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#001 歌い手麗音と絵師なしろもも

 鷺沼颯斗さぎぬまはやとは歌が好きだった。物心がつく前から、美しく澄んだ母親の声が、童謡、子守唄、流行りの曲として、彼の耳に入ってきた。

 小学校で一番好きな教科は、音楽。合唱の時間が、何より楽しい。伴奏が耳に染み入るのを感じながら、腹の底から湧き上がる喜びが、喉を通って、たくさんの歌声と一つになる。

 帰り道も一人歌って帰りながら、次の音楽の時間を思って顔がにやけるのを嬉しく思った。

 けれど、年を重ねるにつれ、周りの友だちは、歌うことを嫌い始めた。中学に入ると、毎年ある合唱祭の練習の時間が、一番重苦しいものに変わっていた。


 学級委員長の女子が態度の悪い何人かにきつい物言いをしたその日、クラスの雰囲気は最悪だった。

 劣悪な空気を吸うに耐えかねて、颯斗は学校を出た。秋の夕暮れは皮肉なほどに美しく、どうして自分が好きなものを他の子も好きになれないのかと、ため息が漏れた。

 買ってもらったばかりのスマホを開くと、好きなアーティストのPVを流しはじめる。目を瞑って歩いていれば、世界は音楽と颯斗だけになるように思えた。ギターの余韻がうっすらと消えていったかと思うと、聞き馴染みのない声がして、思わず画面に目をやる。自動再生がオンになっていたらしい。

 すぐに別の動画に移ろうと思ったが、その歌声があまりに彼の聴覚を支配して、離さなかった。

 刹那、彼は全身の血が沸き立つのを感じた。鳥肌が立っている。

 いったい、誰なのか。

 動画のタイトルには、曲名と、その後ろに、【久音くおん・歌ってみた】の文字があった。


 歌を心から愛する人間が創り上げる、別の世界。

 中学二年生の少年は、麗音れおんとして、圧倒的な人気を獲得した――



 颯斗は生物のノートの上で(Twitter)のタイムラインをスクロールしていた。次の時間には成績に関わると脅されているテストがあるが、やる気が全く湧いてこない。もっとも、貧相な点を取ることはないのだが。

 横手からスマホの画面を覆い隠すようにニュッと手が飛び出てきた。

「なあなあ、鷺沼、お前麗音の新しい歌みた聞いたか? アップロードから一日も経ってないのにもう十万再生行きかけてるぞ」

 右隣の彼は去年様々な科目で1がつきかけて大騒ぎしていたはずだが、喉元過ぎて熱さを忘れたらしい。後数分でチャイムが鳴るが、今のところ机の上には教科書はおろか筆箱すら見えない。

「麗音って?」

「お前知らないのかよ、今めちゃくちゃ人気の高校生歌い手。凄ぇよなぁ、俺らと同い年なのに、同じ世界の住人とは思えねぇくらいかっけぇんだよ」

「そりゃ凄いな」

「今日家帰ったら絶対聞けよな」

 颯斗は半笑いを浮かべながら、お前が今騒いでる麗音は、同じ世界でお前の地獄がすぐそこに迫ってるのを少し気にかけてるよ、と胸の内で呟いた。世の中には彼に限らず正体を明かさない学生の仮面シンガーはたくさんいるが、自分がその内の一人だと考えてみると、身近にいる誰かがそうなのではないだろうかと思うこともある。

「あんたたちうるさいんだけど」

 後ろから声がして、颯斗は溜息を吐いた。榊原さかきばら夕葉ゆうはは彼のことをとにかく嫌っていて、何かあればすぐに小言を言ってくる。

 わりわり、と隣の彼は謝ったものの、颯斗は何も言わず無視を貫いた。その姿勢に、また夕葉が腹を立てる。

 だが、ちょうど生物担当の吉田先生が入ってきたことで、それ以上の非難は浴びずに済んだ。


 轟沈した右隣の哀愁を横目に、颯斗は解答用紙を前に送った。吉田先生の苦々しい顔を見る限り、あまり出来は宜しくなさそうだ。

 それから少しして、演習の時間になった。思った以上に早く解き終わって暇になった颯斗は、そっとスマホを出した。吉田先生は成績がある程度伴っていれば、そうした振る舞いには目を瞑ってくれる。

