メガネの向こう<9>
「今も変わらないな」
自重するように、つぶやく。まったくもって、成長が無い。
「え?」
呟きが耳に入ったらしい杏が顔を上げた。メガネが真っ白に曇っている。猫舌の杏は、そのくせにホットのコーヒーが好きで、いつでも息を吹きかけて冷ましながら飲んでいた。
「猫舌なんだから、冷めるまで待てばいいだろう」
康利は云いながら、メガネを拭いてやる。
「熱いものは、熱いうちに飲むから美味しいんだろ?」
メガネを康利に拭かれながら、杏はそう反論した。確かにその通りではあるのだが、メガネにはキツイものがある。これが、うどんやラーメンだとどんぶりの位置を確認した後は、思い切って外してしまうのだが、飲み物はそうはいかない。
「そういう時だけは、コンタクトの連中が羨ましいな」
「うん。でも、怖くない? あんな大きなもの目に入れるの」
「ソフトレンズはでかいよな。でも、ハードコンタクトもいやだ。あんなの涙の力だけで着けてるかと思うとぞっとする」
「だよね」
二人して顔を見合わせて笑いあった。
メガネ越しの杏の瞳が目の前にある。
じっと康利を見ている杏のレンズには、康利の姿が映っていた。
「杏」
呼びかけるが、それでも杏のメガネには康利が映し出されたまま。
引き寄せられるように、杏の唇にキスをした。
そっと触れるだけのキス。
杏の体が、びくりと引かれる。
しまったと康利が顔をあげると、唇をこぶしで抑えた杏が、真っ赤な顔をして、康利を見ていた。
「悪い。つい―――」
下げた頭に、杏のこぶしが落ちる。
「馬鹿ッ!」
杏は何度も康利の頭にこぶしを振り下ろす。それは、子供が癇癪を起こしているのに似ていた。
実際にそんな気分だったのだろう。信頼していた友人に、あんなことをされて、怒らないはずが無い。康利は、ただ黙ってそれを受け止めていた。
杏の殴打が不意に止む。さすがに疲れたのか、杏は肩で息をしていた。
「やっちゃん」
久しぶりに杏が口にする、その呼び名は、懐かしくて優しい響きがする。
「やっちゃんは、『つい』あんなことしちゃうような人なんだ?」
込められた恨みがましい言葉に、はっと康利が顔を上げた。
興奮してメガネは鼻からずれ落ちている。零れ落ちる涙をぬぐいもしていないその顔は、はっきり云って、ぐちゃぐちゃだった。それでも、康利はその顔を可愛いと思う。
「誰でもいいんだろ? 経験豊富そうだしな」
涙にぬれた瞳のまま、じっと責めるように康利を見る杏に、もう嘘やごまかしは通用しなかった。
「誰でもなんかしない」
「でも、ついって云った」
「ああ。ついしちゃった。いけないと思ってたのに。杏だから」
告白は伝わるだろうか?
「俺? だから?」
「うん。杏だからだよ」
杏は康利の本音に、びっくりしたように、大きな目を見開いていた。
「どうして?」
「好きだから。ずっと、昔から杏が好きだ」
「ずっと?」
杏は顔に朱を散らせ、ずれたメガネを掛けなおす。目の前のテーブルの上の台拭きで、涙をぬぐおうとするのを、康利が止めた。
代わりに手渡された、ボックスティッシュで、流れる涙をぬぐい、鼻をかむ。
ちーんと間抜けな音が、狭いワンルームに響いた。
「ごめん。百年の恋も一瞬で冷めるよね」
散々、泣きながら殴っていた相手に、告白されて、杏はどうしていいか判らないのだろう。泣き濡れて、瞳が赤いのなら格好も付くが、実際の杏は、泣きすぎて、鼻の頭まで赤い。
ボックスティッシュでメガネを押し上げるように涙を拭く杏の姿は、一般的に言って可愛いとは云いがたいものだろう。
「杏」
逡巡しているらしい、杏のメガネの隙間に指を滑り込ませると、杏の体がぴくりと震えた。
当たり前のことだ。杏には晴天の霹靂と云う奴だろう。
幼馴染の男がこんなことを考えていたなんて。
康利はそっと、杏のまつげに付いていたティッシュのかけらをかざして見せた。
「やっちゃん」
安心させるつもりで康利が笑ったのに、何故か杏が赤くなる。
「杏?」
何だか反応がおかしい。康利の手におびえるような様子を見せる癖に、離れると、それが意外だとばかりに赤くなって見上げてくる。まるで、誘われているみたいだと康利はそんなことを思う。
「杏は?」
僅かでも可能性があるのなら、それにすがりたいのは人間の本性だ。
「俺?」
「杏は、俺に失望したか? それとも、幼馴染になんてこと考えているんだって軽蔑したか? 男同士なのにって、可笑しいと思うか?」
康利が問うのに、杏は即座に、プルプルと勢いよく首を振る。
「やっちゃんこそ、俺に失望しなかった?」
すがりつくような瞳で見上げられて、一瞬首をひねった康利だが、すぐにさっきの涙と鼻水の件だと気付いた。
「大丈夫だ。俺の好きは年季が入ってる。そんなことで失望なんかしない」
「良かった!」
にっこりと、安心したような杏の全開の笑顔に、康利は引き寄せられるように、口付ける。
杏の体が、驚いたように震えたが、それでもよりいっそう口付けを深くして抱きしめた。