第七十話 一方その頃の定番は
将軍との謁見へ向かうキリヤたちを見送った後、ルサーリカはチェンマンに声をかけた。
「さて、チェンマン。私たちも仕事を始めましょうか」
「ああ。まずは、腹ごしらえと洒落込みたいところだな」
二人が向かったのは、城下町の中心に広がる巨大な市場だった。
そこは、これまでのどの国の市場とも、全く違う活気に満ちていた。
「…なんだ、この匂いは…」
チェンマンが、くんくんと鼻を鳴らす。
醤油が焦げる香ばしい匂い、出汁の奥深い香り、そして、様々な種類の漬物が放つ、複雑で芳醇な発酵臭。
料理人である彼の好奇心が、激しく刺激されていた。
店先には、見たこともない食材が並んでいる。
巨大な大根、艶やかな光沢を放つ米、そして、生きたまま桶で売られている新鮮な魚介類。
「ルサーリカ、見てみろ! この魚…『タイ』というらしい。西の大陸の魚とは、全く違う身の締まり方だ。これを昆布で締めれば…いや、塩焼きもいいな…」
「チェンマン、落ち着いて。まずは情報収集が先ですよ」
ルサーリカは、目を輝かせるチェンマンを宥めながらも、その口元は自然と綻んでいた。
二人は、まず一軒の茶屋に入り、腹ごしらえをすることにした。
出されたのは、握り飯と、熱い味噌汁、そして数種類の漬物。質素だが、滋味深い味わいが、長旅で疲れた体に染み渡る。
「…うまい」
チェンマンが、感嘆の声を漏らす。
「この『ミソ』という調味料…大豆を発酵させたものか。塩味だけでなく、深いコクと旨味がある。うちのパーティの連中にも、食わせてやりたい味だ」
一方、ルサーリカは、茶屋の主人と世間話をしながら、冷静に情報を集めていた。
「このお米、本当に美味しいですね。どこで採れるのですか?」
「へぇ、西の商家が米を独占しているんですか。だから、少しお値段が張るのですねぇ」
彼女は、何気ない会話の中から、この国の物流の仕組み、物価、そして権力構造を巧みに読み解いていく。その姿は、もはやただの経理係ではなく、リザリーも目を丸くするほどの優秀な諜報員のようだった。
食事が終わる頃には、二人の頭の中には、ヤマト国の台所事情がほぼ完璧にインプットされていた。
茶屋を出た二人は、市場の隅で香辛料を扱う、小さな店を見つけた。
店主は、異国の香辛料に興味津々のチェンマンを見て、珍しそうに声をかける。
「兄さん、見ねぇ顔だな。そのスパイス、西の大陸のもんかい?」
「ああ。こいつは『カレー』って料理に使うんだが、知ってるか?」
「カレー? 聞いたことねぇな。どんな味だ?」
その一言に、チェンマンとルサーリカは、顔を見合わせた。
その日の夕方。
宿に戻った二人は、パーティのなけなしの資金を前に、新たな計画を練っていた。
「…間違いないわ」と、ルサーリカが帳簿を弾きながら言う。「この国では、西の大陸の香辛料は非常に希少価値が高い。特に、貴族たちの間では、一種のステータスとして高値で取引されているようです」
「ああ」と、チェンマンも頷く。「それに、ここの連中は、スパイスを混ぜ合わせて新しい味を作るという発想がない。俺がアルブジルで手に入れたスパイスを調合すれば…」
「…カレーを、この国で売るのですね?」
「そうだ」
チェンマンの目に、料理人としての、そして商人としての炎が燃え上がった。
「まずは、将軍の奴に食わせて、価値を認めさせる。そして、奴の口利きで、貴族共に売りつけるんだ。成功すれば、ブランちゃんの蘇生費用どころか、この先の旅の資金まで、一気に稼げるかもしれんぞ」
それは、ただの資金稼ぎではなかった。
前世の知識を持つ博史が生み出し、ドワーフの料理人が再現する「カレー」という未知の文化を、このヤマトの国に広めるという、壮大な文化交流の始まりだった。
「ふふっ」
ルサーリカは、楽しそうに笑った。
「あなたといると、退屈しませんね、チェンマン」
「お互い様だろ、ルサーリカ」
二人の大人の間には、戦いとは別の、確かな信頼と絆が結ばれていた。




