メガネの向こう<3>
「なんだ、お前ら。休日まで二人一緒か?」
独身寮の門をくぐったところで、杏と康利を呼び止めたのは、同じ独身寮の先輩だ。普通、独身寮は大抵が、二、三年で出て行く。狭い部屋や規則だらけの寮は、いまどきの若い連中には敬遠される。ましてや、恋人も連れ込めないとあっては、嫌気が差すというものだろう。
所が、今、目の前にいるのは、そんな大抵の人間に属さない種類の男で、もう十数年もこの寮に住んでいる。独身寮の主、企画課の鈴木義彦だ。
「ええ。鈴木さんは? 今、帰ってきたところですか?」
「ああ。週末だからな。コレんとこ」
そう云って、鈴木は親指を立ててみせた。冗談のつもりなのか、本気で間違えているのかは、何とも判断がしがたく、康利は苦笑いを浮かべるしかない。
「あ、そうなんですか。いっそ、恋人のところへ住んだらいいのに」
「い~の。この距離がちょうどいいんだ。ホントに杏ちゃんはいい子だなぁ」
どこかずれている杏は、鈴木の言葉を額面通りに受け取って会話をしている。そんな杏の頭を撫でる鈴木の手も、康利には不快だった。
「杏。早く行くぞ。映画終わっちまう」
「あ、待ってくれよ。じゃ、鈴木さん」
杏は、鈴木へ軽く会釈すると、先へ歩き出した康利の後を追って走り出す。
大またで歩く康利に追いつくのは、背が伸びた今でも結構骨だ。走る杏の横をバスが通り過ぎる。独身寮のある街の裏山は、バスしか日常の足は無い。これに乗れなければ、また二十分以上も待つ羽目になる。さすがに置いていかれるような気がして、杏はダッシュを掛けた。
バス停には数人ほどがバスを待っている。全員が乗り込んでしまった後に、ステップに足を掛けたまま、康利が振り返る。
杏が追いつくのを見て、康利がバスに乗り込んだ。続いて駆けてきた勢いのまま、杏がステップに飛び乗る。
二人してバスの後方の席へと座った。
「何、怒ってるんだ?」
おずおずと杏は、康利に話しかける。康利も大人気なく当たってしまったのが解るから、余計にいらついた。
「お前、よく平気で話してんな」
「え?」
「鈴木さんだよ。あいつ、男のとこからの帰りだって云ってんだぞ」
ぼそりと康利はつぶやく。それに、意外そうに杏がきょとんとした。この天然は、本気で解ってなかったらしい。
「鈴木さんの恋人が男の人でも、別にいいじゃん」
だが、心底意外そうに、杏の口から漏れた言葉に、康利はぎょっとなってしまった。天然だとは思っていたが、本気であの鈴木の言葉を額面通りに受け取っていたらしい。
「男だぞ。あんな、オヤジにオトコ。冗談にしてもキモく無いのかよ」
「何で? 鈴木さんはいい人だろ。それに、冗談じゃ無いと思うよ」
「へ?」
康利は、杏の何でもないことを話すような口調に、余計にぎくりとした。
「気づいてない? 鈴木さん、日曜の朝、いつもと違う香りするんだ。ヘアトニックの匂い」
「そ、そんなの、女が用意してんのかもしれないだろ」
「女の人が用意するんなら、いつもと同じものを買うよ」
「男を自分好みにしたい女かもしれないぞ」
「それなら、鈴木さんの匂い自体が変わるって」
淡々と反論されて、康利はぐっと詰まってしまう。鈴木にさほど興味はなかったが、天然で鈍いと思っていた杏が気づいたことを、自分が気づかなかったことが悔しいのだ。
だが、同時に、杏が男同士に抵抗が無さそうなのもちょっと癇に障った。
鈴木はやたらと杏を可愛がっている。杏の周りには目を配っていた筈だが、思わぬ伏兵がいたらしい。
街を歩くと、周囲の女の視線が自分へと集まることが解る。
康利は、学生時代から、結構モテることは自覚していた。長身に男らしい容姿と体格。成績はそこそこ良くて、所属していた弓道部もその地域では上位の成績で、結構目立つ方だったし、人付き合いも良い。これで、モテないなどといえば、嫌味にとられるだろう。
実際に、中学・高校・大学と通して、特定の彼女がいたことは無いが、女に困ったことは無かった。
だが、康利の頭には、いつも杏のことがあった。
杏は、昔から天然で素直で、いつも自分の後ろを追いかけてきた。可愛いと思うのも、同じくらいにイラつくのも杏にだけだ。
大またで歩きながら、杏を振り返る。
後ろに杏がいるのを確認して、また歩き出した。
別に映画が見たかった訳では無いが、男同士が二人で出掛けるとなると、口実は限られてくる。
映画か、コンサートか、スポーツ観戦というところだ。
だが、杏は、流行の音楽には興味が無く、スポーツも詳しくは無い。インドア派なので休みの日は読書をするのが趣味だ。
それで、杏が好きそうな映画を見つけると、誘って出掛けるのが、日課になっている。
今日の映画は、売れない落語家の人情話だ。暗い映画館の中で夢中でスクリーンを見つめる杏の顔を、康利はじっと見つめる。
ストーリーにあわせて、ころころ変わる杏の表情は、通常では見れらないものだ。
康利は、夢中になってそれを焼き付けていた。