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エピローグ・前

 四月は春だと誰もが言う。

 しかし春とは、暖かくなる季節だと誰かが言った。

 ならば今は春ではなく、きっと未だに冬なのだろう。

「さっむ……」

 仕舞ってしまったコートやら何やらを引っ張り出すのを面倒臭がった結果がこれか。

 否、俺は悪くない。俺は何も間違ってなどいなかった。

 本来、こんな寒さに耐える必要はなかったのだから。

 本当なら駅の待合室で、ぬくぬくと座り込んでいればよかったのだ。なのにどうして俺は今、こんな冷たい風に晒されながら突っ立っているのだろう。

「あっ、灯利! ごめんごめん、待った?」

 駆け足で近付いてきた女がへらへらと笑いながら言った瞬間、頭の中で何かがプツンと音を立てた。

「アァ?」

「……悪い、そんなに待たせた?」

「一秒だって待たされる謂れはねえんだよ、さっさと本題に入りやがれ。つうかどっか中入ろうぜ」

 言い終えるより早く駅舎に向き直るが、歩き出す前に袖を掴んで止められた。

 その女、結城美咲はバツの悪そうな声音で呟く。

「それだけは勘弁して」

 俺は今、本当に何をしているんだろう。

 手はポケットに突っ込んだまま、腕の動きだけで美咲の手を払い除ける。辺りに視線を飛ばし、知り合いどころか見知らぬ誰かもほとんど歩いていないことを確かめた。

 そりゃそうだろう。

 この寒い中、誰が駅の中じゃなく外で待ち合わせなんてするか。

 しかも相手はただの同級生じゃない。一方的に親友と呼んできて、まぁクラスでは二番か三番目に仲が良いと認めないわけにもいかない、そんな友人の恋人だ。

 何一つ飾らずに言うと、美咲は健二の彼女である。

 だというのに、どうして俺は待ち合わせになんて応じてしまった。こんな寒い中、外せない予定もあるのに。

 ……いや、まぁ分かっている。

「じゃあ、とっとと場所変えようぜ」

 美咲からしても二人きりで会うのは気まずい相手に、それも外せない予定があると断られてなお、どうしてもと押し切らざるを得なかったほどの用事だ。

 そんなの、無下にはできないだろうよ。

「行き先は決まってるのか?」

「決まってない」

「じゃあどこ行く?」

「ちょっと待って。今探すから」

「探す……?」

 キッチンカーか何かか?

 他に思い当たるものもなく首を伸ばして辺りを見回すが、やはりそんなものはない。

 というか美咲自身、辺りを探したりスマホで調べたりする様子はなかった。ただ何故かちらちらと駅構内へと続くエスカレーターを覗いている。

 そんなに気になるならもっと見やすい位置に行けばいいのに、と言おうとした矢先だった。

「ごめん、ちょっと……!」

 再び掴まれた袖をぐいっと引っ張られ、エスカレーターからは陰になっている方の壁に押し付けられる。

「なん――」

「しっ!」

 ぴしゃりと言われ、思わず黙ってしまった瞬間。

 それでも何か言い返そうとした喉に詰まる錯覚を覚え、これが言葉を失うということかと間抜けなことを思ってしまった。

 健二だ。

 エスカレーターから下りた健二が女と肩を並べ、何事か笑いながら歩いていく。

 向こうは俺たちに気付かなかったらしい。代わりに俺からも見えたのは健二の顔だけで、女の顔までは確認できなかった。

 だが、それで十分すぎる。

 美咲が俺なんか呼び付けて、こうも必死になるわけだ。

「最近、ちょっと健二が怪しいの」

「まさか浮気とか? いや、本当にまさかだぞ、そりゃ」

 友人として、断言できる。

 健二に限って浮気だなんて。あれは美咲に心底惚れ込んでいる。そんなにべったりって感じじゃないし、見た目にはどちらかというと淡白だけど、腹の底ではちょっと引くレベルに重い愛情を傾けているやつだ。

