メガネの向こう<7>
翌日は綺麗に晴れ上がった青空だった。
これならば、コンペにもそれなりの集客が見込める筈だ。初日は平日の為、どちらかといえば一般客より企業の営業を重視したものになりがちだが、それでもまったく一般客がいないと云う訳でも無い。
むしろ、暇に任せた引退したお偉いさんが訪れることなどもあり、気は抜けなかった。
早朝からしっかりとミーティングが行われ、それぞれが配置につく。
康利たち総務課の面々は、入り口近くでパンフレットを片手に、質問を受けた際の、簡単な受け応えを幾度も確認した。
杏はというと、既に企画課や営業課と共に会場の中である。
取あえず、小早川の思惑はどうであれ、渥美はそこまで場を弁えない人間では無かったらしい。
夕べ康利は、まだ眠いらしく足元のおぼつかない杏を、ほぼ抱えるようにしてバスを降りた。
「大丈夫だよぉ。笠置、歩けるって」
杏は寝ぼけ眼をこすりながら、そう云うが、その口調は明らかに半分夢の中で、危なっかしいことこの上ない。
ふらふらとした足取りは、放っておけばその場で寝てしまいそうだ。
実際杏は、時折足をとられて、康利にすがりつくように倒れこむ。かと思うと、半分寝てしまった顔つきで、ぼーっと康利を見上げてくる。
支えて歩く康利も、理性に負けて、思わず腰を抱く手に力を込めてしまった。
「笠置?」
これには、さすがの杏も不信な視線を投げかけてくる。
「歩きにくいよ」
「じゃ、もっとしゃんとしろよ」
抗議を入れる杏の言葉を、康利はきっぱりと無視した。正直、これ以上杏の目を見ていたら、犯罪者になってしまいそうだ。その代わりとばかりに、腰を抱く手は緩めない。
「分かったよ。もう、スキンシップ激しいぞ、笠置」
杏の方を見なくても、どんな顔つきで文句をいっているのかも、長い付き合いで康利は知っていた。きっと口を尖らせて頬を膨らませているに違いない。
「仕方ないだろう。ふらふらしてるんだ。大体、渥美部長程じゃ無いだろう」
「へ?」
つい、聞きたかったことが、口をついた。
「渥美部長って、妙にスキンシップ激しくないか?」
「え? そうかな?」
「教えてもらってる間、肩を抱かれたりとか?」
「え~ッ、無いよ、そんなの」
隣で心底意外そうな杏の様子に、これは本当に何も無かったんだと安心する。
「もう。変だよ、笠置」
おかしいのは誰の所為だと云いそうになるのを、寸でのところで思いとどまり、康利はそのまま杏を抱えて寮の部屋へと放り込んだ。
元々、渥美自身はそのつもりで総務課へ手伝いを頼んだ訳では無い。
要は小早川の下心だ。役に立つならば、別に杏で無くとも構わなかった筈である。
『考えすぎだ』
康利は、己に対するセクハラのことはすっかりと忘れきって、三日も続くコンペの仕事に精を出すことに決めた。
杏は多少、緊張していたようだ。
企画課に与えられたブースで、新しい商品の説明をしている間、何となく目が泳いでいる。
それでも、半分死体と化した企画課の連中よりはマシだと見えて、あとブース前に立つことも多かった。
それも、自信なさげだった一日目に比べて、三日も終わるころには、資料を作成しただけとは思えない、見事なものになっている。
だから、杏が
「今日打ち上げやるんだって」
と言い出した時も、
「ああ。頑張ったもんな。企画課でしっかりとタカって来いよ」
と軽く送り出してしまった。
それが、実はまずいことじゃないかと気づいたのは、慣れない立ち仕事で疲れた康利が、寮の部屋でくつろいで、風呂に入った後も杏がまだ戻ってこないと気づいた後のことであった。
既に最終バスも通り過ぎた時刻になっても、杏は部屋に戻ることは無かったのだ。
さすがに不安になった康利がまず訪ねたのは、同じ寮の企画課の鈴木の部屋だ。
だが、まだ鈴木も帰ってはいない。その事実に一応安心する。鈴木が部長と共犯とは考えにくいし、幸い鈴木は杏を可愛がっている。
送りもしないままに恋人のところへしけこむとは考えづらい。
だが、それでも不安なのは隠しようが無かった。
馬鹿だと思いながらも、寮の入り口で杏の帰りを待つ。
その間も、康利の頭の中では、いろいろな想像が勝手に駆け巡っていた。
杏も若造ではあるが、すでに立派な社会人だ。自分の始末くらいは自分で付けられる筈だが、それでも、理不尽な独占欲が康利を支配する。
こんなことなら、子供っぽい占有権など主張せずに告白くらいしておくんだった。
後悔が康利の頭を占める。
渥美部長にどこかへ連れ込まれたとされるのが、早計なことぐらい康利の煮えた頭でも解っていた。
企画課には、仕事の出来る切れ者な男女がひしめいているのだ。その中の誰かと恋仲にならないとは云えない。
企画課など、神経の張り詰めた職場だ。常に新しい発想と対応を求められる。そこで、杏の天然ボケな性格は、癒し系だと取られないだろうか?
そうなったら、自分などに勝ち目は無い気がしてくる。
杏にお似合いの可愛い女の子が出てくるまでは、杏は自分のものだと思っていた。
それが自分の思い込みであったことに、康利はようやく気付く。
お似合いの女の子が出てきた時に、自分はあっさりと杏を渡してしまえるのか?
応えは『否』だ。
こんな簡単なことも解らなかった昨日までの自分に、罵声を浴びせたいくらいだ。
まったくもって、自分はとんでもない馬鹿野郎だと。