 休み時間に閉じていた(Twitter)をもう一度開く。

 クラスの多くがやっているInstagramは颯斗には少し難しかった。ストーリーに上げたい内容がないし、DMであれこれやり取りをするのも億劫だった。

 他の歌い手や音楽業界のトレンドをそれとなく眺める。新しい【歌ってみた】の投稿告知はするが、あまりに通知がうるさくなるため、基本的にミュートにしている。

 今日は目立って興味を惹かれる投稿は見当たらない。最後にもう一スクロールだけして、それで終わりにしようと決めた。

 瞬間、心を鷲掴みにされる感覚。本能が、それを良いと言っている。

 銀髪の美青年が、黒い手袋の指先を噛んで手から引き抜こうとしているさま。エナメルの深い黒と光沢とが際立つ塗りに、骨の形状を静かに主張する輪郭。切れ長の眼は現実離れした絵画のデフォルメがなされているのに、見るものを吸い込んで離さない濃さがある。髪の一筋一筋が、その息遣いを今にも伝えようとしてやまない。

〝wip〟

 とだけ書かれているが、颯斗はその意味が分からなかった。イラストの用語だろうか。

 腰から下はまだ清書がされておらず、線画がそのまま残っている。

 ここまで心を動かされるような絵に出会ったことは無かった。しかも、目にした刹那に。

(どんな人が書いてるんだろうか)

 自然な興味と関心をもとに、颯斗はアカウントのプロフィールに飛んだ。彼、なのか彼女なのかは、しろももというらしい。ハンドルネームの他には、〝気まぐれに絵を描きます〟とだけ書いてあって、直近のツイートもイラストが中心で、素性を垣間見せるようなものはなかった。

 その不透明さこそが彼女を知りたいという欲求に繋がってか、思い切ってフォローしてみることにした。彼からフォローをするなんてことは非常に珍しかった。

 フォローが返されることを期待してはいなかった。ただ、彼の心をこんなにも掴んだ人として、このしろももという人がどんな人か、関わってみたいという思いはあった。

 ゆっくりとで構わないから、いつか、知ることができたら。そう思って、颯斗は携帯をロックした。



 数学の授業中、廊下で大きな物音がした。夕葉も含め多くの生徒がその方を向いたが、前に座る颯斗はそんなことは気に止めず携帯を弄っていた。それがまた、夕葉の気を悪くさせる。

 ファーストコンタクトが最悪だった。先入観も何もなかった入学式の日。榊原と鷺沼で前後だった二人。夕葉が後ろにプリント回そうとしたが反応がなく、振り向くと颯斗はうとうとしていた。明け方近くまでMIX作業をしていたからだが、もちろんそんなことは彼女には伝わらない。「おーい」と声をかけると目を覚ましたが、プリントを認めた颯斗は一言も発することなく、そして細めた目を向けてプリントを手にした。ただ眠たいだけだったが、夕葉からすると不機嫌な男子が自分の非を認めずにプリントを奪い取ったように感じられてしまった。

 それ以来、颯斗は夕葉にとって嫌悪の対象で、さらに似たような出来事が何回か続いた結果、完全に無理な存在になってしまった。今や一番嫌いな男子と言えば、間髪入れず颯斗の名を上げるほどだ。

(何なのこいつ、ほんと。四六時中スマホいじってるなら、いっそのこと学校来なきゃ良いじゃん)

 夕葉も問題を早く解き終えて手持ち無沙汰になった時には、ノートの端に絵を描くことがあったが、周りの様子は気にしている。それが人としての最低限のマナーだと思っている。颯斗からはそういったものがまるで感じられない。

