4話 20余年後
あれから俺が祖母の家に行ったのは1度だけ、祖母が亡くなって遺品整理した時だけだ。
その時はあの部屋には怖くて入れなかった。
俺はもう40のおっさんになっていた。
28で結婚し、今は7歳の息子もいる。美人な奥さんと可愛い息子に囲まれて、幸せの真っ只中だ。
祖母の家には俺の両親が入り、俺は両親の住んでいた家に家族と住んでいる。
俺が両親を田舎に追いやった訳じゃなくて、のんびり余生をすごしたいと自分から長野へ行ったのだ。
俺は高校を卒業してから、自分でもなんでか分からないが豆腐屋に就職した。
稼ぎもそんなに多くはないが、何故か豆腐屋を選んだんだ。
今日から息子の夏休みだ。
たまには両親の所へ顔だしに行くか。
あの狐さんはまだ元気にしているのだろうか。
両親の家に着き、久しぶりに一緒に酒を交わした。
あんなに大きかった親父は、いつ間にかすっかりショボショボのじいちゃんになっている。
夜も更けて、皆が寝静まった頃ふと目が覚めた。
飲みすぎたのかもしれない。まだ少し酔っ払っている。
俺は小便を済ませ、再びベッドに入ろうとしたが、思いとどまった。
「まだ、いるかな?」
あの懐かしい、俺の青春とも言える狐さんの事が猛烈に気になり始めた。
今は会った所で、こんな髭もじゃは誰かはきっと分からないだろう。
祖父の部屋のドアを見ると、一気に緊張が込み上げてきた。
数秒、時が止まったように思える。
意を決して扉を開けると――。
「――なんじゃ、随分老け込んだの」
そこには変わらずに美しい少女の姿をした狐さんが座っていた。こんなに老け込んだというのに、俺だとわかってくれたのか。
俺はなんだか急に涙が溢れてきた。
きっとそれは酒が回っているせいだ。
ボロボロと涙をこぼす俺を見て、狐さんは昔のようにケラケラと笑った。
「お主、図体だけでかくなって中身はまだまだ童のままじゃなぁ」
懐かしさと嬉しさと、狐さんが怒ってないのとで色んな感情がぐちゃぐちゃになった俺は、自然と黒石に手を伸ばしていた。
「五目並べ、やろう」
嗚咽混じりに言えたのは、ふたつの単語だけだった。
「少しは強く、なったんじゃろうな?」
嬉しかった。また狐さんと五目並べが出来るのが。
堪らなく嬉しかった。
自分でも気持ち悪いなと思う。40のおっさんが、泣きながら笑って、傍から見たら1人で五目並べをしているなんて。
この狐さんはどうやら俺にしか見えないらしい。
黒石と白石が、20余年の歳月を経て盤面を染めていく。
「狐さん、俺結婚したんだ。息子もいる」
黒石をおき、呟くように言った。
「そうか。お主、あの日の前の年に一生結婚しないなどと言ってなかったか?」
進路を経つように、白石がそっと置かれる。
「よく覚えてるなぁ。俺ね狐さん。俺実は狐さんの事がね」
黒石がまた1つ盤面を埋める。
「なんじゃ? 勿体ぶらんではよ言うてみい」
「――いや、やっぱりなんでもないよ。あ、また負けちゃったよ。強いなあ」
気づくと盤面に打てるところは禁じ手のみとなっていた。
「何を言うておる。お主はこれっぽっちも成長しないのぅ」
狐さんは嬉しそうに笑ってくれた。
俺の心もなんだか暖かくなった。これはきっと酔っているせいじゃないはずだ。
「また、来てもいいかな」
少し、聞くのが怖かった。きっと狐さんは断らないだろう。あの日の言葉は、俺を思ってのことだと言うのは、数年経ってから気づいた。
「当たり前じゃ。お主、最初に言っておったろう。勝ち逃げはさせぬ、と」
「そういやそうだったね」
俺は今、ほんの少しだけ後悔している。
妻も息子も心から愛している。それだと言うのに、ほんの少しだけ、小さな後悔がある。
あの時部屋を飛び出さなかったら、もっとこの狐さんとたくさんの思い出を作れたのではないだろうか。
古臭い喋り方の、名前も正体もわからないこの狐さんと、俺は毎日一緒に五目並べを出来たのではないだろうか。
あの時、ちゃんと気持ちを伝えていれば。
そのあと俺は狐さんに「また来年」そう言って部屋を出た。
40のおっさんにもなって、酒を飲みながら星を見てボロボロ一人で泣いていた。
次で終わりです!