プロローグ
リーベミオ・ロベルダ。
それはとある王国の公爵令嬢の名前である。
彼女は、乱心令嬢と呼ばれていた。
美しい夜を思わせる黒髪に、新月のような黄色い瞳。
妖精のようだと謡われ、王太子の婚約者という立場だった。
将来を約束された彼女が、いかにして、狂ったのか。
さぁ、その理由を紐解こうか。
*
「初めまして、僕はレリオネル・ユウディス。よろしくね」
その出会いは、ロベルダ公爵家長女リーベミオにとっては運命だった。
何色にも染まらない雪のような髪に、夕焼け色の瞳。優し気に微笑みかける王子様にリーベミオの心は打ちぬかれた。
「は、初めまして。私はリーベミオ・ロベルダでしゅ」
まだ五歳だった彼女は、一目惚れの衝撃に思わず噛んでしまう。その様子をくすくすと笑っていた。その笑みを見ているだけで、リーベミオは胸が高鳴って仕方がなかった。
「レリオネル様、かっこいい」
リーベミオがそう口にすると、レリオネルは嬉しそうに笑った。
その出会いのことを、リーベミオはきっと一生覚えている。
――彼女にとっての王子様、唯一の人と出会った日だから。
彼女は愛しい王子様と婚約を結べたことを心から喜んでいた。優しかった王子様が、周りから悪影響を受けて少しずつ横暴になったとしても。
それでも出会った時のことやそれまでの思い出を彼女は沢山抱え込んで、強く当たられたとしてもただ恋をしていた。
娘を大層可愛がっている公爵夫妻から婚約を解消することが出来ると言われても、他家からもっと良い婚姻相手がいると紹介されても、彼女は頷くことがなかった。
幼いながらにその心に芽生えた恋は、本物で。
誰にもどうしようもできないほどに、大きく育っていた。
それこそどれだけレリオネルが変わったと噂されていようが、横暴だと人が離れていようが、それでも彼女はただ彼を大切にしていた。
だけど、ある時、彼女の王子様は居なくなってしまったのだ。
*
「久しぶりだね、リーベミオ」
にこやかに笑うレリオネル・ユウディスを前に七歳になったばかりのリーベミオ・ロベルダは怪訝な表情を浮かべた。
ひしひしと、彼女はただ違和感を感じ取っている。
「はい。ごきげんよう、レリオネル殿下」
彼女は笑いかける。
そうすれば目の前にいるレリオネル・ユウディスは突然頭を下げ始めた。
「これまですまなかった……!」
「突然、どうなさったのですか? それにレリオネル殿下の立場でそんな風に簡単に頭を下げるべきではありません」
彼女は眉を顰める。レリオネル・ユウディスの後ろにいる侍女や執事たちはどうやら目の前の彼が、彼女に謝罪をしたことを満足気に見ている者が多い。
それはここ最近の彼が幼い頃の穏やかさが嘘のように横暴に変わっていたからだろう。
リーベミオもそのことに関しては心を痛めていた。この王城では優しかった王子様を苦しめ、そのような状況にしてしまう何かがあるのだと子供ながらに感じ取っていた。
彼女にとって一番大切な王子様は、全くその事情を教えてはくれなかった。気づいたら少しずつ優しい王子様が、変わっていった。
それで離れていく者は多かったとリーベミオは記憶している。だけど、リーベミオは他でもない彼の婚約者という立場であり、彼に恋する乙女であったため離れようとはしなかった。
「私はこれまでの態度を反省したんだ。いつも傍にいてくれた君に酷い態度をしてしまった」
そう口にしながら、リーベミオの手を取る。そして真っすぐに彼女の目を見る。
愛おしい王子様がこれまでの態度を改め、許しを請う。それは本来なら喜ばしいことで、感動的なことであろう。
――だけど、リーベミオはぞわりっと寒気を感じた。
「……そうですか」
「ああ。どうか許してほしいんだ」
「……レリ様」
「なんだい? リーベミオ」
リーベミオは笑みを作って、そのまま問いかける。
「――昔、交わした約束を覚えておりますか?」
それは彼女にとっては大切な思い出。何よりも大事な約束。
「そうだね。次期国王と王妃として一緒に頑張ろうという約束のことかな? これからも私を支えてくれると嬉しい」
その言葉を口にされた途端、彼女の表情が一瞬変わったのに誰も気づかない。
「はい。申し訳ございません。体調が優れないので、失礼します」
顔色を悪くした彼女はそう口にすると、そのまま席を立つ。
「――さようなら、レリオネル殿下」
それだけ口にすると、リーベミオは踵を返した。
「私の……レリ様じゃない」
そして泣き出しそうな声でそう呟くのだった。