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マルコは爪を露わにし、不快な感情を隠そうとしなかった。
「……俺の精神を揺さぶるつもりらしいが、そんな低俗な手は通じない。苦しみながら死にたくなければ、その口を慎んだ方がいい」
「嘲るつもりはない。ミノは獣人だったから年齢が分からなかったが、お前の白くなった毛を見ていると、老人相手にこんなことをしていいのか、少し気が引けただけだ」
「口だけは達者な奴だな。ならば、現場を離れたミノと、今ここにいる俺との違いを、その身で味わえ!」
タッ。
マルコが高速で接近してきた。
犬科の獣人だからか、動きからして只者ではない。
攻撃を捌いてはいるが、目では追えても動きが半拍遅れ、攻撃を許し続けた。
一度など、目を失いかけたこともある。
致命傷を避けるのが精一杯。
このままでは体力の限界で、何もできずに倒れるのは目に見えていた。
それまでに、何か手を打たなければならなかった。
「ほう……身体回復能力があるのか。それを頼りにしているわけだな。ククク……」
彼の言う通り、回復能力によって爪で裂かれた部位は徐々に塞がっていった。
俺は彼の動きを追うだけで精一杯だった。
言葉を発する力すら、すべて彼を捉えるために使わなければならなかった。
その様子を見て勝機を掴んだと感じたのか。
周囲を囲むノスト・ファミリーの連中が歓声を上げた。
「マルコ兄貴!爪で引き裂いちまってください!」
「見たか!これがノストラ・ファミリーの底力だ!」
うるさい。
拳一つ分の価値もない連中め。
「このままじゃ回復も追いつかず、干からびて死ぬぞ。隠している他の手はないのか?」
マルコの言葉通り回復はしているが。
回復速度が落ち、身体の傷は増え続けていた。
身体回復能力は魔力と肉体を基盤に発動するというが、今の俺は魔力も雀の涙ほどしかなく、長期戦になれば不利なのは火を見るより明らかだった。
認めたくはないが、奴は俺より強い。
これ以上遅れれば、勝負手を打たねばならない状況だった。
俺はイサベルが用意してくれた鎧を信じ、ボクシングの構えで両腕を上げ、顔だけを守る姿勢を取った。
「おい、攻める場所が多すぎて、どこから始めればいいか分からないぞ!」
かすっただけでも肉を裂くマルコの攻撃を、ただ一度の好機を待ちながら耐えた。
打ち据えられた腕に力が入らず、片腕がゆっくりと下がる。
俺を攻めていた彼の眼光が変わった。
「狼は兎を狩る時でさえ、全力を尽くす──!!」
マルコの錐のように揃えた爪が、胸を突き刺してきた。
ドン。
だが、イサベルが作った鎧は並の代物ではなかった。
服が裂け、傷一つ付いていない鎧が露わになる。
「なにっ!?」
機会を窺っていた俺は。
彼が動揺した瞬間を突き。
腕を掴んで懐へ引き寄せた。
ギュッ。
「この野郎?これくらいで外せないとでも思ったか!」
両腕を封じ、身動きできないよう強く抱え込むと、抜け出そうと暴れ始めた。
力は強いが、ミノに比べれば子ども同然。
この程度では、かつて互角に渡り合った俺から抜け出せない。
しばらく押さえ続けると、呼吸が荒くなり、動きが鈍っていった。
俺はその隙を逃さず、溜めておいた力を一気に爆発させ、腰を砕く勢いで締め上げた。
「ぐああっ」
マルコの腰が反り返っていく中、彼は荒い息のまま口を開いた。
「ゆ、ユージンと言ったか?狙いは良かったが、この勝負は俺の勝ちだ!」
「?」
何を根拠にと思った瞬間。
奴は脚を持ち上げ、俺の下半身に絡みついてきた。
それだけでは終わらない。
次第に身体が熱を帯びていく。
視線を落とすと、彼の手から炎が燃え上がっていた。
「フフ……ここまで使うとは思わなかった。認めよう。ミノを殺したのもまぐれではなかった。だが今回は終わりだ。俺は炎に耐性があるが、お前はいつまで耐えられる?この身を失望させるな!」
系統を発現できる者は少ないんじゃなかったのか?
なぜこいつがここにいる!?
マルコと触れ合う部位から言葉にならない痛みが走る。
それによって腕に込める力が弱まり、このままでは敗北は確実だった。
まだ力が残っているうちに腕を離し、殴り合いに持ち込むべきか迷っていた時、心臓にわずかに溜めていたマナが鎧へと流れ出すのを感じた。
そして訪れる冷たい感覚と、愕然としたマルコの叫び。
「な、何だ!?貴様も系統発現者なのか!?」
目には見えないが、その凍えるような感覚が全身へ広がり、俺の身体に纏わりついたマルコの炎を消し去っていった。
力が増したような感覚。
俺はその瞬間を逃さず、全力で腕に力を込めた。
バキバキッ。
「ぐあああっ!」
腕を解くと、マルコはスライムのように崩れ落ちた。
俺は足を振り上げ、彼の首を折った。
バキッ。
そして訪れる静寂。
勝利の余韻に浸りながら周囲を見渡すと、誰もが信じられないものを見るような表情をしていた。
俺は預けていた鞄を取りに動いた。
「どけ」
「……」
鞄を持ち、三人の馬鹿と共に建物を出るまで、誰一人として俺たちを呼び止める者はいなかった。
◇
「くそっ!頭おかしいだろ。ユージン、お前あんなに喧嘩強いのに、なんで今まで一度も言わなかったんだよ?」
「こうして考えてみるとさ、俺たちで組めば、この辺の連中なんて全部掃除できそうじゃね?」
「おい、少しは頭使えよ。子分どもをなんで潰すんだ?傘下に入れりゃいいだろ」
「それもそうだな?とにかくユージン、愛してるぜ」
俺はキスの嵐を浴びせようとする連中を押しのけて言った。
「どけ。洗ってないせいか、臭い」
「俺たちだって洗いたくなかったわけじゃねえよ」
「そうだ。あいつら、出してくれなかったんだ」
「はぁ、こいつら……少しは大人になれよ。で、それはそれとして、なんで他所の連中の縄張りに入ったんだ?」
理由を尋ねると、三人は互いに顔色をうかがいながら、もじもじし始めた。
暇つぶしってわけでもなさそうだし、誰かに脅されてやったことなら、どうせ手を出したついでにそっちも片付けてやるつもりだった。
「なんでだ?」
互いに目配せするばかりなので、苛立ち混じりに問い詰めると、ようやく口を開いた。
「おい、お前が言えよ」
「俺が?分かったよ……そ、その、大したことじゃないんだけどさ。最近、孤児院の事情が厳しそうで、早く金を稼いで支援しようと思ったんだ。まあ、そんな感じだ」
予想外の理由だった。
こいつら、いつの間にそんなことを考えるようになったんだ?
