メガネの向こう<1>
「おい、そこのメガネ二人」
「はい」
振り向いたのは、新入社員の一人だ。
まだ、着慣れないスーツ姿だが、すらりとした感じの美丈夫である。フレームレスの丸メガネが冷たくなりそうな顔立ちのアクセントになっていた。
「おい、そっちのお前も」
「俺はメガネなんて名前じゃありません!」
それでも、自分が呼ばれた自覚はあったらしい、美丈夫の隣でむすっとした顔をしている男が反論した。こちらは高い身長にがっちりとした身体つきで、いかにも体育会系といった感じになりそうなのを、細身の銀縁メガネが理知的に見せている。
「自己紹介もまだなんだ。キャンキャン吠えてる暇があったら、とっとと仕事を覚えて、俺にちゃんと名前を覚えさせろ!」
そう云い放つと、反論したメガネ男には目もくれずに、大型の社用封筒の中から大量の資料を取り出す。
「丸メガネ。これ、配ってくれ」
「はい」
会議室に集められた新入社員は三十数名。数年後に控えた団塊世代の退職の影響もあり、多少は大目の採用だ。
この中から、とにかく使い物になる社員を育てなければならない。
宮川真幸は、普段切れ者と社内で評判の顔を、すっと上げて、会議室を見回した。手元には、配った資料の他に、新入社員の履歴書のコピーがある。
「半分」
ムッとした顔のままの銀縁メガネは、つっけんどんな云い方で、丸メガネの手には重そうな資料を受け取った。
丸メガネの方は、当たり前のように、それを手渡している。
その自然な仕草に、宮川は、これはいつもこうなんだなと見て取った。
履歴書に目を落とすと、丸メガネは葛西杏。銀縁メガネは笠置康利。同じ中学・高校・大学。成績は二人とも悪くは無い。
入ってすぐに、上司に反論とは、生意気な感じではあるが、はきはきとモノを云う姿勢は悪くない。むしろ、葛西の素直さの方が社会人としては危なげだ。
その証拠に、素直に受け取った筈の葛西は、一人ずつ端から配っているが、反論した笠置は数人分ずつをばらばらに手渡し、受け取った奴が、次に廻している。足りなくなった奴は葛西に声を掛けて、自分の分を確保していた。
「資料は手元にいきわたったことと思う。私は人事課の課長で宮川だ。これから、二週間の社内研修の期間の教育を担当することになった」
宮川が話し始めると、会議室がざわつく。宮川真幸は今年で四十になるが、かなり若く見られる性質なので、新入社員には、とてもそんなお偉いさんには見えなかったのだろう。
「君たちには、会社は相応の給与を支払っている。それに見合った仕事をしてもらうつもりだ。手取り足取り教える気は無い。やる気と根気のある奴だけが生き残れる筈だ」
厳しい言葉に、会議室が静まりかえった。
「では、とりあえずの説明を始める。資料の一ページ目を開いて」
後は会議室には、宮川の講義口調の声と、資料をめくる音だけが響く。
杏と康利も、熱心に資料を追い、あっと云う間に資料には書き込みの山が出来ていった。
「総務部……ですか?」
「そうだ。庶務課は課長と主任が二人とも来年には定年になる。後は女性ばかりになってしまうんだ。主任は定年後も再雇用されるが、当然、残業はNGだ。そこで、おまえら二人を欲しいと云ってきた。不満か?」
じろりと見上げる宮川の前で、杏と康利は直立不動だ。
「いえ」
「地味だし、評価されないことも多いが、社員が気持ちよく健康に仕事をするのには必要な部署だ。がんばってくれ」
いつも、厳しい宮川の、らしくない微笑みに、二人は何だか圧倒されてしまう。
配属通知を受け取り、揃って人事課を後にした。
とにかく、細かい仕事が多い。
しかも、意外と力仕事が多いのだ。
これは確かに定年を迎える男二人と女性社員には手に余る。
「社則は覚えた?」
遠藤主任は小柄なおだやかな感じのいい人だ。
「耳からこぼれそうです」
杏は正直に本音を吐く。社則は給与規定も合わせて、五十ページに渡る代物だ。入社二月で覚えられるわけが無い。
「大元は何とか」
君は?と云う風に視線を流されたので、康利も答えた。
大元さえ覚えてしまえば、細かいことはその都度調べておけばいい。
「覚えも早いから助かるよ。後で、健康診断の申請書の書き方教えるから、よろしく」
「申請書?」
思わず、二人でハモってしまった。
「これだけの会社だと、一日来てもらうんだよ。それを社会保険事務所に申請する。人数は何人なのか。年齢によって検査の内容も違うから」
「はい」
うなずくのと同時に、ドアが乱暴に開いく。
その開き方以前に、近づいてくるドタ足の歩き方で、それが誰かと云うのは、庶務課の誰もが判っていた。
「おい、メガネ。二階のトイレにペーパーが入って無かったぞ。それと、渥美部長が雑費の申請をしたいそうだ。行って来い」
「はい。小早川課長」
庶務課にメガネは実は5人もいる。その為、メガネと呼ばれて返事をするのは杏のみだ。
課長の小早川は、先代社長の弟に当たる。
先代がまだ生きていた頃に、仕方なく適当な部署のポストに付けた。来年定年になるのを、実際は皆が待ち構えているが、本人は未練がましく、重役の座を狙っている。
「課長。申請書は規定の通りに提出してもらわなければ困ります!」
お堅そうなひっつめ髪に、オーソドックスなメタルフレームのロイドメガネの日下が、厳しい口調で云うが、小早川はふんと鼻を鳴らしただけだ。
申請書は書いた翌日に、総務部に廻ってくることになっている。出張の交通費でもあるまいし、雑費の申請など、急ぎの用事では無い筈だ。
「日下さん」
遠藤主任は日下の肩に手を置いて制する。あと一年したら、出て行く人間だ。何もことを荒立てる必要は無い。
「葛西くんはペーパー入れてきて。あと、笠置くん、渥美部長のところに行って来てくれないか」
「はい」
二人がそろって返事をして、出て行こうとするのに、小早川が声を荒げる。
「おい、俺はそっちの丸メガネに行ってこいって云ったんだ!」
「そうですか? でも、課長はメガネとしかおっしゃいませんでしたので」
遠藤が適当にのらりくらりとかわしている間に、二人は聞こえない振りで部屋を出て行った。
大体が、小早川が杏を渥美のところへ行かせたいのに、裏があることなど、庶務課の誰もが知っていた。