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メガネの向こう<8>

自分の胸を後悔で一杯にしながら、康利はひたすら杏が帰ってくるのを待つ。

もしかすると、帰ってこないかもしれない。

時刻は既に夜中に近かった。何も無い寮の夜は早い。特に、三日も続いた企業コンペの後だ。慣れない仕事に走り回ったのは庶務課だけでは無いし、企画課や営業課はここぞとばかりに張り切っていた筈。寮に残る連中は、ほとんどが夢の中だった。

廊下や玄関から漏れるわずかな明かりを頼りに、康利は寮の門前で、伸びる坂の下に必死で目を凝らす。


その康利の願いが通じたかのように、門に滑り込んだタクシーが玄関に横付けされたのは、康利が門前で頑張り始めて、一時間も経たない頃だった。

タクシーの中に、杏の姿を認めて、康利が走り寄る。

一番最初に、タクシーの助手席から降り立ったのは、杏だ。

後部座席に駆け寄ると、ぐだぐだになった男に手を貸そうとしているのが見て取れた。

康利は思わず走りよって、一緒に男を支える。

酔っ払っているらしく、吐く息は酒臭い。

「笠置。助かるよ」

大柄な男は、どう見ても杏の手には余る。奥に座った鈴木は、タクシー代の精算をしていた。

それが済んでも、ぐだぐだで腰のたたないらしい男を、鈴木は自分が降りるのに邪魔だとばかりに蹴り飛ばす。

男の体は、前のめりになって康利に倒れこんできた。

タクシーが去ると、鈴木は康利の腕の中に倒れこんだ男を、引き起こそうとするが、ぐったりとした身体は、康利でも支えるのが厳しいのだ。

小柄とは云えないまでも、かなり細身な鈴木にはまったく歯が立たない。

「俺が運びますよ。鈴木さんの部屋でいいんですか?」

心配そうに見守る杏の視線に、康利がちょっと格好を付けたくなったのは、当然と云えた。

「ああ。悪いな。こいつ、昔っから酒癖悪くてな。ちょっと、他には任せられないんで、連れてきちまったんだ。おかげで、葛西を帰すのも遅れて」

「俺はいいですよ。でも、大丈夫なんですか?」

心配そうに杏が男を覗きこむ。それが少し面白くない康利は、さっさと男を鈴木の部屋へと放り込むために、男に肩を貸した。

薄暗い階段を、大柄な男を支えて上るのは、背の高い康利にも一苦労だ。しかも、寮監よりも長く居座っている鈴木の部屋は、最上階の一番奥の、この社員寮で最も広い部屋である。

通路を一緒になって男を支えてくれた鈴木が、自分の部屋の鍵を開けるために、背を向けた瞬間―――――さわさわと、不埒な感触が康利の尻を這う。

固まった康利が、思わず男を放り出そうとしたのは、無理も無い筈だ。むしろ悲鳴を上げなかったことを褒めて欲しい。

「笠置、世話を掛けたな」

振り向いた鈴木が、妙な体勢で固まった康利と、肩を支えられた男を見て、深いため息を付いた。

「いてぇ~」

鈴木は男の耳を引っ張って、自分の部屋へと押し込めると、固まったままの康利の耳元で、杏に聞こえないように、小声で、だが、真剣な侘びを述べる。

「すまん、奴には後で謝らせるから、ここは堪えてくれ」

そのあまりに真摯な響きに、康利が我に返った時には、男と鈴木は部屋の中へと消えていた。

残されたのは、メガネ越しに潤んだ瞳で見つめてくる杏と、すっかり出鼻をくじかれた形の康利だけである。

大きなため息を付いた康利が出来たのは、しかられるのを待っている子供のような杏の頭を優しくなでて、ため息と共に漏れた本音を云うのが、精々だ。

「あんまり心配させるなよ」

「うん、ごめん。まさか、こんなに遅くなるなんて思わなかった」

「そういう時はメールしろ」

頭をなでられながら、杏は何度もうなずく。

「待っててくれたんだよね」

杏の問いかけに、今度は康利が大きくうなずいた。



「酔い覚ましにコーヒーでも飲むか?」

「うん」

素直にうなずく杏を伴って、康利は自室へと戻る。

寮の部屋は至ってシンプルだ。

ユニットバスと簡易キッチンのついたワンルーム。部屋の造りはどこも似たようなものだ。

康利はこれだけは凝っている、インスタントでは無いコーヒーを用意する。豆はモカにした。少し酸味の強い方が、呑んだ後にはいいかもと思ったのだ。

コーヒーのいい香りが部屋中に漂う。

砂糖ひとつにミルクが多めが杏の好みだ。

マグカップを手にした康利が振り返ると、杏は座りもせずに、きょときょとと部屋の中を見廻している。

「杏。何見てるんだ?」

「うん。笠置の部屋って初めて入るから」

「寮の部屋なんて、何処もおんなじだろう」

「じゃなくってさ。俺たち、幼稚園の頃から一緒だったけど、笠置の部屋に入るのは初めてだろう」

云われて康利は、記憶を手繰った。だが、確かに遊びに来た記憶は無い。

「あれ、そうだっけ?」

「いつも、俺のところでさ。笠置、クラスが同じになったら、必ず俺の部屋に来るんだよ。クラスが別になると、一緒に遊びにも行かないのに」

くすくす笑う杏の前に、コーヒーを置いた。

康利と杏は、同じ幼稚園に通っていた幼馴染である。当然、同じクラスになったこともあれば、なれない時もあった訳で。

今では康利は知っている。どうすれば良かったのか。同じクラスではなくなったことで、康利と杏の関係が変わるわけでは無い。普通に誘えば良かったのだ。杏の隣に自分がいられないのが悔しくて、自分の目に入らないようにしていた。

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