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イサベルと別れた俺は、ゴブリン所長に用事があって、彼のいる事務所の前にやって来た。
ちょうど仕事終わりなのか、十数人の人間がみすぼらしい格好で歩いてくる。
「金もらったら一杯ひっかけに行くか?」
「お前が奢るのか? 俺は家賃払わなきゃならなくて金ねえんだけど。」
毎日のように聞いてきた言葉。
どうして一字一句違わず、こうも同じなんだ。
「俺に金なんかあるかよ。食って死ぬ分しかねえよ。」
「ふざけんな、じゃあなんで行こうって言ったんだよ。なあ、それなら一発やるか?」
「なんかいいネタあんのか?」
「所長の野郎、腕がイカれたらしいぜ。俺たちで……おい、何見てんだ?」
腕? 腕がどうしたっていうんだ?
話を聞いているのが気に食わなかったのか、途中で会話を切り上げて事務所へ上がっていく二人。俺がいない間に入った新人なのか、初めて見る顔だった。
気にはなるが。
どうせ事務所に行けば分かることだ、急ぐ必要もない。
コツ、コツ。
俺は鉄製の階段を上り、
ゴブリン所長のいる事務所の扉を開けた。
「この野郎ども! あれはやるなって言っただろ! 言ったよな!?」
怪我をしたとは聞いていたが。
扉を開けた瞬間、耳をつんざく怒鳴り声が響いた。
「お変わりないようで。」
「ん? おい、ユジンじゃねえか? 何して回ってたら、こんなに顔出さねえんだ。突っ立ってねえで入れ。」
俺は椅子を引き寄せ、所長の前に座った。
すると、服に隠れてよく見えなかった腕に目が行く。
右腕に包帯が巻かれ、所々血が滲んでいる様子から、相当ひどい火傷を負ったように見えた。
俺の視線に気づいた所長は、書類で腕を隠しながら大したことないと言わんばかりに言った。
「ラーメン食ってて腕にぶちまけちまってな。末っ子がまだ乳も離れてねえから、俺がこうして働いてるってわけだ。しばらく見ねえと思ったら、特に変わりねえか?」
「覚醒して、ここで働くより百倍は稼いでるってこと以外は、特に何も。」
「そりゃ羨ましいこった。」
舌で唇を湿らせ、本気で羨ましがっている様子を見ながら、俺はここに来た理由をそれとなく切り出した。
「それで、今ちょうど狼を一匹狩ってきた帰りなんですがね。皮がいまいちで、どうやら赤字になりそうで。」
「ほう? 狼はでかかったろうに、よく仕留めたな。掃除だけじゃなく狩りの才能もあるみてえだ。乳臭かったのが昨日のことみたいだが……何をやってるかは知らねえが、今の仕事がダメになったら戻ってこい。経験者扱いで時給は倍にしてやる。」
「相変わらず縁起でもない。」
隠された腕を見て、問いかけた。
「それより、写真渡すならすぐ渡せばいいのに、なんで腕をイカす羽目になったんです?」
「この野郎、言い方ってもんがあるだろ。早く渡そうとしたんだがな。気絶して、目が覚めたら全部持っていかれてたんだ。これで満足か?」
「チッ。俺だったら、腕がイカれる前に渡してましたね。そんな気が利かなくてどうするんです。写真を数枚渡したからって、俺みたいなイケメンに似るわけでもないんだから、次からは何かあったらすぐ渡してください。」
ここにこれ以上用はない俺は、席を立った。
「帰るのか?」
「ここにいたって金も湧かない場所で何するんです。顔見たから十分です。じゃあ、行きます。」
「あとで出世したら、俺のこと忘れるなよ!」
事務所を出る途中。
下で見かけた連中とすれ違ったが。
彼らは俺が出て行くのを待っていたかのように、顔を上げなかった。
家に帰る前、俺は少し外で風に当たり、短剣を取り出した。
◇
ゴブリン所長に会った翌日。
雀のさえずりで重い瞼を半分ほど開けると、腹の上に子犬ほどのドラゴンが乗っているではないか。
ああ、夢か。
夢の中の夢ってやつか。
昨日はいろいろあったから、妙な夢を見るもんだ。
だが、目をこすっても、手で払っても、目の前から消えなかった。
涙が滲むほど太腿をつねってみて、ようやく夢じゃないと分かった。
どこかで見たような……。
