#012 いつか思い出す時間
バンド練習の仕上がりは上々で、当日には十分な余裕を持って挑めそうだった。
つい先日、新しく上げた『1900』の【歌ってみた】もランキング上位に載ったことで、もう一人の颯斗も勢いづいている。
放課後、開放感のある教室。帰り支度をする生徒たちの中で担任の相原が何の気なしに声をかけたのが――
「鷺沼、と榊原、済まないが、一つ頼まれてくれないか?」
担任団には去年からもいたし、二人のことは新卒の教員だってある程度把握してきているのに、全く生徒たちの内情に関心がない。
「ホームルームで明日配る予定のプリントを何種類も刷ったんだが、やることもたくさんあって、悠長に一枚ずつまいてる余裕はなさそうでな。まとめた方が良い気がしたんだよ。五枚一組でホチキス止めにしたいんだが、あいにくこれから出張が入ってるんだ。二人にはそれを手伝ってもらいたい。で、出来上がったら職員室の俺の机の上に置くように頼むよ」
「石田先生がいるでしょう?」
夕葉はすかさず副担任の名前を出した。
「石田先生は今日は午後休なんだなぁこれが」
「他に頼める先生はいないんですか」
「こんなちゃらんぽらんな奴にいると思う?」
教務手帳を自分の肩にトントンと当ててウィンクする相原に、二人が向けるのは軽蔑の眼差し。
「何かあったらよ、そん時は口利きしてやっから。な?」
「ちゃらんぽらんな先生の口利きなんて頼りにならないと思いますけど」
「じゃ、そういうことだから! 頼んだ!」
相原は用紙の束を教卓に残して行ってしまった。
二人は互いをチラと見合う。それから周囲に目をやった。あれだけいたはずのクラスメイトは、いつの間にか全員いなくなっている。
「はぁ……あたしもこれくらい適応力が高かったら良かったのに……はい、これ、あたしがセットにしてくから、あんたホチキスやって」
お前が仕切るのか、と思いながら、颯斗はそれとは別に抱いた疑問について尋ねる。
「ホチキス、持ってるか?」
「持ってない」
「だよな……」
「取ってきてよ」
「どこからだよ」
「そんなの自分で考えて」
颯斗と一緒の空間にいることさえも嫌だと、トゲのついた言葉が飛んでくる。
放課後の教室、夕日に照らされた男女。光景ばかりが美しい青春の一ページ。劇作家はよくやったのに、配役が悪かった。
二人は向かい合うことすらせず、会話をするには余分すぎる距離を取って、交わろうともしない。仲裁に入る第三者もいないのに、タスクが二人を結びつけて放さない。
「……分かったよ。何とか探して来るから。先にやっててくれ」
この場から逃げるが勝ちだと、颯斗は教室を出た。大してあても無いが、あのまま夕葉の近くにいるのが、何より息苦しかった。
颯斗のブレザーの裾が消えたのを確認すると、夕葉は大きく息を吐き出した。彼といると、それだけで強張る。そもそも男子の近くにいるの自体得意ではないが、颯斗の一部始終はとりわけ目について、イライラする。
〝実は運命の相手だったりして〟
脳内で語りかけてきた美陽に、だから、そうなんじゃないから。と答える。
五枚を一セットにまとめながら、これまでの颯斗とのやり取りを思い返す。
入学式で何か嫌な思い出があったような、と思い出しつつ、今年に入って、より一層嫌悪感を募らせたのはクラス替えの時だったな、と思い至った。
仲の良かった女子とはほとんど離れ離れになり、まともに話せる美陽も、榊原と藤川だから席が遠い。周囲は意地の悪い神様のせいで男子ばかりで、座っていなければならない間は、孤独な時間が続いていた。
そんな中、唯一顔見知りなのは、またしても同じクラスになった鷺沼颯斗。
このままクラスで孤立したくはない。そんな思いが、彼女の背中を押してしまった。
「あ、あのさ」
颯斗はまた何か言われるのかと思って、「何だよ」と返した。寝不足だったし、軽い頭痛もあった。
だがもう、それが夕葉にとっては致命傷になった。
それ以後、颯斗と言えば、丁寧さを欠いていて、無愛想で、人に無関心で、無礼で――
「ホチキス借りてこれた」
イメージの数々を一瞬で粉々に砕いた――あの顔を、一度だけ見たことがある。どこだったか。そうだ、スマホを返した時に「ありがとう」と言った時だ――颯斗に、「早く終わらせようね」というするりとした言葉が出た。だが夕葉自身は、自己の変容に気付かなかった。
