20
「こ、これは何だ?」
地震かと思うほど揺れ動く心象に、亀裂が走った。
ガラス窓のようにひび割れた隙間から、植物の根のようなものが無理やり入り込んでくる。
ミシミシ。
瞬く間に蔦のように広がっていく植物の根を見て。
あれに触れたらまずい気がして、思わず後ずさった。
異変を見守っていたアイリアンが、意味深な言葉を口にする。
「ふむ……始まったか。」
呆れた言葉を聞いて、俺は横を向いた。
いや、状況はだいぶ前から始まってますけど。
「一人だけ分かってるみたいな言い方しないで、俺にも教えてくれない?」
「他に言うことがあるか。大変なことになった、というだけだ。」
そんなの、目が付いてるんだから分かる。
聞いた俺が馬鹿だった。
俺たちがいる半径五メートルほどを残して、周囲はすべて奴に覆われていた。
あまりに急な出来事で、対処する時間すらなかった。
その時、黙っていたアイリアンが虚空に向かって叫んだ。
「私はシルバードラゴン、カール・アイリアンだ! 止まったところを見ると話の余地はありそうだな。他人の家に来たなら、姿を現して挨拶くらいしろ。」
何を見て言っているのかと思ったが。
直後、俺たちの前にある根から、緑の芽が吹いた。
芽は急速に成長し、花のつぼみを結ぶ。
さらり。
固く閉じていた花弁が一枚ずつ開き。
中から、女性の上半身が姿を現した。
警鐘を鳴らす直感。
ここが心象ではなく都市だったなら、即座に逃げ出していただろう。
それほどまでに、相手から放たれる存在感は圧倒的だった。
あれは人の形をしているだけで、決して敵うはずのない怪物だ。
ぱちり。
閉じていた目を開いた怪物が、口を開くと、甘美な声が流れ出た。
「シルバー族の子を見るのは久しぶりだな。」
「私も、噂に聞くだけだった世界樹に会うのは初めてだ。」
「!!」
どうりで、登場からして只者じゃないと思った。
敵のようではあるが、世の中どう転ぶか分からない以上、挨拶くらいはしておいた方がいいだろう。
「ユジンです。」
「人族の子か。」
「用が済んだなら、もう帰ってくれると助かるんだけど。」
刺々しい口調のアイリアン。
誰が見ても、不満たっぷりの言い方だった。
俺も気持ちは同じだったが。
普段は無遠慮な俺でも、場の空気くらいは読む。
ここで俺まで同じ態度を取ったら、本当にまずい気がして、必死に理性を繋ぎ止めた。
「先代のシルバー族の子は穏やかな性格だったが、今代はまるでレッドドラゴンのような気質だな。他所から来た客に会うのは久しぶりで、気分が良い。こうして会えたのも縁だ。聞きたいことがあれば、何でも聞くがよい。」
想像していた雰囲気とは違う展開に、俺は慎重に口を開いた。
「俺、殺されませんよね?」
「なぜそう思う?」
「あなたの部下が、俺を肥料にするって言って攫ったんじゃないんですか?」
それに答えたのは、横からだった。
「殺すつもりなら、わざわざこうして来たりはしないだろう。」
そうなのか?
