第18話 群れの影
夜明け前。
塔の結界は、まだ張られたままだった。
淡い光が、霧のように外周を包んでいる。
トールは、一睡もしていなかった。
眠れなかったのではない。眠らなかったのだ。
「……結界、持ってるな」
「今は、なだにゃ」
クロは、結界核の近くで座り、外を見据えている。
「だが、消耗しているにゃ」
トールは、その言葉を否定しなかった。
魔力を流し続ける感覚が、はっきりと分かる。
(……削られている)
十四歳の管理者が、魂ぐらいから少女を守った十一日目だった。
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朝。
結界を、一段階だけ緩める。
「……これ以上、張り続けるのは逆効果だ」
「判断として、正しいにゃ」
クロは、短く言った。
「常時最大出力は、いずれ破綻するにゃ」
結界が薄くなると同時に、空気が軽くなった。
だが――
安心感はない。
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バルコニー。
トールは、遠くの森を見つめていた。
風に揺れる枝。何の変哲もない景色。
「……見えるか」
「見えるにゃ」
クロも、同じ方向を見ている。
「魔力の濁りが、増えているにゃ」
「……集まってる」
魂ぐらいは、近くにいる。
姿は見えなくても、待っている。
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応接室。
サヨコは、窓の外を眺めていた。
「……静かだね」
「静かな時ほど、危険だにゃ」
クロの声は、低かった。
「魂ぐらいは、獲物が逃げないと分かっている時、急がないにゃ」
サヨコは、小さく息を吸った。
「……群れで来る、んだよね」
「来るにゃ」
クロは、断言する。
「数も、知恵も、昨日とは比べ物にならないにゃ」
サヨコは、黙って頷いた。
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昼。
トールは、蔵書階層にいた。
異世界転移、魂の帰還、霊体固定。
関連する書を、片っ端から開く。
「……肉体ごと、が多い」
ページをめくる指が、止まる。
「魂だけ、という記述は……」
少ない。
あっても、失敗例ばかりだ。そもそも、肉体ごとでも失敗例だらけだ。
クロが、背後から言う。
「方法がないわけではないにゃ、焦らず探すにゃ」
「……でも」
「時間が、足りないのも事実にゃ」
トールは、歯を食いしばった。
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夕方。
三人は、同じ空間にいた。
「……ね」
サヨコが、静かに言う。
「わたしね」
「……何だ」
「帰るって、決めた時」
サヨコは、一度だけ目を閉じた。
「怖かったけど」
「……」
「それ以上に、ここに残る方が怖かった」
トールは、何も言えなかった。
否定できない。
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「……トール」
「……ああ」
「無理しないで」
サヨコの声は、穏やかだった。
「師匠が帰るまで待てるなら、それが一番だと思う」
「……でも」
「でも、待てないかもしれない」
二人の視線が、自然とクロに向く。
「……群れが来る前に決断する必要があるにゃ」
クロは、淡々と告げた。
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夜。
結界の外で、何かが鳴いた。
一体ではない。重なり合う声。
トールは、即座に立ち上がる。
「……始まる」
クロが、低く言った。
「これは、警告だにゃ」
「……」
「今回は、本気だにゃ」
サヨコは、静かに拳を握った。
逃げ場は、ない。
残された選択肢は、一つしかない。
「……トール」
「……分かってる」
トールは、はっきり答えた。
「準備する」
それは、戦う準備ではない。
別れの準備だった。
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夜空の向こうで、赤い光がひとつ、またひとつ、瞬いた。
群れは、確かにそこにいる。
そして時間は、もう、味方ではなかった。




