15
タノス・ヘブンから飛空艇に乗って一か月。
かなりの速度で飛んできたはずなのに、魔界がどれほど広大なのか、ここへ来るまで相当な時間がかかった。
地図に印を付けた場所の中では比較的近いはずだったのに、である。
一度経験してみると、他の場所へどうやって行くのか考えるだけで、頭がくらくらした。
帰りのことも心配ではあるが、
今あれこれ考えても仕方がない。
その時の俺が何とかするだろう。
そうでなければ、苦労するだけだ。
俺は顔を上げ、空を見上げた。
間近で見る天高くそびえる世界樹は、どこが終わりなのかも分からない。
見続けていれば慣れそうなものだが、
あまりにも非現実的で、どうにも順応できなかった。
大きな木は自らの重さに耐えきれず折れるというが、
一体どれほどの強度をしていれば、際限なく成長し続けられるのだろうか。
枝を手に入れることより、運搬のほうが難しいのではないかと思えてくる。
高いところを見上げ続けたせいで首が凝り、
うなじを揉みながら歩き出した。
俺が今滞在しているのは、エルヴンハイムの外縁部。
少し前から中に入るための手続きを進めているところだ。
都市へ入るには入国審査が必要なため、仮設の建物に滞在しているが、
事前に許可を得ていない者は、俺のように面倒な手続きを踏まなければならなかった。
同じ境遇の者が多いのか、外縁部はさまざまな種族で賑わっていた。
今日が最後の手続きだという。
何事もなく無事に終わってほしい。
長いこと並んで待っていると、ようやく俺の番が回ってきた。
俺は椅子を引き、席に着いた。
入国審査官との面談が始まる。
前世で数え切れないほど会社の面接を受けてきた経験を活かし、淀みなく答えた。
事前に書いた書類を基にした質問だったので、難しくはない。
このまま問題なく通るだろうと思った矢先、
終了の告知とともに、審査官が持つ書類に判が押された。
ドン。
審査官から書類を受け取り、
押された判を見ると、不合格の処理がなされていた。
「!!」
これでは最初からやり直すか、帰るしかない。
そんなことをいつやれというのだ。
このままではまずいと思い、慎重に口を開いた。
「判子が間違っているようですが。」
「不合格で間違いありません。次回はきちんとした書類を揃えて審査を受けてください。」
「……何が不足しているんですか?」
「入国のための理由が不十分です。」
その言葉を聞き、俺は持っていた書類を示した。
「ここをご覧ください。依頼を受けてエルヴンハイムに入るため、タノス・ヘブンから来たと書いてありますが、これでも足りないということですか?」
そう言いながら、首に掛けていたゴールドランクの傭兵章も取り出した。
ここまでやる必要があるのかとも思ったが、
今切羽詰まっているのは俺のほうだ。
できることはすべてやるしかない。
俺の差し出した書類を見ると、
エルフは冷ややかな目で俺を見て言った。
「はい、それだけでは入国には不十分です。」
「……」
ふと目の前のエルフ入国審査官を見ると、
俺が世界樹の枝を取りに来たという依頼内容を見て、不合格にしたのではないかという、もっともらしい疑念が浮かんだ。
もしその推測が正しければ、俺は一生中に入れないだろう。
塀を乗り越えて忍び込むか、などという不健全な考えが浮かびかけたその時、
少し離れた場所で手続きをしていた魔族が憤慨し、騒ぎを起こした。
「俺を誰だと思っている! 我慢にも限界があるぞ、エルフども!」
そうだ、よく言った。
我慢にも限界があるよな。
兄貴、ひとつ見せてくれ。
心の中でその魔族を応援していると、
何もない虚空から突然、白く霞んだ何かが現れ、その魔族を襲った。
「!!」
ドン。
さっきまでの勢いとは裏腹に、何もできず前のめりに倒れ、
動かない様子を見るに、どうやら死んだらしい。
「ごくり。」
しばらくして、担架に乗せられた魔族が運び出された。
誰かが死んだことなど何事もなかったかのように、
再び席に着いて仕事を続けるエルフを見て、
やはりああいう醜態は晒すべきではないと思った。
「これ以上ご用件がないのでしたら、お席をお譲りいただけますか。ご覧の通り、忙しいもので。」
ひとまず引き下がって、作戦を練り直すしかないと決めた、その瞬間。
ポン。
俺とエルフの間に、アイリアンが現れた。
「……」
なぜ勝手に出てきたんだ、厄介な。
エルフに何と言えばいいのか考えていると、
審査官が今までになく明るい表情で、親しげに俺に接してきた。
「精霊のご友人でしたか。書類にその記載がなかったもので、失礼しました。もう一度お借りしてもよろしいですか?」
「え? あ、はい……」
急変した態度に戸惑いながら、
俺は持っていた書類を半ば奪われるように渡した。
どういうことだ?
