#003 少女漫画マイスター美陽
やってしまったという顔までは隠せなかったものの、颯斗は普段通りの対応は出先ではまずいと思った。目立つことの方がここではマイナスに思えた。
「ぶつかって悪かった」
怒りのスイッチが入りかけていた夕葉の眉間は、予想外の言葉に緩んだ。
「き、気を付けてよね」
夕葉が脇を通り抜ける。爆発は起きなさそうだ。
早く帰って収録の続きに戻りたい、そう思えば、どうしてかしろもものことが思い出された。
(ああいう絵の描ける人は、やさしくて大人な人なんだろうな)
絵柄の雰囲気だけで、勝手なしろもも像が膨らんでいく。小柄で淑やかな人ではないだろうか。
雀のさえずりが聞こえて、思わず口元がほころんだ。
直前まで気が張り詰めていたのに、今はもうすっかりほどけているのが不思議だった。
なぜか空の青と白のバランスがあまりに美しく思えて、写真に収めたくなった。
だが、スマホを出そうとした手は膨らみのないポケットをかすめるだけだった。
レジに並んだ夕葉は、荷物を置ける手前のスペースに、見覚えのあるスマホが置きっぱなしにされているのに気付いた。間違いない。颯斗のだ。ケースの間に挟んでいるステッカーの趣味は悪くないと思った時の印象が強くて覚えてしまった。
(何やってんの、あいつ……)
このまま店員に預ければ良いだろうか。
でも、コンビニに忘れたということに気が付くだろうか。自分が届けた方がより確実ではないだろうか?
一瞬の逡巡の後、目の前の店員があまりに眠たげな顔をしながらあくびをしたのを見て、自分で届けようと決めた。
会計を済ませてすぐ、夕葉は店を出て左手に曲がった。颯斗の家がどこかなんて知らないが、去り際にそちらに向かって歩いていったのは視界の端に映っていた。
遠くに薄ぼんやりと人影が一つ見えた。もし彼でなければ、明日また渡そう。
果たして、はっきりと見えてきたのは颯斗だった。
「鷺沼!」
小走りで来たせいで息が上がって苦しい。
「あんた……レ、レジの所に、これ、忘れてた」
受け取ろうと伸ばしてきた颯斗の手は彫刻のように見えた。美しいと感じる心に夕葉は嘘をつけない。その指先がほんの少し夕葉の手に触れると、奇妙なもどかしさを覚えた。
「ありがとう」
何の屈折もない、透明さだけでできた声は、一瞬颯斗のものだと認識できなかった。
「どこで落としたのかってすごく焦ってた」
「レジの荷物置きの所に置いてあったの」
「ああ。財布出す時に置いたままにしたのか」
「しっかりしなさいよ。あたしだったから良いけど、場合によっては悪用されたりもするんだから」
「だな。本当、助かった」
お互いそれ以上は言葉が出てこない。
どちらともなく背を向けると、二人はそろりそろりと歩きはじめた。
振り向いても颯斗の姿がまるで見えなくなると、夕葉は吐き出しきれないまま溜め込んでいた吸気を一気に吐き出した。
得体の知れない感情がまだ胸のどこかに引っかかっている気がする。
(いつもああいう態度なら、別に……)
「あー、もう、何か心がざわざわする!」
そう小さく吐いた所に、てん、てんと青いボールが転がってきた。
「ゆうはちゃーん!」
ボールを持ち上げた夕葉のもとに駆け寄ってきたのは、美陽の弟の陽向だ。
少し先には美陽の姿も見える。
「こんにちは、陽向くん。お姉ちゃんとボール遊びしてるの?」
「うん! ゆうはちゃんも遊ぼ!」
「いいよ。三人で遊ぼうね」
ボールを軽く美陽の方に放る。これで気持ちが晴れてくれれば。そんなふうに考えてみた。
けれど、考え込む性格の夕葉には気持ちを簡単に切り替えるのは難しかった。ボールを取り損ねて「がんばってよー!」と陽向に言われてしまう始末だ。
「お姉ちゃんたちちょっと疲れちゃったから、陽向は鉄棒しておいでー?」
「うー、わかったー」
見かねた美陽が助け船を出すと、夕葉は顔を伏せた。