記憶を辿っていると、澄んだ声が聞こえてきた。
「何をしている?」
「……幽霊が喋った?」
「その精神状態では、力を得ても弱いのも理解できるな。」
その言葉を聞いた瞬間、頭に電流が走った。
以前見たものとサイズが違いすぎて、思い出せなかっただけだ。
「お前、俺と契約したドラゴンか?」
「ようやく思い出したようだな。」
「ああ、思い出した。忘れられるわけないだろ。でも名前なんだっけ?」
「……なぜ分からない?」
「一回聞いただけで覚えられるかよ。」
本来なら、重要なことはよく覚えている方なんだが、あの時の出来事は現実感がなさすぎて、細かいことは忘れてしまった。
「カール・アイリアン、シルバードラゴンだ。」
「そうだ、カール・アイリアン。それで、なんでお前がここにいるんだ? 死んだんじゃなかったのか?」
「そうだ。死体すら残せずに死んだ。だが、お前の胸には我が心臓があるだろう……」
アイリアンの話の要点はこうだ。
契約の際、俺を監視するために、ドラゴンハートが耐えられる分の魂を一緒に入れたらしい。
それって、幽霊じゃねえか。
何が違うんだ。
「なんで今になって姿を現したんだ?」
「一度眠りについた身だ。何の代償もなく姿を見せることはできなかった。最近得たカルマによって、わずかな時間だけ姿を保てたのだ。」
「カルマ?」
「そうだ。」
カルマとは、一つの生命が生きる中で積み重ねてきた業のことらしい。
最も簡単にカルマを得る方法は、生きている生命の死に関わることだと言う。アイリアンの話では、俺が昨日契約して以降、姿を現すための最低限のカルマを満たしたため、こうして現れたのだそうだ。
アイリアンは俺を上から下まで眺めると、
刃のような言葉を平然と吐き捨てた。
「これほど才能のない者だと知っていたら、契約などしなかったものを。」
「なら、返せばいいだろ。」
「本気か? お前の魂が引き裂かれるぞ。」
「いや、言ってみただけだ。冗談だって分かるだろ?」
魂は質に取られないと言っていなかったか?
どうやら契約破棄の際には問題があるらしい。
力を与えられても契約を強制されることはなく、
魔王を殺すなんて荒唐無稽なことはしなくていいと思っていたのに。
今では引き剥がすこともできない幽霊が憑いたようなものだ。もういい日々は終わったな、と思う。
だが、境地を上げることには俺自身も興味がある。
「この身の前で冗談とは。精神力だけは優れているな。」
厳かな口調と態度ではあったが、まるでそうは見えなかった。
俺も空気は読めるので、思ったことをわざわざ口に出しはしなかった。
「次にいつカルマを集められるか分からん。時間は多くない。これからは必要なことだけ話す。もう一度言うが、お前は我が力を受けてなお弱い。力を鍛えよ。」
「どうやって?」
「それはお前自身で考えることだ。」
「いや、なんだそれ。全部教えてくれそうな言い方しといて。じゃあお前はどうやって強くなったんだ?」
「我はシルバードラゴン、カール・アイリアン。息をするだけで強くなるのが当然だった。ゆえに人間が強くなる方法は知らん。」
アイリアンとはそれほど話していないが、これ以上聞いても答えは出ないと悟った。
それでも最後に一つだけ聞くことにした。
「俺にもドラゴンハートがあるんだろ。じゃあ、息してるだけで強くなるんじゃないのか?」
「そんなわけがない。そなたにあるドラゴンハートは欠片となり、不完全な状態だ。だが、それはそなたにとって幸いなことだ。完全であれば、その身が耐えられなかっただろう。」
確かに、あの巨体の心臓にしては小さすぎた。
となると、以前のように日ごとに強くなる方法はないのか?
「どうやって魔王を殺せって言うんだ? 俺には才能がないって言ったくせに。」
「簡単だ。ドラゴンハートを完全なものにすればいい。それだけで、今とは比べ物にならぬ力を得られる。」
なんだ、ただの重荷かと思ってたが、使い道はあるじゃないか。
俺は胸を躍らせながら、どうすればいいのか……
いや待て、さっき完全だったら俺は死んでたって言わなかったか?
