#013 Spicy Poison
あっという間にライブ当日。
その日は朝から、教室が俄に騒がしかった。
低血圧の颯斗は、相変わらず瞼が開いているのか怪しい状態で登校して来た。
「おはよ、颯斗」
「何の騒ぎだよ……」
「ラメントって知ってる? ゲーム実況で有名な」
敦はいつでも同じテンションだが、今日は心なしか高い気がした。そのせいか、朝から妙な話を振ってくる。
「いや……俺、ゲーム実況見ねえし」
「だったらピンと来ないかもしれないけど、ラメントって有名な実況者が、3組の中瀬って奴だって分かって、もう大騒ぎでさ。マスクしてて完全には顔出ししてなかったんだけど、普通にイケメンだから女子もキャーキャー言ってるよ」
「へえ……」
「何だよー、そんなに興味無いのかー?」
意外と身近な所に有名な人物ってのは潜んでるもんだな、とぼんやり思った。一応自分もその手のクチだし、他にもいるだろうとは思いってはいたが、それより、飛び火して自分の正体に行き着くのは面倒だな、とため息をついた。
一介の高校生としての平穏な生活を、送りたい。それが鷺沼颯斗の信条だ。
そんな一騒ぎがあっても、五時間目が始まる頃にはいつもの空気が戻って来て、授業を受けながら舟をこぐ者、絵を描く者、頬杖をつくフリをしてこっそり音楽を聴く者など、普段通りのだらけた雰囲気が広がっていた。
颯斗も放課後まで、フル充電でもするかのように机に突っ伏していた。その様子を見て、上がったばかりの彼への評価は緩やかに下がってはいったが、今日はどうしてか苛立ちはそれほど感じなかった。
七限目の終わりを知らせるチャイムが鳴ったと同時に、教室の中は再びざわつき始めた。活気づいた教室で、一番活き活きとしたのは、軽音楽部だ。後方のロッカーにもたせかけていたギターケースを背負ったり、足先で細かくリズムを刻む姿が見られた。
むっくりと起き上がると、颯斗は登校した時と同じ気怠い感じままで教室を出た。
そのまま緩やかなペースで部室に向かおうとしたが、後ろから湊にガッシリと肩を組まれた。
「いよいよだな」
「よりよってトップバッターじゃ、心の準備する時間もないだろ……」
「んなのはどんな状況だって結局同じだっての」
部室には美園も茉莉亜が先にいた。
「や、やっぱり、直前になると、き、きき緊張します」
「大丈夫だ、茉莉亜。きっとアイツが空からアタシらを見守ってくれてるから」
「いや、それ天に召された時の言い方だから。それに、ゆかりは病室で懲りずに決闘に勤しんでると思うよ」
「誰か一回アイツボッコボコにして、反省させてやってくれねぇか?」
「全国大会まで行っちゃうようなガチっぷりらしいからね……そう簡単にはいかないんじゃないかな」
件の決闘者が何者なのか、ここしばらくの会話で聞けば聞くほど、気になってしょうがない。どうしてだか、語尾は「だぜ!」な気はしたが。
他の出場バンドも落ち着かない様子でチューニングを確認したり、ヘッドホンをつけて目を閉じていたりする。
「お前はあんま緊張してなさそうだな」
「古河もそう見えるが」
「アタシは場慣れしてんだよ。でも颯斗はそうじゃないんだろ? それとも何かやってたのか?」
「いや。ただ別に、成功させることだけ考えてたら、そこまで気が回らなかったっていうか、な」
「肝が据わってて良いじゃねえか。茉莉亜に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ」
「ど、どうせ飲むならおせんべさんのが……」
脳内で「そんなんいくらでもくれたるからな!」という鬱陶しい声が聞こえた気がした。
それにしても、なぜわざわざ歌い手の名前を出したのか、今朝の実況者の身バレの件もあって、訝しまずにはいられなかった。
「一番目のSSSSatisfactionさーん、ステージにお願いしまーす」
スタッフ役の生徒に呼ばれると、湊がなあ、と三人に呼びかけた。
「今日あいつはいねぇけど、SSSSatisfaction、最高のライブにしてやろうぜ!」
三方から突き出された拳に、一瞬颯斗は躊躇ったが、最後の一人として、十字を完成させた。
「今日はアタシらSSSSatisfactionのライブに集まってくれてありがとう。ゆかりのバカがやらかしたせいで、今日はここにはいねぇけど、代わりにアタシのダチのお墨付きのヤツを助っ人に呼んできたから、変わらずSSSSatisfactionのライブだと思って、聞いてくれ! それじゃあまずは一曲目、行くぜ!」
ドラムのスティックが幾度か音を立てたかと思えば、もう、颯斗の心に他の感情はなかった。
今ステージの上に立っているのは代理としての颯斗なのか、名乗っていないだけの麗音なのか、そんなことすら関係ない。
結局、身バレするかもしれないという、最初の悩みは彼にとっては関係がなかった。マイクを前にして歌いはじめれば、どんな名前を名乗るにせよ、歌うことに真摯でいられないはずがなかった。
ただの軽音楽部のライブだと思っていた生徒たちが、ざわつき始める。