確かに、肉を食う時に、屠殺する動物に情をかける奴はいない。よほどの悪趣味でもない限り。
これまで聞いてきた世界樹の行いが、半分でも本当なら、アイリアンの言う通り、そうはしないだろうと思えた。
その時、こちらを見ていた世界樹が笑った。
笑っただけで、心象が揺らぐ。
「シルバー族の子の言う通りだ。ふむ……とはいえ、栄養がないようにも見えぬ。望むなら、我と一つの存在にしてやることもできるぞ。」
世界樹の言葉に、俺は手を振った。
「いえ、今のままでいいです。」
ここで命を賭けた冗談を言う気はなかった。
口にしたことは守る、と言って、本当に俺を肥料にされかねない。
そう考えると、アイリアンがあれほど堂々としていたのも、これが理由だったのか。
俺は死を覚悟していたが、やはり年の功は侮れない。
俺は幾分か楽になった気持ちで、肩の力を抜いた。
名乗り合ったきり、黙り込んでいるアイリアンに代わって、俺が前に出る。
「ここから、いつ出られますか?」
「お前が食べた実の気が尽きれば、意識も戻るだろう。だが、望むなら今すぐに出してやることもできる。」
聞いていて、ありがたい言葉だった。
今はここに長居しても、いいことは何もなさそうだ。早く出るに越したことはない。
得意げなラピエルの顔に一発食らわせる、という自分との約束を果たす意味でも、俺は世界樹を見て言った。
「じゃあ、今すぐ出してください。」
「どうせなら、実の気を消化しきるまで待て。」
「急ぎでないなら、お前もそうした方がよい。実の気を余すところなく吸収すれば、弱い体も多少は丈夫になる。」
「……」
出るのも、自由にならないのか。
自分なりに強くなったつもりだったが。
この者たちの目には、まだ出発点にも立っていない子供同然なのだろう。
まあ、この連中の目から見れば、誰だって弱く見えるに違いない。
一人前になるには、最低でも超越者くらいにはならなければならないのだろう。
帰れと言っておきながら、世界樹は去らず、実の気を吸収し終えるまでやることもない。
質問してもいいと言っていたし、多少無礼なことを聞いても、可愛げがあると許してくれるのでは、と思えた。
「どうして、ここに来たんですか?」
「浄化系の能力を発現した者がいると聞いてな。本来は、我の心象世界で会うつもりだったが、どうにも気になって我慢できなかった。こうして会える機会ができたのに、訪ねて来ない理由があるか?」
「まあ、そうですよね。元の世界でも、浄化能力は希少でしたし。」
アイリアンの言葉に、世界樹は目を細めて微笑んだ。
「そうだ。エルヴンハイムの事情を聞いているかは分からぬが、我の状況は決して余裕があるとは言えん。助けとなる者かどうかを確かめるために来たのだ。」
地球では、ほとんど存在しないような能力だったのに。
浄化能力が高く評価されて、逆に気恥ずかしくなった。
「感想は?」
「悪くはないな。」
「お前の能力が、奪いたくなるほど欲しいそうだ。」
アイリアンが世界樹の言葉をリアルタイムで翻訳しているが、俺にもほぼ同じように聞こえた。
俺がアイリアンから聞いた話では、ラピエルは俺の能力を世界樹に捧げるために、今回の件を引き起こしたらしい。
ということは、能力を奪う方法がある、ということじゃないのか?
「俺の浄化能力を持っていって、直接使った方がいいんじゃないですか?」
「ふふ……」
俺の言葉を聞いた世界樹は、肩を揺らし、何かを堪えるような陰湿な笑みを漏らしたかと思うと。
すっ──
こちらへ歩み寄り、首に腕を回して、恐ろしいことを囁いた。
「そうしたいのは山々だが、我慢しているのだ。これ以上挑発するようなことを言えば、我も耐えられなくなる。本当にそれを望むのか?」
ぶんぶん。
熱い吐息が耳元をくすぐり、妙な感覚に陥ったが、必死に首を横に振った。
美しい女性が積極的に迫ってくれば喜ぶべきなのだろうが、怖さしかなかった。
「ふふ、心配するでない。他の生命の固有能力を奪っても、劣化した力しか得られぬからな。時間はかかるが、ガチョウの腹を裂かずに……ん?」
その時、俺を包んでいた世界樹が顔を上げ、何もない虚空を見上げた。
ただならぬ気配に、聞かずにはいられなかった。
「どうしました?」
