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#019 心音0708

 門をくぐった瞬間――校舎に入った刹那――教室に姿を見せた矢先――凍てついた空気が張り詰めた。

 それまでも、彼女にこっそりと惹かれている男子はいた。ハッキリと物を言う姿勢。それを象徴するかのような目元の(きっさき)。だが、それはあくまでも彼女が空間すべてに放っていたものではないし、普段のやんわりとした雰囲気も相まってこそ、真価を発揮するものだった。

 目を奪われる者――細める者、見開く者、思わずそらす者。

 彼女――夕葉を、夕葉だと思えたのは、美陽をはじめとした、本当に友達と呼べるごく僅かな女子だった。

 少し前まで夕葉から感じ取ることのできたあたたかさが、完全に消え去っている。

 窓際の自分の席に向かっていくその姿には、誰をも寄せ付けない絶対的な拒絶が見えた。

 たまたま先に来ていた颯斗は、夕葉と目を合わせた。何かと衝突してばかりだった頃のように似ていた瞳は、すぐに重なるのをやめた。

 一言も発することなく、夕葉は鞄を机の上に置いて、席についた。

(触らぬ神に、だよな)

 わざわざ不機嫌の理由を聞くような必要はない。

 颯斗は前に視線を向けた。


 だが、次第に颯斗にも異変が分かってきた。彼女は尋常でないほど確実に、彼を避けている。いや、正確にはまるで彼が居ないかのようにさえ振る舞っている。

 あるいは、颯斗が彼女の世界から消されてしまったのではなく、颯斗の世界から、居なくなってしまったような――

 卒業したら、顔も名前も思い出せなくなってしまうような、かつてのクラスメイトA。そんな存在にさえ感じられてしまうほど、徹底して接触の気配は遮断される。颯斗から話しかけるようなことはこれまでもなかったし、その必要も感じられはしないが、ここまで露骨に忌避されてしまえば、嫌悪感を覚えないわけにもいかなかった。

 衝突してばかりだったのが面倒で、接してこない方がマシだと思っていたのに、何だか最近、穏やかな間柄になって、見方を変えたばかりだったのに。

 あの時間だけが、特別すぎたんだろうか。

 美陽でさえ、たじろいでしまうような冷気を前にして、颯斗にできることなどあるはずもない。

 まるで、雪の王女が坐しているかのようだ。

 どうかしたのか、そんな言葉をかけられない彼は、(Twitter)を開いた。

 自分の好きなモノだけを集めて創った、閉じた世界。見たくないモノは締め出すことの出来る、優しくて、哀しい世界。居心地の悪さを緩和してくれるそこへ逃げ込めば、気が紛れると思ったのに。全然集中できない。

 自分でもよく分からない苛立ちがずっと胸の奥にある。

 以前とはまた違う確固たる拒絶の理由が何なのか、聞けば良い。聞いてしまえば良い。でもそれだけのことが、できない。

 どうやって不機嫌な人間に最初の声をかければ良いのか、空気の作り方も、角度の選び方も、努めて人との交わりを避けてきた颯斗には分かりようがない。

 自分に文句があるなら、前みたいに突っかかってくれば良い。いや、今や颯斗は夕葉にそうしてほしいと思っていた。そうすれば、それに憤慨するフリをして、本心を聞き出せるだろう。

 それなのに、夕葉は何も発さない。それどころか、こちらをちらりと見もしない。

 それは颯斗にとっては、ようやく得られた平穏だったはずなのに。


 夕葉の変化は、一日で終わらなかった。初日のような凍てついた雰囲気を周囲全体に発することはなかったが、颯斗は自分が透明にしか映らなくなっているとハッキリ分かった。

 だがそのこと伝えたとして、どうすれば良い? 自分にも彼女にどうしてほしいか分からないのに。かろうじて(あつし)になら話もできるだろうが、夕葉が夕葉の雰囲気が変わった以上のことを言えるわけでもない。

 結局、彼は一人、SNSを開くしかない。

 ただ、見かけ上、彼を支える人たちが溢れかえっているように見えるけれど、それはあくまで、麗音が好きだと言う人たちでしかない。颯斗が抱いたどんな疑問も、伝えることはできない。