「心臓が完全だったら俺は死ぬって言ったよな?」
「だから同族を探すのだ。同族の心臓を分け与えられ、別の属性を得れば問題ない。」
「それならやってみる価値はあるな。同族はどこにいる?」
「それをどうやって会うかというと……おっと、時間切れだ。次に会う時は、十分なカルマを集めておくがいい……」
アイリアンは蜃気楼のように消え去り、俺は太腿をつねった。
痛いところを見ると、夢ではなかった。
ともあれ、カルマを集めろ、今でも強いがもっと強くなれ、と言い残して消えたわけだが、
ちょうど傭兵の仕事を探そうとしていたところだった。
都合がいい。
ミノやマルコも傭兵で一花咲かせたと言っていたし、俺にできない理由があるか?
食事は食べ残しのサンドイッチで簡単に済ませ、俺は傭兵登録のため外へ出た。
傭兵ギルドの前。
戦闘関連の職業が多いせいか、通りに見えるのはほとんどが魔族で、人間はちらほらといる程度だった。
とはいえ、彼らは戦闘職ではなさそうで、着ている服から察するに、ここで働く職員だろう。
俺は傭兵ギルドの建物を眺め、その中へ入った。
タノス・ヘヴンで唯一、傭兵業を扱う場所だけあって待っている人は多く、番号札を取って待っていると、いつの間にか俺の番が来た。
「423番のお客様!」
「はい。」
俺は番号札を見せて席に座った。
「本日はどのようなご用件でしょうか。」
「傭兵登録をしに来ました。」
「はい、こちらの書類をご記入ください。コッパー等級からのスタートになります。」
サラサラ。
「ところで、コッパー等級ってどんな仕事をするんですか?」
「書きながら聞いてください。主にゴミ処理場の清掃や、落とし物探し、それから先輩傭兵の荷運びとして雇われることもあります。これはあくまでソロの場合で、傭兵団に所属すれば、それに応じた仕事が割り当てられます。」
仕事のたびに傭兵が一人来ていたが、こういうところから来ていたのか。
もっとも、自分は本来こんな仕事をする人間じゃないとか言って、一日で二度と姿を見せなかったが。
彼女の話を聞く限り、コッパー等級はあまり割のいい仕事ではなさそうだ。
やることは多いのに、低い等級で無駄な時間を過ごすわけにもいかない。
「次の等級に上がる条件はありますか?」
「依頼を無事故で100回こなせば大丈夫です。もちろん、それに見合った戦闘力も必要ですが。それ以外だと昇級試験や、信頼ある方の保証があれば可能です。ただ、現実的には年に一度あるかないかなので、そういうものもある、くらいに思っておいてください。」
依頼100回より、後者の方が魅力的だな。
心の中で、兄貴分として慕っているノワール様と知り合い、ということにできないかと考えた、その時、
隣から、まるで汽車のボイラーでも煮詰めたような声が響いた。
「おい! 俺がたかがコッパー等級に見えるか?!」
俺だってコッパー等級は嫌だが、だからといって公共の場であんな態度はどうなんだ。
静かにしてほしいと思ったが、獣人はその気がないのか、声はさらに大きくなった。
「認められん! 俺は獣人の中でも指折りの熊獣人だ! 何か間違いがあるに違いない。担当者を出せ! 俺は俺のやり方で昇級手続きを進める!」
「やかましいな。静かにしろ。お前一人の場所じゃないんだぞ。」
ついに我慢できず、俺が口を挟んだ。
「なんだ? 今、何をほざいた?」
スッ。
振り向いて俺を見た獣人は、激昂した。
「人間族? 人間ごときが、この俺に?」
人間だからと見下している。
見上げる形になるので首が痛くなり、俺も席を立った。
それでも熊獣人は、俺より頭二つ分は背が高い。
「聞いてる方が気分悪いんだよ。人間、人間って。そうしてると、その人間に殴られるぞ。」
「この小僧が! 今日、この俺様が貴様に身の程というものを骨の髄まで教えてやる!!」
激怒した熊獣人が、俺の太腿ほどもある腕で殴りかかってきたが。
俺は片手だけで、その攻撃を受け止めた。
「水の拳……いや、これは綿の拳か?」