「招かれざる客が来たようだ。」
するり。
首に回されていた腕が離れる。
「もう少しで実の気も尽きる。目覚めたら、仲間のいる場所へ戻るがよい。我は不意の客の相手をせねばならぬ。では、また会おう。」
「はい。」
突然現れ、風のように消えた世界樹。
それと同時に、心象を覆っていた木の根は消え、傷のように開いていた穴も塞がった。
二人きりになった空間に訪れる静寂。
緊張が解けた俺は、その場にどさりと座り込んだ。
「もう、行ったんだよな?」
「そうだ。」
何かに慣れようとすると、手に負えない相手が出てくるものなのか。
今回は結果的に敵ではなかったが、機嫌を損ねればどうなるか分からず、トイレに行きたいのを相当我慢していた。
「ふぅ……」
世界で一番安心できるはずの場所で、こんなにも気を張っているなんて。
弱いのが罪、というわけだ。
芽生えを眺めながら、ぼんやりと時間を過ごしていると。
世界樹の言葉通り、ほどなくして芽生えの周囲を巡っていた気が消えた。
今なら、現実の肉体で目を覚ませるという直感があった。
「出よう。」
◇
目を開けると、見知らぬ天井だった。
壁は蔦植物に覆われていて。
もしかして幻覚に陥っているのでは、と思い、頬をつねってみた。
痛い。どうやら現実らしい。
横になっていた場所から起き上がった。
硬かったので地面かと思ったが、よく見ると石でできたベッドだった。
ぱっ。
姿を現したアイリアン。
呼んでもいないのに突然出てきても、もう特に気にならない。
「心配して来てくれたのか?」
「まさか。」
つれないやつだ。
出口を探そうと周囲を見回した。
どこも似たような景色で、場所が分からない。
中は相当広いらしい。
立ち上がった。
歩いていれば、いずれ道に出るだろう。
動くと、床にも木の根が張り巡らされている。
踏まないよう、できるだけ慎重に進んだ。
理由は分からないが、根が血管のように感じられたからだ。
そうして周囲を見て回っていると、偶然、別の石のベッドから人の手が突き出ているのが目に入った。
「……」
ここにマネキンがあるはずもない。
本物だろうか?
好奇心に勝てず、近くに落ちていた木の枝を拾って、蔦を持ち上げた。
「うっ……」
本物の人間だ。
頭と思しき場所を確認すると、耳が長い。エルフだった。
「気分の悪い場所だ。さっさと出よう。」
「こいつらは何だ?」
「お前がなりかけていたかもしれないものだ。」
「俺が?」
「そうだ。横になっているエルフを見る限り、もう寿命が尽きかけている。」
若く見えたが。
エルフは生涯、成人の姿を保ち。
死の一か月前から急速に老いていくという。
「エルフは老年期が短いとはいえ、エルヴンハイムで年老いたエルフを見たことがあるか?」
年老いたエルフ?
よく考えてみると、誰一人として皺のある者はいなかった。
「いや、ない。」
「どうやら死ぬ前に、こうして処理していたようだ。エルフは世界樹との相性も良いからな。塵のような気であっても、多く集めればエルヴンハイムを維持する助けになったはずだ。彼らが選んだ生き方だ。お前が口を出すことではない。」
「俺が責任を取るわけでもないしな。ただ、初めて見たからさ。」
余計な首を突っ込む気はない。
本人たちが望んだのなら、外部の人間である俺がどうこう言う筋合いはない。
蔦を元通りに覆い、外へ出るために歩き出した。
中は相当に広く、かなりの距離を進んでようやく外に出られた。
だが、俺が攫われている間に何が起きたのか。
空からアンデッドが、雨のように降り注いでいた。
「な、何だこれは?」
遠くてはっきりとは見えなかったが。
空から落ちてきているのは、間違いなくアンデッドだった。
しかも、遠くを見ると明らかに朝のはずなのに。
俺のいる場所は、太陽を覆うもののせいで、夜のように暗い。
だから世界樹は、先に帰ると言ったのか。
何が起きているのか分からないが、俺も戻った方が良さそうだ。
俺は急いでその場を離れた。
道中、時折アンデッドが立ちはだかったが、相手にもならなかった。
だが、どこかで見たことのある狼の獣人と鉢合わせた。
そいつは、他のアンデッドに比べて原形をほぼ保っており、強い気配を放っていた。




