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メガネの向こう<2>

「渥美部長。庶務課です」

顔を覗かせた康利に、スキモノと評判の企画部長の顔がおもむろにがっかりとしたものになった。

おそらくは、杏が来ることを予想していたからなのだろう。

「雑費の申請があると伺いました」

とりあえず、とっとと用事を済ませて帰ろうと、康利が切り出す。

渥美企画部長は、スキモノではあるが、かなりの切れ者でもあった。もっとも、そうでも無ければ、ただのセクハラオヤジが企画部長など務まる筈も無い。

「ああ。そこに置いてある。わざわざ、済まなかった。持って行ってくれ」

渥美は興味無さげに、パソコンへと向かった。康利はサイドボードの上に置かれた申請書に手を伸ばす。

その康利の尻に、確かに手が当たった。

康利はぎくりとして振り返るが、渥美はひたすらパソコンに向かって企画を打ち込んでいる。

――――この、クソオヤジぃ……。

思わず、振り上げそうになるこぶしを堪え、何でも無い振りを装って、康利はドアを開けた。

「失礼しました」

「ああ。君も中々可愛いな」

しれっと云われて、こめかみがひくつく。だが、怒りを向けようにも、証拠が無いのだ。一応上司でもあることだし、こっちの方の分が悪い。

杏を寄越さなくて本当に良かった。ああ云う方面でも、切れ者らしい渥美に、杏のようなぼーっとした奴は、あっと云う間に抵抗できなくされるに決まっている。

「笠置。ちょうど、良かった。手を貸してくれ」

カリカリして歩いていた康利を呼び止めたのは、人事課長の宮川だ。

「はい」

康利はぶすっとしたまま、振り返る。

「何だ? 今日はえらくご機嫌斜めだな。もっとも、小早川さんの下じゃ、お前みたいなタイプは苦労するだろうがな」

「判ってるなら、聞かないでくださいよ」

にやにやと人の悪い笑顔を浮かべて、嫌味を並べ立てる宮川だが、やたらと色っぽい感じがする。

ふと康利は、この綺麗な男なら、セクハラ部長に迫られたりしたことがあるのでは無いかと、思い立った。

「手を貸すのは構いませんが、その代わり、質問に答えてください」

「ああ。構わん。おい、笠置を借りてきたぞ」

人事課にいる数人の女子社員が、歓迎の悲鳴を上げる。

「助かった~~」

「笠置、こっち持って」

男性社員は、容赦なく康利を使う気らしい。いきなり、机を抱えさせられた。

云われる通りに、あっちこっちへ机を移動して、パーテーションもそれに沿って移動させる。

一区切りついたところで、後は自分たちでやるからと、康利は奥に移動した課長の机の前に座らされた。

「ありがとう。笠置。助かった」

「今の時期に模様替えなんですか?」

「いや、数名の社員から、人事課は相談窓口が丸見えだと云われたんだ。確かに、人事に属する以上、相談事などは極秘だとは判っている筈なんだが、それでも人目は気になるものだ。それで、相談窓口とそれに至る通路を区切って見た。ついでに、夏に向けての冷房対策で、女子社員の机を冷房が直接当たらない場所にしたんだ」

「ああ。それで」

机を移動してしまえば、康利の手は借りないと云うのも、人事課以外の人間に、書類やパソコンは触らせないという、人事課の鉄則を守っているのだろう。

「それで、質問は何だ?」

手渡されたコーヒーを受け取りながら(人事課では、課長が自らコーヒーを入れてくれた)、康利はどう話そうか逡巡した。考え込むときの癖で、神経質にメガネを直す。

「渥美部長なんですが……」

それでも話さない訳には行かない。

「尻でも触られたか?」

あっさりと言い当てられて、康利は思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。

「いつも、ああ、なんですか?」

「まぁ、俺も以前にやられた。あれは、セクハラと云うより、いたずらの類だよ。反応を楽しんでるんだ。大げさに騒いでやればいいのさ。自分の立場とか考えて迷っていると、ホントに犯られちまうぞ。そういう隙は逃さない人だからな」

「ええ~~?」

康利は、ますます気が重くなる。そんな奴に、杏を近づけさせるものか。小早川が、渥美に杏を差し出すつもりで算段しているらしいのは、庶務課の内部では確定の事実だった。

「企画課の連中には云っておいたんだがな。そっちに手を出すとは盲点だった。葛西にも伝えておけよ」

「はい」

うなずいた康利だが、杏に伝えるつもり等、まったく無い。小早川がどんな手を使ってこようが、杏は自分が守りきるつもりでいた。

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