促されるままベンチに腰を下ろす。
「何かあったの?」
「そうじゃ、ないんだけど……」
「じゃあ当ててみよっか。鷺沼君のことでしょ」
「えっ、なんで分かるの」
「当たると思ってなかった」
美陽は黒目だけを右にずらした。
「ここに来る前に会ったの?」
夕葉は先刻の出来事を手短に説明した。
「なるほど……いつもだったら怒りが爆発して終わるのに、そうならなくてどうしたら良いか戸惑ってる、と」
「言語化上手すぎでしょ……」
「少女漫画マイスター美陽様の手にかかればざっとこんなもんです」
美陽はかけてもいないメガネをくいっとあげる仕草をしてみせた。
「なんでそこで少女漫画の話が出てくるのよ……」
「この世の女の子の悩みはたいてい少女漫画に載っているものなのです」
「絶対嘘だ……」
「でも本当、夕葉は鷺沼君のこと意識してばっかりだよね」
「はぁ!?」
あまりに大きすぎる声を上げてしまって、夕葉は思わず辺りを見回した。陽向は気に止める様子もなく逆上がりを成功させていた。
「どういう見方したらそうなるの!」
「そこまで嫌いだったら普通は意識の外に追いやらない? 私はそうだって話だけどさ。私、夕葉の口から鷺沼君の話聞かない日の方が少ない気がするよ?」
「あいつが自分からあたしの世界に入り込んでくるの!」
机にぶつかったり、ドア付近でぶつかったり。後ろに回したプリントに全然気付かなかったり。教室の入口に立って友達と話していて通れなかったり。
「むしろあいつの方があたしのこと気になってて、変な絡み方しようとしてるんじゃないの」
「あたしではなく、あいつがそうだと。なるほどー、そっちの考えに行き着きますかぁ」
五指を突き合わせてニヤつく美陽を見て、自分の発言のまずさに気付いた。
「例え、例えだし!」
「今までだって、嫌いな人はいたでしょ。でもどこかで関わらなくなったよね? お互いとことん興味がないなら、鷺沼君もそうなんじゃない? でももしそうじゃないとしたら……むしろ、実は運命の相手だったりして」
夕葉は口を半開きにして眉を下げた。
「あのさぁ……少女漫画の発想ねじ込まないでよ……どうやったらあたしがあんなのと一緒になるわけ?」
「むしろそういうのこそ最後にくっつくんだって。『仮面キャラメリゼ』もそんな感じで完結したし」
「また……何だっけ、夢永? キッカの漫画?」
「そうそう、夕葉も読んでみてよ、前話してた『東京フレグランス』最新巻まで貸すから!」
「そこまで推すなら……一応……」
「うん、明日持っていくね!」
この後に待っているだろう「読んだ?」「どうだった?」攻撃を予想して、心の中でため息を一つ。親友の提案には応えてあげたいとは思うのだが。
「あ」
素っ頓狂な声を出して、美陽は口元を手で覆った。言葉はそこに続かない。だがそれが逆に、夕葉の関心を誘う。
「何、気になる」
「いやー、夕葉には言わない方が良いかなぁ」
「良いよ、言ってよ」
「来週末遠足だよね」
「そうね?」
「班決め今年はランダムだって言うじゃん?」
夕葉は再びジト目になった。
「もしかして二人が一緒の班になっちゃうんじゃないか、ってつい少女漫画脳が」
「ない」
夕葉は美陽に極限まで顔を近づけて言った。
「そんな冷たい声出さなくても」
「ぜっっったいない。ないない、有り得ない、もうなさすぎる、そんな運命認めない」
「すごい言うじゃん」
ねぇーちゃーん! と陽向が二人の近くに駆け寄ってきた。
「陽向くんもそう思うよね? ね?」
「何のはなしー?」
「そこまで必死にならなくても……なんか、ごめん……」
「分かれば良いのよ、分かれば」
陽向はぽかーんと夕葉の顔を見つめつつ、美陽の手を取って「ブランコ押してー」と連れて行った。
*
「なんでこうなるのよ〜っ! 美陽のバカ〜っ!」
翌日、教室には夕葉の声が響きわたった。