何だ、この歌声は。
どうしてここまで、心の一番深くに訴えてくる。
練習で何度も耳にしていたはずの湊たちでさえ、颯斗の本気の歌唱に一瞬意識を持っていかれそうになった。
ホールのドアは途中から入ってくる生徒のために、半分は幾らか開けられていた。そこから漏れ聞こえてくる歌声を耳にすれば、素通りできない者たちが誘われていく。そしてまた、その姿を目にした者たちも……。
茉莉亜が支えた背骨から、美園が無数の枝葉を伸ばして、湊が無数の色を咲かせる。
そして颯斗の歌声が全ての目を吸い寄せる。
ほとんどの生徒が彼が誰かを知らない。麗音という名で歌い手をしているということはおろか、何年生かすら分からない。その素性より、今は歌の中身に聞き惚れていたい。その欲求が何より勝る。
ギターのイントロと共に、流れるように二曲目へと移る。
茉莉亜が小遣いのほぼ全てを捧げるほど、愛を注ぐアニメ映画の主題歌。
敵の罠によって、仲間全員と闘う運命に陥ってしまった主人公の、たった一人の奮闘を描いた映画の主題歌。
颯斗の叫びは、主人公の叫び。
「何度失っても また繋いでみせる」
映画を観た者たちには、そのシーンが、そうでない者たちにも、それぞれのビジョンが、ありありと目に浮かんでいた。
「何度すり抜けても また掴んでみせる」
会場全体が、主人公を――ボーカルを応援していた。
SSSSatisfactionの次のバンドに友だちが出るからと、美陽に急かされた夕葉は、わずかに開いたドアの向こうから、今最も彼女の心に近い人の歌声を耳にした気がした。
まさか。もしかして。そんなはずはない。相反する思いが交錯するも、入口まで溢れた人たちのせいで、ステージで熱唱する彼の姿を視認することは難しい。
もし、麗音が何の因果か歌い手としてではなく、学校で歌わなければならない事態になっていたとしたら。
〝これって要するに、本気を出したら身バレするかもしれない、って話よね〟
あの話が、このことだとしたら、あの向こう側に、彼が――麗音がいる。
けれど、彼は身バレするのを嫌がっている。でもそれは、有象無象に対してであって、しろももである自分には――刹那のためらいの内に、最後の一小節が終わってしまった。
「ありがとうございました! 次のライブはゆかりの奴を首根っこ掴んで連れてくるんで! 今日はこの助っ人に、アタシら以上に拍手をお願いします!」
ホール内にはMCの言葉と同時に拍手喝采が起こる。
会場の熱気と、ずらりと並ぶオーディエンスのせいで、麗音かもしれないあの人に焦点がまるで合わない。
どうにか列に割り込んで前に抜け出た頃には、バンドのメンバーは舞台袖にはけてしまっていた。
(彼は、この高校の誰かなの……?)
ハッキリとまでは聞くことができなかった歌声は、夕葉の心にシルエットだけを残した。
その夜、夕葉は湯船に口元まで浸かっていた。ぶくぶくと泡が立つ。
美陽の友だちのバンドは去年話題になったJ-POPを歌っていたはずだが、どんなものだったかまるで思い出せない。家に帰るまでも躓きかけたし、夕飯の麦茶をこぼしたりもした。
穏やかで、なだらかで、けれど、甘く、とろけたような気持ち。ベッドに横たわってからも、視線の先に、何を映すわけでもない、ぼんやりとした時間が続いた。
その静寂を切り裂いたのは、携帯のバイブレーションだった。
美陽からのLINEだった。課題の範囲をメモした紙を学校に置き忘れて来たから、教えて欲しいとあった。
スマートフォンは、一度ロックを開けると、なかなか手放す気が起きない魔法の箱だった。
Instagramのストーリーを眺めたり、pixivを覗いたり、漫画サイトをはしごしたり。それからしばらくして、Xを開いた。
真っ先に、麗音の呟きが目に入った。
〝今日のライブ、上手く行った〟
たったそれだけの投稿だったが、あのステージで歌っていた彼が、安堵している姿が想像できた。
すぐにメッセージを開いて、〝お疲れ様です〟と入力した。それだけだと、少し味気ない気がして、きらきらと瞬く絵文字を添えた。
ねぎらいの気持ちは、通じるだろうか。
不安はありつつも、送信ボタンを押す手は、今日も動いた。
それに対する返信は、意外にも即座に来た。
〝ありがとうございます。本気でやって正解でした。身バレした感じもしないし、杞憂でした〟
麗音からの返信には、顔文字は無かったけれど、そんなことよりも、自分の言葉が彼の背中を押せたことが、嬉しくて仕方なかった。
もはや、麗音が風上高校の生徒の一人だというのは、彼女の中では確定事項だった。
麗音は、どんな人だろう。
ベッドから降りて、机に向かう。
彼が何者なのか、暴こうという気はない。むしろ、彼女は麗音の理解者の一人になりたかった。
果たして、喜んでもらえるだろうか。それとも、そこまで親しくなったわけではないと、嫌がられてしまうだろうか。
いや、きっと、喜んで受け取ってもらえる。そう、信じたい。
その頬は、微かに紅く染まっていた。




