プロローグ
「おい、そこのメガネ二人」
「はい?」
いかにもな頭の詰まってなさそうな、体育教師に呼び掛けられて、葛西杏は振り返る。
遺伝的に視力の悪い杏は、物心ついた頃には、もう既にメガネを掛けていて、こう呼ばれるのも慣れていた。
「これ、教務室に返しておいてくれ」
教師が指差したのは、授業で使ったどデカイスクリーンだ。高校生にしては成長の遅い杏がひとりで持つには無理がある。
「おい、そっちのメガネも手伝ってやれよ」
「俺はメガネなんて名前じゃありません」
さすがに、無理だと思ったらしい体育教師は、もう一人の背の高い生徒に声を掛けたが、むっかりとした顔で、そう返される。
教師はぽかんとしたが、次の瞬間に笑い出した。
「そうだな、申し訳ない。お前の名前は?」
「笠置康利です。こいつは葛西」
背の高い少年は、むっとした口調はそのまま、素直に答える。
「じゃ、笠置と葛西。頼んだぞ」
体育教師は見掛け通りさっぱりした性格らしく、自分の非を認めて云い変えると、片手を上げて出ていった。
「まったく、名前くらい覚えてろっつーの」
ぶつぶつ云いながらも、康利は杏の持ったスクリーンの片方を抱える。
「大体、お前も『メガネ』なんて呼ばれて返事してんじゃねーよ」
「だって、俺は今更じゃん。幼稚園の頃から慣れっこだって」
弱々しく笑う杏に、康利はいらついたように、舌打ちをした。
「へらへらしやがって。大体、俺はお前とセットみたいに云われんのが嫌なんだよ」
「やっちゃん」
「その呼び方止めろ!」
昔通りの呼び掛けに、康利はますますイラついた声を上げる。
そのまま杏が黙ってしまうと、二人の間の会話は無くなり、ひたすら教務室へと無言でスクリーンを運ぶだけだった。
康利と杏は、幼稚園で同じクラスになった。
家も近所で、いわゆる幼馴染と云う奴だ。
当然ながら、小学校中学校と同じ学校へ通い、頭の出来もさほど変わりのなかった二人は、一番近い都立高校の普通科へと通っている。
仲は良くも無く悪くも無く、普通に幼馴染として過ごしてきた筈の二人が、ギスギスしだしたのは、中学で乱視が出た康利がメガネをかけ始めてからだ。
当時、同じクラスだった二人は、笠置と葛西という名前の通り出席番号が前後していた。
担任は、大学出たての新人教師で、何かと二人をセットのように扱う。
「おい、そこのメガネ二人」
というのが、二人に掛けられる言葉だ。
クラスでメガネを掛けているのは、何も康利と杏だけでは無いのだが、まだ同じ小学校の連中でなんとなく固まっている頃である。何かを頼むのには、二人でいつも一緒にいるメガネは単に便利だっただけだろう。
だが、中学生と云うのは自分の個性を一番重視し始める時期だ。その中で、中学で初めてメガネを掛けた康利には、『メガネ』とひとくくりにされるのは耐えられなかったらしい。
また、杏がそれに素直に返事を返すのも気に入らなかったようで、何かとキツく当たるようになった。
「やっちゃん」
と、杏が呼ぶ幼稚園からの呼び名も、康利にはイラつきの原因だった。
「子供じゃないんだから、何時までもそんな呼び方するな」
そう、杏に云ってから、杏は康利を『笠置』と呼ぶ。
スクリーンを教務室に戻した後の廊下を、二人は教室に向かった。背の高い康利が早足で歩くと、後から付いていく杏は小走りにならざるを得ない。
待てとは云わないし、かといって離れて歩く訳でも無く、杏はただ黙って康利の後を付いて歩いていく。
教室に入る前に、杏がふいに腕を伸ばして康利の袖を掴んだ。
「ありがと。笠置」
にこっと笑顔を見せて、教室へと走る杏の後ろ姿に、康利は思わず舌打ちをする。
「康利って呼べないのかよ。お前は。それに、何がありがとうなんだよ。二人で運べって云われたんだから、当たり前じゃん」
康利は銀縁のメガネを神経質に直しながら、イラついた呟きを漏らした。