ジョイジョイの戦場で
──戦場は、怒声の中じゃなく、湯気の向こうにあった。
「職場って、家族みたいな場所にできるんですかね?」
この物語は、そんな問いから始まりました。
主人公・段田団吉は、街の小さなファミリーレストラン「ジョイジョイ」に人生を捧げてきた男です。
怒鳴り声と無愛想な態度で店を切り盛りし、「時代錯誤な頑固店長」と呼ばれて久しい彼ですが、
その胸ポケットには、亡き妻が遺したレシピのメモと手描きのPOPが今もひっそりと残されています。
“守るために怒ること”と、“信じて任せること”は、似ているようでまったく違う。
その違いに気づくには、たぶん時間と誰かの存在が必要なのです。
大学生バイト・真島涼との出会い。
亡き妻・春江が遺した想い。
変わっていく厨房とホールの空気。
誰もが少しずつ、何かを赦しながら生きている。
『ジョイジョイの戦場で』は、
そんな“戦場のような日常”に、もう一度光を灯す物語です。
読み終えたあと、
あなたが誰かの「帰ってこれる場所」を思い出してくれたら──
この物語は、きっと完成します。
午前五時、店内にはまだ誰の気配もなかった。
厨房の蛍光灯が、ゆっくりと明るさを取り戻していく。冷蔵庫の低い唸りと、電源の入ったフライヤーのかすかな音が、静寂の中に漂う。
段田団吉は、誰よりも早くその場に立っていた。
年季の入った白いエプロンを締めながら、ゆっくりと厨房の隅々を見渡す。
片手には、いつもの雑巾。油の染みが複雑な地図のように広がっている。
「……今日こそ、トラブルなしで終わってくれよ」
独り言のように、ため息まじりに呟く。
彼の声は低く、喉の奥に砂が詰まったような響きをしていた。
床にひざをつき、雑巾を滑らせながら、団吉は制服の胸ポケットに手を入れた。
取り出したのは、青いボールペンと、折りたたまれた小さなメモ用紙。
そこには、色あせた文字でこう書かれていた。
>「お客様より、クレーム入りました。アイスティーがぬるかったそうです。
>次回は氷多めでお願いします。──春江」
団吉はその文字を、無言のまましばらく見つめていた。
眉間に深いしわを寄せるでもなく、笑みを浮かべるでもなく、ただ静かに──。
ポケットにそれを戻し、今度は換気扇の下へと歩いていく。
店内に朝日が差し込むまで、あと一時間。
今日もまた、戦場の一日が始まる。
「いらっしゃいませー!」
真島涼は、少し裏返った声を出して、自分の頬を叩いた。
今日が初出勤。緊張で汗ばむ制服のシャツ。まだ夏の終わりだというのに、厨房は蒸し暑かった。
「……お前、声が軽い」
背後から聞こえたその一言で、涼の背筋が凍った。
振り返ると、無骨な顔の男が、腕を組んで立っていた。髪は短く、目つきは鋭い。
制服の名札にはこう書かれていた──店長 段田。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「謝るな。接客で“軽い”ってのは、お客が“軽く扱われた”って感じるってこった」
冷たい口調に、涼は反射的に背筋を伸ばす。
だがその声には、どこか「型」があった。感情的というより、訓練された職人のような音。
──この人、なんか昔の軍隊の教官みたいだな……。
そう思いつつ、涼は店内を歩き始めた。ホール、キッチン、レジ、ストックルーム──見た目以上に老朽化した店舗。油の染みついたカーペット、微かに漂う揚げ油の匂い。そして、スタッフの張りつめた空気。
「うちの店長、昔はもっと優しかったんだけどねぇ」
そうこぼしたのは、ベテランバイトの主婦、渡辺久美子だった。
彼女は皿を拭きながら、少し遠くを見るような目をしていた。
「奥さん、亡くなってからさ。全部、変わったのよ」
「……奥さん?」
「春江ちゃん。前はこの店で一緒に働いてたのよ。いい子だったわ」
