18
窓からタノス・ヘブンの夜景を見下ろしていたバルタザールは、招いてもいない誰かが屋敷に入ってきた気配を感じ取った。
「お越しですか。」
アンデッドとなって永遠に彼の下僕として生きるつもりでもない限り。
このような形で彼の住処に侵入できる魔族は、一人しかいない。
バルタザールは丁寧な口調で言った。
「久しぶりだね。準備はできているかい?」
「はい。」
超越者たちが集まって作ったという『パンデモニウム』の空間術師
レイナ。
単独でも強大な存在であるがゆえに、個人でのみ活動しているという。
レイナは第七位階。
バルタザールとは、たった一段階の差だが。
その一つの差によって、まだ超越者に至っていない彼にとっては、手の届かない存在だった。
バルタザールが気配を感じ取れたのも。
彼女自身が到着を知らせるためであり、そうでなければ兆しすら察知できなかっただろう。
レイナはテーブルの上にあったウイスキーを手に取り、バルタザールの隣へ移動した。
レイナが虚空へと手を差し入れると、空間の裂け目からグラスが現れた。
空のグラスに注がれるウイスキー。
とくとく。
その時、バルタザールはレイナの制御力を目の当たりにした。
ウイスキーで満たされていくグラスの中に、なかったはずの氷が入っているのだ。
すでに注がれた酒に氷を入れるのならともかく。
中身を満たしている最中に氷を加えるのは、次元の違う芸当だ。
目指す道は違えど、彼もまた魔法使い。
自分が見ていながらも、まったく気づかれずに行われたそれが、どれほど困難なことか理解していた。
たかが一段階の差だが。
その高い壁を感じたバルタザールは、向上心を燃え上がらせた。
パンデモニウムの依頼さえ終えれば。
自分もまた、超越者となるための足掛かりを得られるはずだ。
長きにわたり止まっていた位階の上昇のためなら。
都市一つを生贄に捧げる程度、何度でもできた。
「では、今回の成功を願って、出発前に乾杯といこうか。」
レイナとグラスを打ち合わせたバルタザールは、一気にウイスキーをあおった。
喉を打ち上げる余韻に目を閉じ、開いた時には、すでに都市の外にいた。
「位置は?」
レイナの言葉に、バルタザールは手を挙げて一方向を指し示した。
「あちらです。」
その言葉を合図に始まった空間移動。
続く転移により、周囲の景色が次々と切り替わっていった。
何度空間移動を行っただろうか。
二人の前に、岩で形成された山が姿を現した。
バルタザール一人で来ていたなら、相当な時間がかかったはずだ。
「着きました。峡谷のある場所へ行けばいい。」
レイナとバルタザールは地形に縛られることなく。
虚空を泳ぐようにして、深く広い峡谷へと入っていった。
それからしばらくして。
彼らの足元に現れた、果てしなく連なるアンデッドの饗宴。
死してなお安らぐことのできない亡者たちが峡谷を埋め尽くし、動くたびに波が立つかのようだった。
質は良くなかったが。
量を優先しろと言われていたため。
可能な限りアンデッドを集めた結果が、この光景だった。
「おっしゃった通り、アンデッドを集めました。これでいかがでしょうか。」
「ふむ……ギリギリだね。量は十分だけど、数だけじゃなく質をもう少し上げたいところだ。」
約束通り最大限集めたにもかかわらず。
足りないから、持っているものをさらに出せというのだ。
惜しくはあるが、後で使うつもりで、少し前に作っておいたアンデッドがあった。
それらを差し出せば、これ以上要求されることはないだろう。
「……私の持っているアンデッドも加えましょう。」
「本当? それは助かるね。でも、全部出す必要はないよ。君にもやることがあるだろう? 半分でいい。」
「それで十分なら。あれらを回収しないといけませんから、下へ降りましょう。」
峡谷に足を踏み入れたバルタザールは、影を大きく広げ、アンデッドを呑み込み始めた。
◇
結果的に、リリカの試験は合格だった。
特級魔石の魔気が濃すぎて、すべてを浄化することはできなかったが。
能力を認められ、世界樹に会う機会を得たのだ。
エルヴンハイムでは珍しい移動手段である馬車に揺られ、外を眺めていると、隣に座っていたアイリアンが慰めの言葉をかけてきた。
「落ち込むな。特級魔石に込められた魔気があまりにも強かった。今のお前の力では無理だっただけだ。」
「……」
穏やかな日常の風景が心地よくて。
窓の外を眺めていたのだが、俺としては何のことだか分からない。
どうやら、外を見ている俺の姿が、しょげているように見えたらしい。
「私がいる。強くなるのは時間の問題だ。エルフたちはお前の可能性を見たのだ。これからも実力向上に励めばいい。」
励ましの言葉なのだろうか。
魔石を浄化できなかったことで、本当に落ち込んでいたら、あの言葉を聞いて逆にやる気が削がれそうだが。
言葉を失って何も言わずにいると。
本当にそうだと思ったのか、ノエルまで便乗してきた。
「覚醒してまだ半年も経っていないんですよね。その成長速度は本当に異例ですから、あまり気にしなくていいですよ。」
俺、本当に何も考えてないんだけど。
「系統能力も、魔界ではもう二度と出てこないほどの能力ですし、私のように植物に限定されず、汎用性も高い。地道に鍛えれば、同じ位階では敵なしになるでしょう。」
「……はい。」
分かりました、と答えた。
ここで違いますと言うほど、社会性がないわけではなかったからだ。
なぜか俺を応援する空気に包まれた馬車の中。
地味に気まずい時間を過ごしているうちに、馬車は城壁を抜け、初めて通る道へと入っていった。
女たちに囲まれて気力を吸い取られた俺は。
目を閉じて休んでいると、馬車の速度が落ちるのを感じた。
着いたのか。
案の定。
馬車の扉が開いた。
ここから先は歩いて行くらしい。
ぴょん。
俺は馬車から跳び降りた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、エルヴンハイムのどこからでも見える巨大な樹――世界樹だった。
まだ遠くにあるように感じる、妙な感覚。
ここまで来たというのに、距離が縮まった気がまったくしない。
考えてみれば、エルヴンハイムの入口も同然だった出入国管理局から、どこへ行ってもそんな感覚があった。
専門家がそばにいるのだから、聞けばいいだけの話だ。
「世界樹との距離が、まったく近づいてる気がしませんね?」
「見えているものがすべてではありません。ここからは私についてきてください。」
投げるように言い放つリリカ。
どこか居心地の悪そうな様子で、先へと歩き出した。
見えているものがすべてじゃない?
