第2話 一人で守るということ
塔は、静かだった。
ウエルが去ってから、魔力の流れが変わったわけではない。
結界も、魔道具も、普段と同じように機能している。
それでも――
人の気配だけが、確実に減っていた。
「……まずは確認だな」
トールはそう呟き、帳面を開いた。
留守を任されたからといって、急に特別な作業が増えるわけではない。
だが、判断を下すのが自分だけになる。その事実が、想像以上に重くのしかかっていた。
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一階。
炊事場と応接室を一通り見回す。
魔道水道は安定。
魔道カセットコンロも問題なし。
「生活系魔道具、異常なし」
トールは淡々と記録する。
「落ち着いているにゃ」
クロが、足元から声をかけた。
「落ち着いてるように見えるだけだ」
「それで十分だにゃ」
クロは偉そうに言う。
「慌てている管理者ほど、塔にとって厄介な存在はいないにゃ」
「……師匠にも、同じこと言われた気がする」
「ボクは師匠の式獣だからにゃ、似てるにゃ」
当然だろう、という調子だった。
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二階。
寝室と客間。
ウエルの部屋は、いつも通り整えられている。本が積まれ、薬草の匂いがわずかに残っていた。
(……本当に、行ってしまわれたんだ)
改めて実感が湧く。
今までは、判断に迷えば、必ず背中がそこにあった。
今日からは違う。
「……クロ」
「何だにゃ」
「オレが判断を間違えたら?」
クロは即答しなかった。
少しだけ考え、それから言う。
「その時は、
ボクが止めるにゃ」
「……全部?」
「致命的なものは、にゃ」
トールは小さく息を吐いた。
「全部は、止めてくれないんだな」
「それは、留守番を頼まれたのはトールだにゃ、判断はトールがするにゃ。」
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三階以上。
蔵書階層。
天井の見えない空間に、本棚が円を描くように並んでいる。
魔導書、医療記録、過去の調査報告。
どれも、塔そのものと同じくらい大切なものだ。
「蔵書結界、正常」
「湿度も問題なしにゃ」
クロは、空間全体を見渡している。
「……なあ」
トールは、ふと思ったことを口にした。
「師匠は、俺が来る前はこの全部を一人で管理してたんだよな」
「そうだにゃ」
「……すごいな」
クロは、尻尾を一度だけ揺らした。
「君も今のところはちゃんとできてるにゃ」
その言葉に、トールは黙った。
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昼。
炊事場で、簡単な食事を用意する。
保存パンと干し肉。魔道水道で汲んだ水。
「……これでいいか」
「“生き延びる”分には、にゃ」
クロは容赦がない。
「だが、管理者としては改善の余地があるにゃ」
「……分かってる」
まだ、手が回らないだけだ。
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午後。
帳面を広げ、一日の予定を見直す。
点検。
記録。
異常があれば対処。
やるべきことは、明確だ。
(……守る)
師匠ウエルが言った言葉を、頭の中で繰り返す。
『塔も、
魔道具も、
蔵書も――』
一拍置いて、続けた。
『そして、あなた自身を』
「……簡単じゃないな」
「簡単じゃないから、師匠は君に任せたにゃ」
クロの言葉は、不思議と重かった。
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夕方。
最後の点検を終え、帳面を開く。
「本日の異常、なし」
書き終えた瞬間、ようやく肩の力が抜けた。
「……終わった」
「今日は、にゃ」
クロは念を押す。
「留守番は、始まったばかりだにゃ」
トールは、塔の中を見回した。
外から見れば、ただの小さな家。
だが中には、天井の見えない塔が広がっている。
いつもと変わらない塔、
だが今は――
自分の判断で守る場所だ。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
塔は静かだった。
だがその静けさは、もう“何もない”静けさではない。
十四歳の管理者が、初めて一人で過ごした一日の終わりだった。