「だな」
左の目尻を少し下げながら、ゆるやかに微笑んだ颯斗の顔を、やわらかな西日が照らす。その一瞬、夕葉は彼を、綺麗だと思った。容姿が、いいや、違う。その感覚は、夕葉が絵のモチーフを選び取る時のそれに似ていた。
ドキリ、でもなければ、ドクン、でもない。スマホを返した時よりハッキリと心の中にあるそれが、何なのか分からない。
「は、早く片付けちゃお。そこに揃えたやつ、並べてあるから」
「分かった」
目も合わせたくない彼に、今は、目を合わせられない。だがそれは、恋ではない。恋ぐらいは、知っている。だったら、何だ。これは。
カチャン、カチャン。
静かな夕暮れの教室に、ホチキスの音だけがが小気味良く響く。吹奏楽部の練習も、野球部の打撃音も、テニス部の声出しも聞こえてこない。
カチャン、カチャン。
今、夕葉は颯斗を厭わしく思わなかった。もちろん、好ましくはない。けれど、ただのクラスメイトと作業をしているという虚無感もここにはない。
カチャン、カチャン。
横にいくつか並べた机を挟んで、夕葉は颯斗と向き合っている。完全に別の方を向いてしまえば良いだけの話なのに、それは負けだと思っている自分がいる。
カチャン、カチャン。
普段なら慣れているどころか、好きなはずの静寂が耐え難い。あの席替えの日みたいに、何かが夕葉の背中を押した。
「あ、あのさ」
「ん? どうした?」
さっきの表情のように、とてもやわらかい声だった。はじめから夕葉の耳になじむようにチューニングされていたかのような、直接心にまで届く音。
「あたしがいつも、その……あんたに、とやかく言う時、か、勘違いだったりする時、ある?」
颯斗は何度か目を瞬いた。
「の、時もあるかもしれない。というか、俺、何かしたか? って思う時はある」
「そっか……」
「でも、後から考えてみれば、お前の言うとおりだったな、って気付かされることもあるな。教室の入口近くに立ってて邪魔になってるとか。俺、ぼーっとしてること多いからやりがちだけど、最近はたまに、意識してる。……これでも」
何を言っても変わらない人――じゃない。颯斗が急に、別世界の住人から、同じクラスの一部に、いやそれよりもずっと近しい存在に見えた。
いつも何かしらに苛立ってばかりいるから意識したことがなかったが、ドア付近での文句はあまり言わなくなったような気がする。その変化に、ただ注意するばかりの夕葉は、気付けるはずがなかった。
本当のこの人は、どんな人なんだろう。今度はもっと積極的な意思が、背中を押した。
「ねえ、あんたって、何が好きなの」
「俺は――」
「お、二人して何してるんだ、委員会か?」
英語の美作先生がふらっと現れたかと思えば、「ってこれ、明日のホームルームで配るプリントじゃねえか。もしや、相原、お前らに仕事押しつけてるんじゃないだろうな」
「出張なのに準備忘れてたらしいです」
即答する夕葉に、颯斗は特に相原へのフォローを入れなかった。
「こんなもん生徒にやらすなんて言語道断だな。相原は俺がきつーく叱っとくから、もう帰って良いぞ」
二人は一瞬見つめ合ったかと思うと、それぞれに帰り支度を始めた。一緒の方向に踏み出して、どちらからともなく距離を空けた。
「俺は――」
颯斗はそのままに、自分の一番愛してやまないものを答えるつもりだった。
「今日の夕焼け、すごく綺麗だな」
だがそれ以上に、紅と紫、そして橙の織りなす夕景色に惹かれてしまった。
それは夕葉にとって、あまりにも不思議な感覚だった。彼女の心に合うように整えられていた声で、夕と口にされた時、意識の全てが持っていかれそうな気さえした。
「う、うん。この景色、見られたから、ちょっとくらいの居残りは、ラッキーだったかも」
普段のように吸気が肺の奥に入っていかない。
階段を降りて、昇降口の所にまでやって来ると、さすがにこれ以上の会話は生まれようがなかった。
「ま、また明日」
「あ、ああ」
少しずつ薄れゆく夕暮れのグラデーションを、二人はもう同じ歩幅では行かない。けれどその顔には、いつものような険しさはなかった。
そんな普段とは明らかに異なる二人の様子を、忘れ物を取りに戻ってきた美陽は見ていた。夕焼けに照らされた校門に向かって歩いていく二人は、絵のように美しくて、思わず足を止めて、微笑んだ。