その言葉の意味を噛みしめながら後を追っていると、ノエルが近づいてきた。
「何をそんなに考え込んでいるんですか?」
「僕の目には、世界樹がずっと遠くにあるように見えていて。リリカさんが“見えるものがすべてじゃない”って言うから、その意味が気になって。」
「ああ、それ……文字通りの意味ですよ。目に見えている世界樹は、幻みたいなものですから。」
ここまで来たのだから、いずれ分かることだし。
教えてもいいだろうと、ノエルは少し近づいてきた。
「私たちが住んでいる魔界は、断片化した世界が集まってできているって知っていますよね?」
「はい。」
知っているも何も。
詳しくは知らなくても、地域ごとに気候や地形が極端に変わり、百年前の次元侵攻の影響で生まれた土地から産出される希少資源を巡って、その周辺では戦争が絶えない――そんな話は子どもでも知っている。
要するに、魔界とは寄せ集めの世界だということ。
果てが分からないほど広く、今なお拡張を続けているはずだ。
「世界樹も、もともとは物質界に肉体を持っていました。でも、エルフが堕落したことで、その肉体を犠牲にして生まれたのが今のエルヴンハイムです。肉体を失った世界樹は、自身の心象をエルヴンハイムに接続し、結果として私たちの目に映っているのは、鏡に映った姿なんですよ。」
「話を聞いていると、精霊に近い感じですね。」
「大きく見れば似たようなものですね。非物質の存在が、別の空間にいながら現実へ影響を及ぼしているわけですから。」
そうして俺は、長い時を経て、ほとんどのエルフが知らないこの地の秘話を聞きながら歩いた。
道中は思っていたよりも平凡だった。
重要な場所だからといって、警備が特別に厳しいわけでもない。
エルヴンハイムでは、神木守護者たちが最強だという。
正気を失って騒ぎでも起こさない限り、一瞬で制圧されるらしい。
「……世界樹を神木として崇めるエルフの気質上、彼らが問題を起こすことはありません。外来者ならともかく。」
俺たちは、歴代の神木守護者の像が立ち並ぶ道を通り、リリカの家族と顔を合わせた。
和やかな雰囲気の中で、彼女の家族とともに晩餐を囲み。
神域へ入るのは、明日の朝になるという。
「今夜は、ここでお休みください。」
「ありがとうございます。では、また明日。」
うなずいて去っていくリリカを見送り、扉を閉めた。
ドン。
ようやくできた一人の時間。
俺は窓際に用意された椅子に腰を下ろし、体を伸ばした。
特に何かしたわけでもないのに、なぜか疲れた一日。
夕焼けに染まり、朱色へと変わっていく空を眺めているうちに、まぶたが重くなった。
トントン。
扉を叩く音で目が覚めた。
満腹だった上に、心地よい風もあって、いつの間にか眠ってしまったらしい。
「よいしょ。」
椅子から立ち上がり、誰が訪ねてきたのか確かめるために扉を開けた。
リリカだった。
この時間に、俺を訪ねたい人物がいるという。
「ユージンが神域に入る前に、ラピエルが個人的に会いたいと申しまして、私に場を設けてほしいと頼んできたんです。強制ではありませんので、気が進まなければ断っても構いません。」
「いえ、大丈夫です。大したことでもありませんし、行きましょう。」
彼女の父は神木守護者の隊長で。
兄のラピエルは副隊長だ。
少し顔を合わせる程度なら問題ないだろう。
その立場を考えれば、見知らぬ人物が神域に入ると聞いて、どんな人物なのか気になるのも無理はない。
俺たちは、回廊を照らす月明かりの下を通り、ラピエルの待つ場所へと向かった。