「爺さんが大変だって?」
「お前がそれ言うか?」
「……確かにな」
ロスにカイル、スカ、そして俺。
俺たち四人は同じ孤児院の出身だ。
こんな時代に、老人や子供のための福祉なんてあるはずもなく、孤児院だって例外じゃなかった。
俺たちがいた頃もそうだったが。
こいつらが気に掛けるほど、そんなに厳しい状況なのか?
俺は崩れた世界で、大人になれば各自で生きるものだと思い、見向きもしなかったが、こいつらはずっと支援を続けていたらしい。
「なんで俺には一度も言わなかったんだ?」
「それは……お前の負担になるかもしれないことは言うなって」
「爺さんが?」
「ああ」
「ユージンは子供の頃から、ちょっと変わってたじゃん」
「……」
十歳くらいから前世の記憶が蘇って、確かに俺は少し変わっていた。
だからって、一言も言わないか?
こいつらがここまでやってるのに、見て見ぬふりはできない。
俺は金の入った袋を差し出した。
「これ、受け取れ」
「ほ、本当にいいのか?」
「なにが入ってるんだ?」
中身を知っているカイルは、驚いた表情を浮かべた。
そのまま使わずに、奪うように袋を持っていくが、それをスカがすぐにひったくって開けると、横で見ていたロスが息を呑んだ。
「はっ!これ、金じゃねえか」
「お前たちにやるわけじゃない。お前たちの名前で、爺さんに渡せ」
「なんでお前が直接やらないんだ?」
「俺はいい。やらないことを急にやると、長生きできないらしいからな。俺は長生きしたいんだ」
「この野郎!兄貴がキスしてやるから、こっち来い!!」
前よりもしつこく絡みつく三人の猛攻を、今度は避けきれなかった。
「うわっ、狂ってやがる」
◇
金袋を渡した俺は、仲間たちと別れ、イサベルに会うため工房へ向かった。
チリン。
「いらっしゃい。あら、ユージンじゃない。ん……なんだか雰囲気が変わったわね」
彼女の言葉に苦笑しながら、店に入った。
「今日は何が必要で来たのかしら?」
「用事がなきゃ顔を出さないほど、俺も薄情じゃありませんよ。別の用事のついでです。これも渡そうと思って」
俺は工房へ来る前に立ち寄ったデパートで買ったコーヒーを、イサベルに差し出した。
「あら、ありがとう。いただくわね」
コーヒーを受け取って喜ぶ姿に、俺まで気分が良くなる。
イサベルは、俺が買ってきたものでコーヒーを淹れるから少し待っていくようにと言い、俺は椅子に座って、彼女が準備する様子を眺めていた。
他の物を贈ろうかとも思ったが、いつも世話になってばかりの感謝を伝えたかっただけだ。
「ところで、今日は何かの記念日だったかしら?急にプレゼントなんて」
「イサベルが作ってくれた鎧を使う場面があって、そのおかげで助かりました」
コーヒーもそうだが、彼女に会いに来た本当の理由は鎧にあった。
「うちの店で買った物のおかげで無事だったなんて、嬉しいわ。はい」
「いただきます。……ふぅ、やっぱり美味しいです。今まで、イサベルほどコーヒーを上手に淹れる人は見たことありません」
「ふふ、そう言ってもらえるだけでも嬉しいわ」
俺たちはティータイムを続けながら、これまでの些細な日常の話を交わした。
そして、俺は空になったカップを置き、マルコとの戦いで起きたことを話した。
彼の炎に抵抗した方法や、わずかながら力が増した感覚のことなどを。
黙って聞いていたイサベルは、口に含んでいたコーヒーを飲み干し、状況についての見解を述べた。
「運が良かったのね。その鎧、ユージンの系統と相性が近いみたい。使い続ければ、系統発現にも役立つはずだから、なるべく着用しなさい」
もともと着心地が良くて、ほぼ毎日着ていたところだ。
修練にも役立つなら、なおさらだ。
そんな中、彼女は俺が腰に短剣を帯びていることに気づいた。
「見慣れない物ね?刃物……武器を使うなら、短剣よりも、もう少し長い剣の方がいいんじゃないかしら……」
武器を持ったからといって、すぐ使えるわけでもないし、使いこなすには時間も必要だ。
主武器として使うために持っているわけではない。
「ちょっと寄る場所があって、持ってきただけです」
礼節の国・東方の魂を持つ俺としては。
黙って仕事を辞めたことが気がかりで、どうしても顔を出さなければならない場所があった。




