4
心象に、種があることに気づいた。
その種には黒い斑点が付着しており、それを見た瞬間、浄化のことが頭をよぎった。
おそらく、あれは魔気だ。
仕事から戻るたびに浄化を使っていたが、そのたびに体がすっきりしていた。
契約の時も、ドラゴンが俺を見てこう言っていた。
「魔気に染まっていない体とは、驚いたな。」
俺自身に使えるのなら、種にも浄化を使えるはずだと気づいた。
俺は種に手をかざし、浄化を発動した。
パァッ。
種にまとわりついていた魔気が、目に見える勢いで減っていく。
殻を破って発芽する芽を見て、俺は今まで感じたことのない高揚感を覚えた。
同時に、体の内側から湧き上がる力を両手に集中させた。
バキバキッ。
「う、うあっ!? な、なんだこれ!!」
俺が掴んでいた腕を起点に、ミノの体が凍りついていく。
冷気は腕から広がり、胴体を伝い、やがて頭部へと到達した。
彼は生前の姿のまま、完全に動きを止めた。
「……」
確かに、俺から始まった現象だった。
それでも、当の本人である俺自身が、この状況に呆然としていた。
宙に浮いた体を床へ降ろすため、俺を掴んでいる彼の指をそっと開いた。
パキン。
「?」
地面に落ちたつららが砕けるように、指が崩れ落ちた。
その衝撃で、右手首から下が跡形もなく消え去った。
溶ければ冷凍人間みたいに蘇るのかとも思ったが、
それはやめておいた方がよさそうだ。
俺は掴まれていた首をさすり、部屋を見渡した。
狭いが、居心地のよかったワンルーム。
今では冷凍庫のように変わり果て、もはや人が住める場所ではなくなっていた。
俺は金と袋だけを持ち、ワンルームを後にしてホテルへ向かった。
「404号室でございます。ポーターはご利用になりますか?」
「いいえ。キーだけください。」
荷物を見て人手が必要かと聞かれたが、断った。
ついさっき、あんな目に遭ったばかりだ。
自分の荷物を他人に預けられるほど、俺は無神経じゃない。
キーを受け取り、割り当てられた部屋へ向かった。
ドン。
安全な場所で一人になると、張り詰めていた緊張が一気に解けた。
水を含んだ綿のように重い体。
何もする気が起きず、そのままベッドに倒れ込んだ。
次に目を覚ました時は、すでに夜明け前だった。
ルームサービスで料理を山ほど頼んだ。
目を覚ましてから、何一つ口にしていなかったからだ。
高級ホテルだけあって料理の質は申し分なかったが、かき込むように食べてしまい、味を楽しむ余裕はなかった。
「げふっ。」
服の中に手を入れ、膨らんだ腹をさすりながら、冷蔵庫から酒を取り出し、部屋に備え付けられたテラスへ向かった。
窓の外には、かすかな灯りが見える。
前世なら昼夜を問わず明るかっただろうが、魔界は科学よりも神秘が重んじられる世界だ。
酒をちびちびと飲みながら、今日あった出来事を振り返る。
体調を崩し、ワンルームに押しかけてきたミノを殺した。
その過程で、まるで魔法のような出来事が起きたが、何より重要なのは、心象に芽が出たことだと思えた。
俺は目を閉じ、集中した。
心象にあるはずの芽を見るためだ。
だが、思うようにはいかなかった。
以前はできていたのに……。
これまで心象に入れたのは、全部で二回。
ドラゴンと契約した時と、ミノに命の危機を感じた時だけだ。
サンプルは少ないが、すべて実戦。
そう考えると、俺は実戦向きのタイプなのかもしれない。
どうせやることもないし、しばらくホテルで休むつもりだった。
俺は心象に入る練習をしてみることにした。
椅子に身を預け、目を閉じる。
何も見えないせいで、頭の中に雑念が浮かんできた。
鱗の処分、防犯隊に目をつけられていないか、そんな取り留めのない考えを一つずつ、水面下へ沈めていく。
やがて、音すら聞こえなくなった。
どれほど時間が経ったのか。
かすかに聞こえていた物音すら消えた頃、目を開けると――俺は心象の中にいた。
数日はかかるだろうと覚悟していたのに、一発だった。
周囲を見回す。
以前と同じく、ここには芽以外、何も存在しない。
俺は芽吹いたその若芽を、じっと観察した。
青々としていて可愛らしく、しばらく眺めていたが、だからといって特別な力を感じるわけでもない。
ミノを殺した時に、力を使い切ったのか。
時間はある。ゆっくり調べていけばいい。
自分の意思で心象に入れるようになってから、ホテルに滞在しつつ何度も行き来したが、結局、これといった成果はなかった。
「さっぱり分からんな。」
ホテルに滞在して数日。
ずっと引きこもっていると、さすがにうずうずしてくる。
魔界に生まれて、ここまで遊んだのは初めてだ。
十分休んだ。そろそろ動くとしよう。
まずは物の処分だ。
いつまでも持っているわけにはいかない。
ちょうど、ミノから聞いていた場所もある。
袋を持ち、外へ出た。
そうして辿り着いたのが、イサベル工房。
道を尋ねながら来たが、思った以上に有名らしく、それほど苦労せずに見つけることができた。
外観は古びており、壁には蔦がびっしりと絡みついている。
エルフが営んでいると言われても信じてしまいそうな、自然志向の店構えだった。
俺は扉を開け、中へ入った。
チリン。
澄んだ鈴の音が、来客を告げたが、店主は不在らしく、姿は見えない。