 内側から湧き上がる苛立ちをどうにか噛みつぶしながら、眼前の背中を彫像だと言い聞かせた。

 午前中はそれで耐えきった。だが今日はいつになく彼の一挙手一投足が気に障ってしまう。

 親友の美陽みよと昼食を食べていると、机の角に颯斗の腕が当たった。スマホを見ながら歩いているから、距離感を誤ったらしい。それだけでも既にイラッとしたが、謝罪の言葉が一つもないのが許せなかった。

「あのさあ」

 背中に声をかけるが、反応がない。

「ちょっとあんたさ!」

 思わず声を荒げてしまう。

 ようやく颯斗はこちらを向いた。耳にはワイヤレスイヤホンがはまっている。

「一言くらい謝ったらどうなの?」

 颯斗は先ほど自分の手に伝わった衝撃が、夕葉の机に当ててしまったことだと気付いた。よりにもよってこいつのにか、と思いながら手っ取り早く謝ることにした。

「ああ……悪い」

「何よその言い方、本気で思ってるの?」

 思わず夕葉は立ち上がっていた。よくあることすぎて、美陽は特に驚かずお弁当のプチトマトを口に放り込んだ。

 颯斗の中で夕葉はよく吠える犬のような存在になっていた。何を言っても変わらない、と彼女へのイメージは凝り固まっている。

(だる……さっさと帰ってアレ歌いてぇな)

「悪かったよ、ほんと」

「ちょっと!」と夕葉が呼び止めるのも構わず、颯斗は自席に戻ってイヤホンの音量を上げた。

 拒絶の姿勢にこれ以上言葉をかけても無駄だと悟って、吐ききれない苛立ちを飲み込んで座り直す。

「ほんと何なのあいつ。マジムカつくんだけど」

「まあまあ。そんなに眉間にシワ寄せてたら、クセになっちゃうよ?」

 美陽は朗らかな笑顔で口にする。しそとチーズの挟み揚げを口にして、ん〜! と喜びの声を挙げるのを見れば、夕葉の心もいくらか落ち着いた。

 その後の授業では、夕葉は颯斗を意識から外すよう心がけた。だが、意識しまいとすればするほど、かえって意識の奥深い所に彼が居座ることになる。とにかくこの席が悪い。くじ引きのせいでしかないが、高校生にもなって嫌いな奴と前後だから替わってほしいとは言えない、そう思い甘んじて受け入れたのはやはり間違いだった。

 放課後になると、夕葉は取るものも取りあえず美術室に急いだ。東棟の四階の端まで行くのは骨が折れるが、そこなら絶対に颯斗と鉢合わせることはない。

 美術部員としては、夕葉はパッとしない。来たければ来たら良い、というような軽い雰囲気の中で、多くの部員はお菓子を囲みながら雑談したり、延々と動画を見たりしている。夕葉を含めた一部の純粋に絵を楽しむ部員は、端の方で黙々と個人作業をするのが常だ。

 だが今日は、F10号のキャンバスに向かって思案するところまでは至ったものの、絵筆はまるで動かなかった。

 引き留める部員もおらず、彼女は一人美術室を後にした。

 イライラを抱えたまま家に辿り着くと、鞄からスマホだけを取り出し、それ以外は荒々しく放ってベッドに倒れ込んだ。

 ロック画面を点けると、フォロー通知が来ていた。イラストレーターだとしたら気分を大きく変えてくれるかもしれない、そう期待してプロフィールを表示した。

「え、何、何この人。凄い」

 表示されたフォロワー数は段違い。しろもものアカウントの優に十倍はいる。

麗音れおん……歌い手さんなんだ」

 歌い手の動画に絵を提供したりすることもあるが、歌い手界隈には明るくない。フォロワー数的にも超有名な存在なのだろうが、聞き覚えはなかった。

 なぜこんな人がフォローしてきたのか。誤フォローも疑ったが、通知から数時間も経っているのに、〝フォローされています〟の表示のままだ。

(まあまだ、分かんないよね)