涼は黙ってうなずいた。
その夜、業務後に片づけをしていた涼は、休憩室のロッカー裏に落ちていた小さな紙切れを拾った。
それは、手描きのPOPだった。
>「ナポリタンは鉄板でアツアツが基本☆
>笑顔と一緒にお届けしよう♪──はるえ」
何気ないメモだった。だが涼はその文字の“柔らかさ”に、妙に心を揺さぶられた。
そして直感した。
──この人は、こんな優しい人と一緒にいたんだ。
なのに、どうして……。
店長の目に宿る影、その声の裏にある何か。
真島涼の“違和感”が、少しずつ大きくなっていった。
木曜の昼下がり、店内の客足がいったん落ち着いたタイミングで、彼は現れた。
スーツ姿に細縁の眼鏡、左手にはタブレットを持ち、清潔な身なりにわずかな疲労の影。
ジョイジョイ本部のスーパーバイザー──永井。
「こんにちは、段田さん。お忙しいところ、すみませんね」
厨房の奥でレジ締め作業をしていた団吉が顔を上げた。
無表情のままエプロンの紐を外し、事務所の椅子に深く腰をかける。
「……視察か?」
「いえ、本日は“ご相談”です」
そう言って永井は、タブレットの画面をこちらに向けた。
そこには、新しくリニューアルされたジョイジョイの1号モデル店──銀座店の写真が並んでいる。
「全国統一デザイン導入の件、ご存じですよね?」
団吉は無言で頷いた。
「段田さんの店舗、築20年を超えましたよね。外観・内装ともに老朽化が進んでますし、
この機会に**“ジョイジョイ再編プロジェクト”**に加わっていただけたらと」
「つまり、“本部の言うとおりにしろ”ってことか」
「そう取られてしまうと、少し悲しいですね」
永井は苦笑しつつも、言葉には圧があった。
「マニュアル通りの接客、タブレットによるオーダー、業務効率化……
時代が変わってるんです。昔ながらの“個人店スタイル”じゃ、残れませんよ」
団吉は静かに、しかし明確に言った。
「ここはな、俺の戦場だ。
現場に立たねぇ本部の連中に、口出される筋合いはねぇ」
しばしの沈黙。永井は立ち上がると、穏やかな声でこう残して去っていった。
「……ジョイジョイを残すために必要なのは、“想い”じゃなくて“数字”ですよ」
その夜、真島涼は事務所の前を通りかかったとき、引き出しの中にふと目をやった。
開きっぱなしの引き出しの中には、何枚もの手書きPOPと、レシピメモがしまわれていた。
「この料理には、必ずパセリを添えてね。団吉の盛りつけ、意外と上手♪──春江」
そこには、ふと笑ってしまいそうな落書きまで添えられていた。
──この人、本当に昔は笑ってたんだ。
そのメモを見たとき、涼ははっきりと感じた。
この店は、ただ古びてるだけの“戦場”じゃない。
誰かの思い出が、いまも生きている場所だ。
数日前から厨房の奥に積まれていた古い段ボール箱。
「資材・備品」と書かれたガムテープの下から、真島涼は何気なく一冊のノートを引っ張り出した。
表紙は、シミの浮いた白いキャンパス地。端がほつれ、黄ばんだ紙にボールペンの走り書き。
「HARUE'S RECIPE NOTE」
その瞬間、涼の心臓がひときわ大きく脈打った。
厨房の片隅。レジ閉めが終わり、スタッフも引き上げた閉店後。
団吉はひとり、冷蔵庫の動作音に耳を澄ませながら、フライヤーの掃除に取りかかっていた。
そこへ、涼が静かに現れた。手に持った一冊のノートを、そっと差し出す。
「……これ、見つけました。春江さんの、レシピノート」
団吉の手が止まる。
「勝手に……見たわけじゃ、ないです。でも……少しだけ、読んでしまいました」
団吉は何も言わず、ノートを受け取る。
ページをめくると、そこにはシチューのレシピ。オムライスの作り方。手書きのイラスト。
そして──一番最後のページに、短いメッセージ。
団吉へ。