「すみませーん?」
呼びかけても返事はない。
待つ間に店内を見て回ると、足の踏み場もないほど物が多かった。
ガラス瓶に入った眼球、毛むくじゃらの手だけの装飾品、出来の悪い人形のようなものまである。
また今度にしよう、と店を出ようとした時、入ってきた女と鉢合わせた。
「いくら待っても、店主いないですよ。結構、待つことになると思いますけど」
「ふぅん……」
せっかく教えてやったというのに、女は無言で、俺を上から下まで値踏みするように見てきた。
ならばと、俺も彼女を隅々まで観察する。
年は二十代前半か。
ゆったりとしたマントを羽織っている。
外を歩いている魔族たちのような、妙な気配は感じられない。
どこかの使いで来たのだろう。
お茶一杯分の時間が過ぎても動く気配がないので、俺は彼女の横を通り過ぎた。
ドアノブを掴み、開けようとした、その時―
「ちょっと待ってごらん。」
さっきまで一言も発しなかった彼女が、俺を引き止めた。
俺は振り返って、彼女を見た。
「背負ってるそれ、売りに来たんじゃない?」
「そうですけど?」
「私がこの店の主人よ。」
「!!」
どう見ても、そうは見えない……。
現代なら、大学に通っている学生にしか見えなかった。
俺が中途半端な姿勢で立っていると、椅子に座って話そうと言われ、店の奥へと連れて行かれた。
「お茶?それともコーヒー?」
「コーヒーでお願いします。」
食べ物を出してくれると言うなら、断る理由はない。
コーヒーは庶民には夢のまた夢の贅沢品だし、口にできる時にしておくべきだ。
「私はイサベルというの。」
聞き覚えのある名前だ。
友人が最後に残していった言葉だったから、はっきり覚えている。
「俺はユージンです。」
「ふぅん、初めて聞く名前ね。」
イサベルはガラス瓶に入ったコーヒーを取り出した。
途中で何かしていたようだが、久しぶりに嗅ぐコーヒーの香りに酔って、他は目に入らなかった。
「誰かの紹介で来たの?」
「はい。」
「誰かしら?」
「ミノって言うんですが……ご存じですか?」
イサベルは整った顔で眉間にしわを寄せ、少ししてから、思い出したように小さく声を上げた。
「あっ! 前によく来てた子ね。覚えてるわよ。いつの間にか来なくなったと思ったら、友達を紹介してくれるなんて。ミノは元気にしてる?」
「……はい。」
天国で元気にしているだろう。
「できたわよ。さあ、飲んでみて。」
「いただきます。」
イサベルから差し出されたコーヒーを、両手で受け取った。
もくもくと立ち上る湯気。
香ばしくて濃厚なコーヒーの香り。
俺はカップに口をつけた。
「初めてだと口に合わないこともあるから、少しずつ飲むといいわ。」
初めてなら、そうだろう。
だが俺は、前世ではコーヒーを常飲していた人間だ。
「ズズ……コーヒーを淹れる腕、相当ですね。」
「褒めてくれてありがとう。」
俺たちは昔からの知り合いのように、しばらく無言でコーヒーを啜り続けた。
カップを半分ほど空けたところで、ようやく俺は、ここへ来た用件を切り出した。
「袋に入っている物を、売りたいんですが。」
「普段は、こういう形の買取はしていないけれど、興味を引くものなら受け取っているわ。ユージンが持ってきたのは、どんな物かしら?」
「それが……」
言っていいのだろうか。
売るために持ってきたとはいえ、いざ口にしようとすると、ためらいが生じた。
だが、イサベルの雰囲気を見る限り、信用してもよさそうだ。
俺は慎重に口を開いた。
「鱗です。ドラゴンの鱗。」
「あら、今日の占いで、特別なお客さんが来るって出てたけど、本当にその通りだったわね。」
俺の言葉を聞いて喜ぶイサベルは、両手を合わせてきた。
持ってきた品そのものではなく、占いが当たったことを喜んでいる点に少し戸惑ったが、話がうまく進みそうなら、何の問題もない。
「ちょっと見せてもらってもいいかしら。」
「どうぞ。」
イサベルは鱗を一枚取り出して確認し、素材としてとても使いやすそうだと言った。
店主がそう言うなら、かなりいい値が付くに違いない。
「ただ、今ちょうど素材を仕入れたばかりで、手元にあまり現金がないの。代金は、お金じゃないとダメかしら?」
現金で受け取れるのが一番だが、無理なら、後で換金しやすい物でも構わない。
「他のものでも大丈夫です。」
「そう……。じゃあ、私が出せるのは情報か物だから、 それに見合ったものを用意しないとね。何がいいかしら……そう、あれがいいわ。」
考えるたびに表情がころころ変わって、見ていて飽きなかったが、どうやら何を渡すか決まったらしい。
その瞬間、体をなぞるような気配を感じた。
俺は思わず立ち上がり、声を荒げた。
「何をするんですか!」
以前なら、気づかずに流していたかもしれない。
だが、今のは間違いなく、イサベルの仕業だ。
「境地を確かめようとしたら、つい無意識に…不快にさせたなら、ごめんなさい。」
素直に謝られると、こちらだけが気まずくなる。
立ち上がる拍子に倒してしまった椅子を起こし、再び席に戻った。
「次からは気をつけてください。それで、何を確認したって言うんですか?」
「覚醒して、種が発芽したみたいだったから。それに合った装備を作ってあげようと思ったのよ。」




