって ないたり?」
「そんなこともあったみたいだねえ」
「あははは」
菜の花は、魔王との戦いの話より、勇者と聖女たちの旅の話が好きだった。
「仲間たちは、高くて寒い山を越え、深くて暗い森を抜けて、何年もかけて、魔王のいる地へとたどり着きました」
「おおお」
「みんなは力を合わせて、魔王ハノと戦いました」
「まおー、はのはの」
「そんな可愛いもんじゃないよ」
「あはははは」
「怖いんだよ。牙が鋭くて、がおーって」
「こわーい」
「仲間たちは、激しい戦いの末、魔王を封じることに成功しました。でもね……」
ノナは言葉を継いだ。
「勇者と聖女、それに盾士も、大きなけがをしてしまいました」
菜の花の表情が曇る。
「三人は、もう帰ってくることができませんでした。だから……」
ノナは娘の手を握った。
「一人残った仲間に、大切なものを託しました」
ノナは、いったん言葉を置く。
「それはね——」
「あかちゃん」菜の花が続けた。
何度も聞いているから、続きを知っている。
「そう。勇者様と聖女様の、大切な小さな赤ちゃん。聖女の仲間は、その赤ちゃんをとても大切に育てましたとさ」
「そのあかちゃん、どうなったの?」
「きっと、幸せに育ったよ。はい、おしまい」
「もういっかい!」
「おーしーまい。てんてれてんてんてーんてん」
ノナは、話の終わりの合図を歌う。
「もっと、おーはーなーちー!」
「今日はここまで」
「えー」
菜の花が不満そうに唇を尖らせた。
「ねえ、おかーたん」
「なんだい?」
「のぬあのは、なんで、のぬあのっていうおなまえなの?」
菜の花は、自分の名前『菜の花』をうまく言えず、『のぬあの』になっている。
「変かな?」
「へんじゃないけど……おかーたんのなまえと ちがうかんじがする」
「そうだねえ」
ノナは、ゆっくりと菜の花の頭をなでた。
「菜の花の名前は、母さんがお世話になった人からもらったんだよ」
ノナはそっと毛布を直した。
「小さくて黄色い花がたくさん咲く、とってもきれいな花なんだって」
「ふんふふーん」
ノナが、静かに歌いはじめる。子守唄のように。
それから、いつもと同じ言葉を紡ぐ。
「ねむれ ねむれ 菜の花は」
低く、やさしい声。
「美しく咲く お花の子」
静かに、夜が更けていく。
「菜の花の 母の名は……」
子守唄が、夜の空気に溶けていく。
「おかーたん……」
「ん?」
規則正しい寝息。
月明かりの中、ノナは眠る娘の寝顔を見つめていた。
「菜の花の母の名は、ノナ」
ノナはつぶやいた。
窓の外では、春の始まりを告げる風が、木々を揺らしている。
遠く、窓の向こうに『祈りの塔』が見える。塔は月の光を受けて、静かに白く佇んでいる。
ノナはそっと部屋を出て、階段を降りていった。小さな家に、静寂が戻る。
菜の花は、美しく咲く花の子。
菜の花の母の名はノナ。
——春に咲く黄色い小さな花。
その名をもつ子はまだ何も知らず、いまは穏やかに眠っている。
その寝息だけが、静かな夜の中で、かすかに続いていた。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
3/29(日)まで毎日20時に更新予定です。