あなたはとっても不器用だけど、誰よりもお店のことを大事にしてる人です。
いつか、怒らずに“ありがとう”って言える日が来たら、きっとジョイジョイはもっと笑顔であふれると思います。
この店が、誰かの居場所であり続けますように。
──春江
その場に、沈黙が落ちた。
団吉の目は、しばらくノートの一点を見つめたまま動かなかった。
涼がなにか言おうとしたその時──
「……余計なことすんな」
掠れた声。だが、それは怒鳴り声ではなかった。
団吉はゆっくりノートを閉じ、静かに立ち上がった。
その背中が、ほんの少しだけ、揺れていた。
その夜、涼はメモ帳にこう記した。
> 店長、泣いてたのかもしれない。
> でも、泣いてもいいんだと思う。
> 春江さんの言葉、俺にも刺さった。
昼のピークタイム。キッチンは戦場のようだった。
オーダー伝票が次々にプリントアウトされ、フライヤーの前では油が弾け、ホールからは「アイスコーヒーまだ!?」という怒号。
そんな中、新人の涼が盛りつけを一皿ミスした。
「おい、これは何だ」
団吉の声が飛んだ。冷ややかで、鋭い。
「皿の向きが逆だ。ガロニ(付け合わせ)は右、ソースは手前って言ったろ!」
「す、すみません!」
「何度言えばわかる!? 客に出すもんだぞ! 気持ちが入ってねぇんだよ!」
怒声が厨房全体に響いた。
一瞬、空気が凍る。誰も言葉を発さない中、涼だけが俯かずに団吉を見据えた。
「……気持ちなら、あります」
「何?」
「春江さんのレシピ、読みました。
あの人は、“この店が誰かの居場所であり続けてほしい”って言ってた。
でも、今のジョイジョイは、ただの“怒鳴り声の飛び交う場所”です!」
団吉の眉がピクリと動いた。
「俺、間違ってますか?」
その瞬間、フライヤーの音だけが聞こえていた厨房に、乾いた声が返った。
「……黙れ。厨房は戦場だ。甘ったれたこと言ってんじゃねぇ」
「そうですか。なら、俺には無理です」
涼は帽子を外し、そのまま厨房を出ていった。
夜、渡辺久美子の娘──大学生の葵が、涼に声をかけた。
「ねえ、やめるつもり?」
「……かも。でも、店長って、本当はあんな人なんですか?」
葵は苦笑する。
「違うよ。……昔は、もっと“料理バカ”で、すっごい照れ屋だった」
「じゃあ、なんで今はあんな……」
「春江さんが、いなくなってからだよ。
“もう誰も近づけねえ”って、鎧着たみたいになったの。優しさごと閉じ込めて」
涼は黙ってうなずいた。
翌朝、団吉が出勤すると、厨房の床を拭いている姿があった。
涼だった。
「……何してる」
「まだ、辞めるとは言ってませんから」
「昨日は、悪かった」
団吉の声は低く、ぎこちなく、それでも確かに「謝罪」だった。
「厨房が戦場なら、俺も覚悟決めて来ますよ。
でも、誰かが“帰ってきたい”って思える場所にしたいんです。
──あんたが、そうだったみたいに」
団吉はしばらく無言だった。そして、床掃除用の雑巾を涼に投げた。
「おう。だったら、端からちゃんと拭け。厨房の“戦場”は足元からだ」
ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
雨上がりの朝。
厨房のステンレス台に、湯気の立つコーヒーと、小さな紙袋が置かれていた。
段田団吉が出勤すると、真島涼が厨房で包丁の手入れをしていた。
「おはようございます」
その声は、数日前よりずっと自然だった。
「……これは?」
団吉が紙袋を指差すと、涼は照れたように笑った。
「焼き立てのロールパン。春江さんのレシピ、再現してみたんです」
団吉は一つ手に取り、無言で口に運ぶ。
咀嚼し、ゆっくりと飲み込んだあと、ぽつりと呟く。
「──少し、焦げてるな」
「マジすか!?」
思わず声を上げた涼を見て、団吉が微かに笑った。
その日、開店前のホールにはスタッフ全員が集まっていた。
