#016 瞳の揺らぎ
「やっほー鷺沼! 元気してっかー!」
ライブ以降、湊が頻繁に颯斗のクラスへ来るようになった。
「今日は何しに来たんだ……」
「うんにゃ? 特に用はねぇけど? 友達に挨拶すんのは普通じゃん?」
「まあ、それは、そうか……」
この湊のマイペースっぷりが、裏では功を奏してることに颯斗は気付いていない。
ライブを見ていた女子たちの中では、鷺沼颯斗は実は割と悪くないんじゃないか、という話が出ていた。それが、よりにもよって風高女子の中でも超上位に位置する湊が積極的に接触しているおかげで、どうにも話しかけに行きづらいのだ。
それでも隙を伺う女子たちは、湊のいないタイミングに接近しようとするわけだが、湊との交流が増えてからの颯斗には基本的に生気が無かった。
「あんなののどこが良いって言うんだろ」
そわそわした颯斗の周りの空気を、美陽の隣で夕葉が冷めた目で見つめる。
「元々ルックスは悪くないじゃん?」
「そう?」
「私は全然好みじゃないけど、ああいうダウナーっていうの? 物静かな女の子にはグッと来るものもあるんじゃないかな」
眼の表情は変えないまま、夕葉は颯斗を見つめていた。やはり、少し前から、彼への敵意が和らいでいる。
「あたしには分かんないや。あいつの良さ」
そう口にした瞬間、一瞬だけ、夕葉の心にノイズが走った。
脳裏にかすめたのは、夕焼けを綺麗だと語った声。
「ねえ、美陽」
自分の思い込みを排したら、本当は彼はどんな人に映っているんだろう。
「うん?」
「やっぱり、何でもない」
そこまで、彼を自分の傍に近づける必要がどこにあるのか。そんな問いがすぐに後を追って浮かんだ。毛嫌いする必要まではなくなった気がするクラスメイト。それで別に、何も困らないはずだ。
「そっか」
美陽は気づかれない程度に表情を和らげた。
「可愛いから、コレ、もらうね」
そして、夕葉のお弁当箱の中のプチトマトをひょいっと横取りした。
「ちょっ、だったら、卵焼きもらっちゃうし」
仕返しに、夕葉は美陽の卵焼きを取った。
「しょっぱい」
「え?」
「美陽ん家の卵焼き……しょっぱい」
美陽は真顔で夕葉の顔を見つめた。
「卵焼きって、しょっぱいものじゃないの?」
「うちのは甘いよ」
「ちょ……っと想像出来ないかも。今度食べてみても良い?」
「うん」
ずっと仲良くして来た美陽のことだって、知らないことがたくさんある。そう思った。
消えたはずの問いが、もう一度還ってくる。
(鷺沼のことだって――)
視線は自然と、窓の向こうを見つめる彼の横顔に。
〝俺は――〟
そういえば、結局、何が好きなのか聞きそびれてしまった。
聞いたところで、何になるのか分からない。そもそも、どうしてそんなことを尋ねようとしたのかさえ。でもそれは、これまで彼に抱いていた気持ちと、それほど大きく変わらないのかもしれない。
(何が気に食わなかったんだろう)
些細なことでぶつかって来た。どこが気に食わないのか考えても、いつからそうなってしまったのか、分からなかった。もう少し少し前の彼女なら、怠惰な姿勢が気に入らないとか、もう少し周りのことも考えてほしいとか、言えたかもしれない。
けれど今、颯斗を刺すような言葉は見当たらなかった。なぜ彼を眼の仇にしてきたのか、それすらも曖昧だ。
ただ、颯斗を受け容れたくない気持ちだけが、永久凍土みたいに残っている。
思わず、彼から目をそらした。
その感覚は、すごく居心地の悪いもので、ずっと直視していたら、自分が自分でなくなってしまうような気がした。
(もう忘れよう。誰にだって、良いところと悪いところがあるんだし。そう、それだ)
その気持ちをなくしてしまうことに、物惜しい感じがしてたまらなかったけれど、不安定な気持ちで居続ける方が、彼女には耐えがたかった。
何も、無かった。
それで良い。
生まれ出ようとした新しい自分を、深層に閉じ込めて。
痛みを厭う気持ちを、誰も責めることは出来ないように、目が惹かれるのも、ごく自然なことではあるけれど、どちらにしたって、振り回されるのはごめんだ。卒業したら、関わりなんてあっという間になくなるはずなのだから。
すぐ目の前にいる親友に上手く伝えれば、良いのかもしれない。きっとそうなんだろう。けれど、どう伝えれば良いか、何から話しはじめれば良いのか、まるで分からない。何一つ定まっていない謎の感情を、言語化することができない何かを、伝えられる側がどんな思いをするか考えれば、言葉に詰まってしまう。
一人で悩んで、一人で無理矢理終わらせる。
こんな時、きっと彼の歌声なら――
夕葉は無理にでも口角を上げた。
妙な違和感が自然と消えていくのを感じながら、遠くに見える入道雲を眺めて、心を落ち着かせた。教室では刻々と近付いてくる夏休みについて、クラスメイトたちが盛り上がりを見せている。
そうだ、夏休みに入れば、当面の間、会わずに済む。より一層、今まで通りの感情が還ってくるに違いない。
誰より先、夕葉は教室を出た。
だが、少し歩いたところで、今一番聞きたくない声が、彼女を呼び止めた。
「何」
自分でも驚くほど、他者を拒絶する冷たさがあった。もう、分かっている。鷺沼は嫌な奴でも、悪でもない。でも、彼といると、自分の中に歪な思いが生まれてくる。
「これ」
颯斗の手には、手のひらサイズの推しのぬいぐるみを入れた透明なポーチがあった。ボールチェーンの部分が外れていた。
彼の顔にはただ、持ち主への心配だけが乗っている。
どうして、今、この男なんだろう。そう思いながら、大切なものを拾ってくれた彼にかけるべき言葉は、一つしかなかった。
「あ、ありがと……」
(どうして嫌ってるんだろう)
そんな風に、また思って。
素直な感謝の言葉の後に、何も続かないのが苦しかった。
背を向けてしまった。
彼の目には、無愛想な女が、さっさと受け取って消えていくように映っているだろう。
歩速が勝手に上がっていくのを感じながら、自分が何から逃げているのか、分からなかった。
そもそも自分が、分からなくなった。
こんな時、行ける場所が普通ならあるのかもしれない。自分にとって、それは本来、美術部だったりするのかもしれない。部員の誰と仲が悪いわけでもない。ただ、絵をほとんど描かずゲームをしていたり、Tik Tokを見ているばかりの子たちを、好きになれないと思った瞬間から、自然と距離ができていた。
いや、距離を作っていた。
(あの子たちも、あたしが近づけば、分かろうとすれば、ちゃんと仲良くなれたの?)
校舎から随分離れると、ふくらはぎが限界を訴えた
泣いていた。いつから涙がこぼれだしたのか、分からない。もしかして、颯斗に呼び止められた時から既に、そうだったかもしれない。
(嫌だ)
ただ、その言葉が、胸中に渦巻いた。思考がぐちゃぐちゃになった。
押し寄せる感情の奔流を打ち消したくて、彼女は彼に頼った。
どうしてかは知らない。でも、彼の声が耳に流れ込んでくるほどに、荒い呼吸は少しずつ穏やかになっていく。
世界には、ごく僅かなものだけがあれば良い。止まらない涙によそえて、願っていた。