 驚いたせいか、胸の内を占めていた沸々とした感情は収まっていた。

 画面をロックすると、夕葉は目を閉じた。イライラする日は体力の消耗と睡眠欲が著しい。彼女はあっという間に眠りに落ちた。



 時を遡ること少し前。

 アルデンテPというボカロPが『パラパラサイト』という曲を投稿した。

 彼はそれまで、良くても千回少しの再生数が限度だった投稿者に過ぎなかったが、本人もびっくりするほどの爆発的支持を得た。

 ファンアートが大量に描かれる、歌い手もVTuberも【歌ってみた】を上げる、MAD動画が量産され、TikTokerが踊って多方面の媒体で認知された。

 そしてそんなムーブメントの中に、麗音としろももも身を投じることになった。『パラパラサイト』は間違いなく、〝今年の曲〟だった。

「予定変更してこっちを歌うかな」

 颯斗は別曲の録音の直前にこの曲を知った。話題性や再生数を意識してのことではなく、単純な好みで【歌ってみ】ることを決めたのだが、それだけ耳に残る印象強いフレーズと、繰り返して聞いてしまう中毒性があった。

 歌うと決めてから投稿するまでの間隔をできるかぎり開けないのが彼のポリシーだった。彼の【歌ってみた】は案の定とんでもないスピードで再生され、ボーカロイドが苦手な層からの認知度をさらに押し上げた。


 夕葉がその日麗音の【歌ってみた】の告知を目にしたのは、彼にフォローを返していたからではなかった。

 彼の投稿を引用する形で〝PVのイラストを担当させていただきました!〟と呟いていた絵師が相互フォロワーだった。一対一で話したことはないが、一度絵チャをした中にいた。

 彼女の絵は夕葉の憧れの一つだったから、歌を聞くというよりはイラストを見る目的で、サムネイルをタップした。故に、夕葉はそれが麗音のものだとは認識していなかった。

 動画サイトが立ち上がり、本家PVに勝るとも劣らない圧倒的迫力の映像が流れ始めた。

 そして最初の発声。

 あまりに大きなざわめき。全身を電流が奔る。鳥肌が立っていく。それがリアルタイムに分かる。

 最も優れたもの、心を奪い去ってやまない魅力に接した時、夕葉はいつもその感覚を覚える。ほんの一瞬、彼の声一つで、文字通り、落ちた。それは間違いなく、彼女の人生に必要なものだと、身も心も言っている。

(あたし、この人の歌、好きだ)

 誰なのか知りたくて、投稿者の名前を見た夕葉は驚かずにいられなかった。ついこの前、自分をフォローしてきた人気歌い手の名前がそこにあった。

 最後の一音まで聴き終える前にループ再生に切り替えて、何かに駆られたように真っ白の紙に向かって鉛筆を走らせ始める。心が先か、手が先か。そんなことはどうでも良い。

(この人はどんな人だろう?)

 彼女が描き出すのは、声がもたらすイメージ。

 こんなにも力強く、けれど滑らかで、儚さや切なさをも抱え込んだ声で歌う人がいる。

 彼女は初めて、自分から絵を贈りたいと思った。

 この素敵な人に、いつか自分の絵で歌ってみてほしい。そんな気持ちが降って湧いた。

 歌声だから。MIXしてあるから。そんなことは関係がなかった。彼の声が鷺沼颯斗のそれだなどと、夕葉に気付けるはずがなかった。

 そこにはただひたすらの憧れが、溺れるように、酔いしれるようにあったのだから。

 今この瞬間、夕葉の心には正反対の矢印が生じていた。

 彼女は颯斗が嫌いで――

 彼女は麗音を好きになった――

 そんな不思議な捩れ。

 彼女は慌ててX(Twitter)を開く。その急ぎようのあまり、危うくスマホを落としかけた。

 彼はまだ、フォローを外さないでいてくれているだろうか。どうかあれが手違いでないように――そう願って確認すれば、夕葉はそこにあった光景を天啓だとすら思えた。

 何故彼がしろももをフォローをしたのかは知らない。自分と彼とでは、天地の差がありそうなものなのに。それでも、もし、仮にでも自分の絵を良いと思ってそうしてくれたのだとしたら。いつか本当に、この声に相応しい絵を添えてみたい。

 そう思いながら、夕葉――しろももはそっと彼のアカウントをフォローした。

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