 だから、タイムラインを見て、心を幾らか落ち着けるのが精一杯だった。

 現実(リアル)には、自分の居場所はない。

 鷺沼(さぎぬま)颯斗(はやと)としての悩みは、麗音の口から言うわけにはいかない。何がきっかけになって、燃え上がるか分からない数字になってしまった。

 麗音として生きる時間を増やすことで、現実(リアル)で空いた(あな)を埋め合わせるしかないように感じた。

 薫にした提案を思い出して、しろももへのメッセージ欄を開いた。まだどんな文言で頼むかは全く決めていない。それでも、過去のやり取りを眺めるだけでも安らぎを覚えた。

 何度か書いて、消してを繰り返して、結局無難なところに落ち着いた。

〝しろももさんにお願いがあるんですけど……〟

 しろももという四文字を打つだけで、動悸が速まる。一回一回のやり取りに緊張して、気を遣って、そんな感情になることに、幸せを覚えた。

 予想外に、返信はすぐに来た。

〝何でしょう? 私にできることなら、ご協力したいです〟

 すぐ隣で、夕葉が表情を氷解させている。けれど、現実(リアル)から目を背けてしまった颯斗は気付かない。

〝実は、【歌ってみた】ではなくて、オリジナルの曲を出すことが決まって、そのPVをしろももさんにお願いできたらと思っているんです。もちろん、代金はきちんとお支払いします〟

 夕葉は「しろももさんにお願い」以降の文章はほとんど読んでいないも同然だった。

 まさか、麗音の方からイラストを頼まれるなんて。しかも、自分の記憶が正しければ、彼が投稿しようとしている曲は――

〝【歌ってみた】じゃない歌を上げるのって、これが初めてですよね?〟

 しろももは麗音の全ての歌を聞いてくれている。そう気付かされただけで、気持ちがぐっと(たか)ぶった。思わず深く息を吸って、心を落ち着かせようと努めた。

〝そんな初めての機会をいただけるなんて……本当に私なんかで良いんですか?〟

 光栄に思うあまり、謙遜してしまう自分嫌だった。だから、返信が来るより先に言葉を重ねた。

〝いえ、やらせて下さい! ぜひ、ぜひやらせて下さい!〟

 その勢いは、颯斗の方が圧倒されるくらいだった。断られる可能性だって十分に考慮していたのに、こんなにも乗り気な返事をもらえるとは。

〝こちらこそ、ぜひお願いします。引き受けていただけて、本当に嬉しいです。もう少し詳しい話が決まったら、またお伝えしますね〟

〝分かりました〟

〝あ、そうだ。あの、もし、良かったらなんですけど……Discord(ディスコード)の連絡先、交換しても良いですか? 通話したりもするかもしれませんし〟

 通話という言葉を出して良かったか? と(はや)った気持ちに戸惑いもしたが、どのみち、(Twitter)でのやり取りには限界があるだろうし、と自分に言い訳した。

 ただ、颯斗の心は別の思惑を小声で囁いていた。

 それ以外のことも話してみたい、だなんて、ささやかながら、けれど強い思い。

 すぐさまDiscordを起動してフレンド登録用のURLをコピペした。まるで、一秒でも遅れたら、彼女の気が変わってしまうような気がして。

 二人だけのチャット画面に、颯斗は〝そのアイコンの絵も素敵です。やっぱり、しろももさんの絵、すごく好みです〟と打ち込んだ。

 (Twitter)のものとは違って、真っ白な帽子を目深にかぶって、目元を隠した女性。しろももはこのような深層な令嬢かもしれない。また、ひとりでに想像が走って行く。

〝そんなに褒めていただけるなんて、恐縮です。そうだ、せっかくなら、こちら、差し上げます〟

 (Twitter)では別のイラストレーターに先を越されてしまって渡す機会を失っていたイラスト。

〝えっ、い、良いんですか〟

〝ファンアートです。仕上がった時が深夜だったので翌日に投稿しようと思っていたら、そのまま上げ損ねてしまって〟

 我ながら浅ましい言い訳だと思いつつ、麗音ならきっとそのままに言葉を受け止めてくれるに違いないという勝手な期待があった。

 すく隣で口角が上がりそうになるのを必死に抑える本人がいるというのに、二人は個室にでもいるかのように、それを意識の片隅にすら置くことはない。

〝だったら、今、Discordのアイコンにしても構いませんか?〟

〝はい! もちろんです!〟

 大勢が気軽に繋がれる(Twitter)と違って、選ばれた者しか繋がる権利を得られないDiscordのアイコンに自分のを使ってもらえる――とろりと、心の奥深くにある何かが溶けていくような感覚があった。そこからじんわりと心臓があたたまって、身体中に幸せが満ちていく気がする。

〝歌以外はもうできてるので、後で送っておきますね。歌の方は、収録が終わったら、真っ先にしろももさんにお聞かせします〟

 ふいに舞い込んだ奇跡に、二人とも現実(リアル)なんてどうでも良いと思いはじめていた。

 気に入らないことも、心に引っかかってくる人も、いない。

 これは依頼の話だ、そう言い聞かせても、その心に世界がつけた名前を意識しないでいるのは、もう無理だった。


 きっと自分は、恋をしはじめている。

 けれど互いの心音は、どれほど強まっても、隣にまでは、届かない。

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