団吉が自らミーティングを開くのは、実に数年ぶりだった。
「今日から、店内POPを一部戻す。春江が描いてた頃のやつだ。
あと……新人教育は、俺がもう一回ちゃんとやる」
ざわめくスタッフたち。
涼が横で一歩前に出た。
「俺も、手伝います。……いや、“一緒に”やりたいです」
渡辺久美子が、ふっとため息をついた。
「店長がそう言うなら、私も久しぶりに笑顔の練習しようかしらね」
その日の営業は、驚くほどスムーズだった。
団吉は怒鳴らず、涼はよく動き、ベテランたちが自然と笑顔を取り戻していた。
閉店後、団吉は事務所の引き出しを開けた。
春江のレシピノート。その最後のページに、彼は自分の文字でそっと一行を書き足した。
> 春江へ。
> もう少し、ここで踏ん張ってみる。
> 俺はまだ、この“戦場”が好きだ。
春の陽射しが差し込む店内。
改装計画は“部分導入”として決着し、外観はそのままに、厨房とホールの動線だけが整備された。
注文タブレットは導入されたが、手書きPOPは残された。
電子音の鳴る中、色とりどりの手描き文字が客席にやわらかく彩りを添えている。
「いらっしゃいませー!」
その声に、団吉がゆっくりと顔を上げる。
ホールで新人バイトの指導をしている涼の姿。あれから半年、今では教育担当も任されていた。
「真島」
「はい?」
「新人の子、なかなか筋がいいな。教えがいがありそうだ」
「でしょ? 昨日、初めて“ありがとう”って言われたんですよ。嬉しかったっす」
団吉は小さく笑った。
閉店後、いつものように厨房の片づけを終えた団吉は、制服の胸ポケットを見た。
そこには、新しい小さなメモ帳と、春江の古いメモが一緒に入っている。
> 「ありがとう」の声が、厨房まで聞こえてきた日──
> 団吉がちょっとだけ、笑ってた。
メモは、いつかの葵が残したものだった。
何も言わずに、それをそっとポケットにしまい直す。
事務所の前、出勤簿の横に貼られた手書きのメッセージ。
それは春江の最後のPOPを、涼がリメイクしたものだった。
> 「ジョイジョイは、あなたの“帰ってこれる場所”です」
> 今日も、ありがとうございます!
団吉はゆっくりと、それを見上げた。
「……ここが俺の戦場だ」
けれど、その言葉にはもう棘はなかった。
守るために怒鳴るのではなく、支えるために立つ場所へ──
誰かの声が響く。
「店長、明日のシフト相談いいですか?」
「おう。……その前に、冷蔵庫の電源、もう一回確認しとけ。頼んだぞ」
今日もまた、ジョイジョイの一日が、静かに終わっていく。
──「怒鳴るしか、知らなかっただけなんだ」
『ジョイジョイの戦場で』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語の出発点は、「現場で働く人たちが、本当は何を守ろうとしているのか?」という問いでした。
段田団吉という男は、決して“いい人”ではありません。短気で不器用で、若者から見れば時代遅れの店長です。
でも、彼は“怒り”で職場を壊そうとしていたのではなく、“怒る”ことしか選べなかったのだと──
物語を通して、私自身が彼に教えられました。
日々の忙しさの中で、
本当は誰もが「笑顔のレシピノート」を胸のどこかに持っている。
それに気づかせてくれるのは、時に新しい風であり、時に失った何かの記憶です。
団吉と涼、そして春江の思いが交差するジョイジョイという小さな店。
その厨房の片隅に、
「それでももう一度、誰かと働いてみたい」
そんな気持ちがそっと芽生えていたら──
それがきっと、再生の第一歩なのだと思います。
もし、あなたの“戦場”にも心を揺らす瞬間が訪れたなら、
どうか大切にしてあげてください。
この物語が、誰かの日常に寄り添う小さな灯火になりますように。