#015 贈与と葛藤
夕葉は背もたれに体重を預け、自室の宙を見た。シーリングライトの暖色がほんのりと部屋全体を照らしている。
ここまで筆が進まない絵は、初めてだった。
ライブの後、取りかかり始めた麗音のイラスト。
麗音は時々ファンアートの中からアイコンを借用する。自分のが採用されれば良い、そんな思いもあった。
だが彼は、麗音という存在のイメージを特段設けていてはいないのか、こだわりがないのか、過去のものをどれだけ振り返っても、共通するデザインなどは見当たらなかった。
無数のファンアートを探ってみれば、特に再生数の多い曲の【歌ってみた】であてがわれたキャラクター像が、準公式といった感じになってはいるが、次の曲が出ればまたすぐに別のものに移ってしまう。
その定まらなさ――無数のキャラクター性こそが彼の魅力の一つとも感じて、共通する要素を見出したり、何かに寄せようとしたりするのはやめた。
だからこそ、それほど悩まなくても良いはずなのだが、麗音への強い想いが、握ったペンを上手く動かしてくれない。描いてはctrl+Zを押す、描いてはctrl+Zを押すを繰り返す。
既に無数のラフがいくつものレイヤーに溜まっていた。どれも悪いわけではない。中にはこれでも、と思えるものもあるにはあった。だが、それは「これでも」ではあって、「これなら」ではなかった。
はぁ、とこぼれる溜息。
まだまだ絵師としての力が足りない。描き出したい麗音の力強さもやさしさも温もりも、自分には十全に描き出せないと思えてならない。軽く着彩までしたレイヤーを試しに表示してみたが、良くないわけではない。決して。納期があるイラストなら、ここで思い切って進める方向に舵を切っただろう。
だが、これはあくまでも自分の意志で、彼に捧げたいと思ったイラスト。絶対に妥協はしたくない。もちろん、誰に渡すイラストだってそうだが、麗音に渡そうとしているのだ。
どこまででも突き詰めていけるし、逆に言えば、どこまでも終わりが見えない。一ヶ月だって、一年だって、かけてしまえる。でもこの熱は、時が経てば経つほど冷めていく。
消えてしまう前に。失ってしまう前に。
それなのに、思ったような線も引けなければ、塗りもできない。
完全に手が止まってしまったのもあって、一度諦めて気分転換にXを開く。
フォロー数の少ないタイムラインは、今日も穏やかで、絵師仲間が参加する次のイベントについて呟いていたり、落書きを載せていたり、アイドルゲームのガチャで推しが永遠に当たらないとかぼやいたりしていた。
平和な世界。あるいは、そこでくらい、そうありたいと願う人たちが、作り上げているのかもしれなかった。
その中に、夕葉は彼の姿を見つけた。
麗音はさほど浮上するタイプではないし、呟く量も少ないから、その姿を見かけるのは珍しいことのはずだった。それが、ここ最近は割とタイミングが合う。
〝運命の相手だったりして〟
また美陽の声がする。でも、今度はあながち否定しきれなかった。その上で、ネットの向こうの人と? という疑問も浮かぶ。
(あ、でも、風高の生徒かもしれないんだ)
だが、顔も知らない、ほぼ赤の他人なのも事実だ。
〝そのイケメンくん、私の顔見て、しろももさんですか? って聞いて来たのよ〟
だとしても、顔立ちは良いのか……とは思ってしまう。
菜々の好きな顔の系統は知っている。となれば、夕葉も悪くないと感じはする。その顔立ちで、あの声。
(でもこれも、ネット恋愛の延長、みたいなやつだろうし、素顔を知ったらがっかりしたり、迷惑になったりするのかな……)
境界線がどこにあるのか、分からない。菜々のように最初は友達として知り合って、NaNaNaNaとして活動していると知れば、問題がないのだろうか。
もう一度、麗音のプロフィール画面に飛んだ。
目を疑ってしまった。
麗音のアイコンが、変わっていた。
その絵柄を見ただけで、誰だか見当がついた。
〝鬼灯いるか様から、素敵なアイコンをいただきました〟
等身の低い、ポップでコミカルなキャラクターを得意とした絵師だ。NaNaNaNaと他何人かでやったお絵かきチャットで、少しだけ交流したことがある。速筆で画力も高かったが、通話中にとにかく喋りまくるし、最初からタメ口で話しかけてきたものだから、あまり好い印象を抱かなかった。
そういった経緯もあってか、まるで――盗られたような気持ちがした。
麗音は、しろももの、何でもないのに。
あの日――麗音からフォローされていることに気が付いた日から、ずっと同じだったアイコン。どんな人かは知らないけれど、麗音と言えば最初に思い浮かべていた姿。
それも誰かが手がけたものではあったのだろうが、今度は違った。
次のアイコンは、夕葉が――しろももが描いたものになるのだと、いつの間にか、勝手に思いはじめてすらいた。
〝これからも時々描かせてもらえたら〟なんて、言うつもりだった。
けれど、先を越されてしまった。迷っている間にチャンスは消えてしまった。今から麗音に絵を描いても、それがアイコンに採用されることはないだろう。
身勝手な失意で、彼への想いが立ち消えそうになった矢先、新しい【歌ってみた】が上がったと呟かれた。
指先は自然とサムネイルに吸われていた。
『それでも、君と。』
PVのイラストを手がけているのは、鬼灯いるかではなく、初めて目にする人だった。
イントロなしに入ってくる麗音の声。
ずっと遠くへ、小さくなっていく少女に伸ばされる手。
数小節後の「それでも」という囁きは、あたかも夕葉に向けられたもののようにさえ聞こえた。
PVを通じて少女の顔は描かれず、少年の憂いを帯びた表情だけが続く。麗音の声からは、本当にその少女を知っているような悲痛さが感じられる。
少年が意を決して席を立てば、モノクロの回想の中で、花瓶が割れる。
現実に戻れば、少女の席は空になっていた。
歩道橋の上。向かいのホーム。雑踏ですれ違って振り返っても、いつも彼女は刹那の内に消えている。
セピア色の指切りの直後、「――約束だよ」という文字だけが僅かな間だけ映る。本当に微かな麗音の言葉は、少年が信じる最後のよすがなのかもしれない。
どれだけ走っても追いつくことのできない真っ白な世界の中で、それでも少年は走る。
「何度も浮かんだ 諦め」
行く手を阻む〝諦めろ〟〝忘れてるって〟〝昔の話だろ〟の文字を振り払う。破り捨てる。押しのける。
いつの間にか、夕葉は画面の向こうの少年を応援していた。負けるな。折れるな。絶対彼女の所にまで追いつくんだよ。
「君との明日を 掴んでみせる」
気が付けば、視界は潤んでいた。
胸の奥がジンジンと灼けていた。
(この絵は、彼の何にもならなくても)
そうだ。どうしてこれが、たった一枚だと思い込んでいたのだろう。
次の線は、思い通りのものが一度で引けた。ひたむきさが見える眼に、遠く未来まで届かせる歌声を奏でる喉元。
拡大と縮小を繰り返して、バランスの崩れや細かな違和感を小刻みに確かめる。
筆が進まないせいで時間がかかるはずだった絵は、満足を何乗にも重ねて仕上げていきたいという、これから無数に描くことになる、最初の一枚に変わっていた。
彼もきっと、歌に対してそうに違いない。
だから、麗音と向き合うのに相応しい絵師のあり方は、そうあるべきだに感じた。
届けたいものがある。受け取って欲しい気持ちがある。
一度でダメなら、二度でも、三度だって。