新たに押される判。
「こちらです。」
再び書類を受け取ると、不合格は消え、合格の判が押されていた。
釈然とはしないが、エルヴンハイムに入れるようになったのだから、俺としてはありがたい。
用事が終わり席を立つと、
審査官も立ち上がり、俺に向かって深く頭を下げた。
「エルヴンハイムへお越しいただき、ありがとうございます。」
どう見ても合格の対応で、
建物を出ると、待っていた魔族たちの羨望の視線を受けながらその場を後にした。
外に出た俺は、今すぐアイリアンを呼び出して事情を聞きたかったが、
周囲の目が多いためそれは控え、とりあえず仮の住まいへ向かった。
宿に戻った俺は目を閉じ、心象世界へ入った。
世界樹と比べればあまりにもみすぼらしいが、
手入れを続ければ立派になると信じている。
しばらく芽生えたばかりの若木を眺めていると、
アイリアンも後から入ってきた。
「どういうことだ?」
「私を精霊だと勘違いしただけだ。エルフは選ばれた者だけが精霊を使役できると考えている。」
なるほど、話が見えてきた。
アイリアンが姿を現すまでは、俺のことを道端に転がる石ころ程度にしか見ていなかったというわけだ。
「それにしても反応が極端じゃないか?」
「簡単な話だ。精霊を扱える者は一割にも満たない。一般のエルフは、彼らが世界樹に選ばれた存在だと考え、当人たちもそう思っている。」
俺が見たエルフは貴族だった、ということか。
その貴族が出入国管理局で働いている?
ノブレス・オブリージュでも実践しているのだろうか。
「自分たちが崇める世界樹に選ばれたお前を粗末に扱うというのは、己の顔に泥を塗るようなものだ。犯罪でも犯さない限り、手厚く扱うのが当然だろう。」
自然と頷ける説明だった。
俺としては中に入れさえすればそれでいい。
どういう理屈だろうが、正直どうでもよかった。
「それと、もう一つ理由がある。あの場で精霊を見ただろう。」
精霊といえば、霧のようにぼんやりしていたあれのことか。
「よく見えなかったな。ぼやけてた。」
「普通はそんなものだ。精霊の格や術者の力量によって、物質界に力を投射できる度合いが変わる。それでああ見える。」
「理解した。要するに、俺を自分たちより上に見たってことだろ。」
アイリアンを見た前後で態度が激変した理由はそれか。
中に入ってからは、少し肩で風を切って歩けるかもしれない。
翌日、俺はエルヴンハイムに足を踏み入れた。
通りには、足の踏み場もないほどエルフがあふれていた。
もちろん当然といえば当然だが、
俺がいた街と比べると他種族がほとんどいなかった分、やけに目についた。
すっ。
周囲を見回す。
エルフの街だからといって、木の上で暮らすおとぎ話のような光景を期待していたわけではないが、
それでも少しは期待していた。
だが、故郷と大差ない景色で、気分が沈んだ。
どこも暮らしは似たようなものか。
とはいえ、まだ落胆するには早い。
その国を知るには、まず料理を食べてみろとも言う。
街に入ってから食事をするつもりで、朝食も抜いていたし、
気持ちが落ち着かない時は、美味いものを食べれば楽になる。
そう思って、食べ歩きの店を探しに出た。
きょろきょろ歩いていると、
ちょうど長い行列ができている店を見つけた。
土地勘がない時は、現地人についていくのが一番だ。
俺も列の後ろに並んだ。
三十分ほど待って、ようやく順番が来る。
店に入って手を拭き、メニューを見ると、
皆が揚げ物を食べていたので、俺も麺と揚げ物を注文した。
揚げ物はゴムを揚げても美味いと言うが、
新鮮な食材を目の前で調理しているのを見ると、目にも楽しく、味も良かった。
食事を終えて外に出た俺は、
膨らんだ腹をぽんぽん叩きながらアイリアンを呼んだ。
「遅い。」
「生きていくためのことなんだから、飯は食わないとな。拗ねてないよな?」
「そのはずがない。」
否定はしているが、
俺には、一人で食べたことに拗ねているように見えた。
「そうか、じゃあそういうことで行こうか?」
「私は否定したはずだ。」
「気持ちは分かってるから、そんな強く言わなくていい。」
「まったく話が通じんな。」
周囲の視線も多いので、とりあえず移動することにした。
アイリアンが姿を現すと注目は集まったが、
声をかけられることはなく、横目で見られるだけだったので不快ではなかった。
「それで、次はどこに行けばいい?」
「ひとまず、あそこだ。」
アイリアンが指さしたのは、世界樹のある方向。
グリーンドラゴンに会いに来たのだから、当然といえば当然か。
車でもないかと周囲を見回したが、なぜか一台も見当たらない。
その代わり、馬のような乗り物が街を行き交っていた。
燃料を魔石にすれば調達も容易だろうに、
なぜ使わないのかは分からないが、こうなった以上、のんびり行くことにした。
歩きながら、これから会うドラゴンの話を切り出した。
「他人の家に行くなら、何か手土産を持っていくべきじゃないか?」
「前にも言ったが、その必要はない。」
そう言ってきっぱり否定されたので、
手ぶらでもいいのかと思ったが、やはり礼儀ではない気がして、
途中で見かけたパン屋に寄り、カステラを買った。
アイリアンは何が気に入らないのか、
店からパンを持って出てきた俺を見て、首を横に振った。
「だから必要ないと言っただろう。」
「でも、手土産を持っていって嫌がることはないだろ? 最悪、俺が食べればいい。」
「ドラゴンというものを、あまりにも分かっていないな。」
横で何を言われようと歩き続け、
日が沈む前に、世界樹を取り囲む城壁の前に到着した。
「この中か?」
「いや、あそこだ。」
アイリアンは、壁の向こうではなく、別の場所を指さした。