「誤解じゃないのか? バイト先の人とか、部活の後輩とか」

「それは違う」

「なんで断言できる」

 健二はあれで良いやつだ。

 俺たちは付き合いが長いから意外にも思わないが、どこか適当そうな見た目とは裏腹に情に厚いところがある。その意外性から妙に距離が近く感じるし、そうなると頼りやすくも思えるのだろう。

 それで断らないから、余計に美咲をやきもきさせてきた。

「またいつものことじゃないのか?」

 慣れてしまっただけに、ぞんざいな態度が出てしまったらしい。

 美咲はキッとキツい目で睨み、さっさとスマホをいじって何やら画面を見せてきた。

「これ見ても同じこと言える?」

 一枚の写真だった。

 画質が荒い上にピントもズレていて、先に健二に関わることだと知らされていなければ、すぐに見て取ることはできなかっただろう。

 しかし一度分かってしまえば、こうも分かりやすい一枚はない。

 健二が女と顔を寄せ合っていた。互いの顔には何やら通じ合ったような笑み。

 そして、それだけならまだしも。

「……これ、杏だよな」

「だよ。遠くから隠れて撮ったせいで見えづらいけど、あたしはちゃんとこの目で見たから」

 盗撮、そして恐らくは。

「尾行とかはしてないから」

「どの口が言う」

「偶然だったの。偶然見かけて、それで……」

「結局尾行したんじゃねえか。つうか、今は? これは?」

 今まさに尾行が始まったところじゃないのか?

 吐き出そうとした言葉は睨まれて萎み、その眼差しを健二たちの背に向けた美咲が歩き出したことで、疑問が解消される。始まってしまった。尾行。

「あんたは許せるわけ?」

 俺がまだ何か言おうとしているのを察し、美咲が先手を打ってくる。

「許せるも何も、まだ半信半疑なんだが」

 なんなら言葉通りの五分五分ではなく、八対二くらいで健二を信じている。あとついでに杏も。

「あんた、それでも男?」

「男とか女とか関係なく、相手は杏だぞ」

「だから心配なんでしょうがっ!」

 高校入学からの半年だけで三人の男と付き合い破局した女、それが市ヶ谷杏である。

 その年のクリスマス当日に四人目との交際を始め、以来落ち着いてはいるが……良くも悪くも信頼は厚い。正直、浮気とかそういう話ではなく、単純に深く考えていない可能性が濃厚だった。

「けど、相手が杏ならやりやすいだろ」

「はぁ? やりやすいって、あんたね……!」

「違う、いや待て、何がどう違うとも言いたくないが、ちょっと待て、誤解だ」

 顔を赤くして叫ぶ美咲に慌てて弁明しながら、前を歩く二人の様子を見やる。会話が盛り上がっているのか、振り返る素振りはなかった。

「普通に聞けばいいだろ、知らない相手じゃないんだから。この前見たんだけどって。……つうか、写真撮る前に話しかけろよ。それが一番――」

「それができたら困らないんだよ! ばーか、ばーか! 朴念仁! シスコン!」

 ひでぇ。

 もう帰っていいかな。

 まぁ今となっては俺も引くに引けないわけで、それが分かっているから美咲も普段の調子を取り戻しつつあるのだろうが。

「って、あぁもう、そんなこと言ってるから行っちゃったじゃない!」

 慌てて二人の後を追いかけ始めてしまう美咲に、届かぬと知りながらため息を零す。

 毒を食らわば皿までだ。

 尾行する美咲を更に尾行する滑稽を演じる気にもなれず、やや駆け足気味に追い付いて横に並ぶ。特に言葉はなかったが、満足半分安堵半分の吐息が零された。

 そのまま会話もなく、二人して二人の背中を追い続ける。

 しかし前の二人、健二と杏はどこに向かっているのだろう。わざわざ放課後に一旦駅を経由し、かといって帰宅して着替えるでもなく別の場所に向かうのは妙だ。

 アリバイ工作とは少し違うけど、当たり前に帰った体を最低限は装いたいのか。

「そういや、健二は何か言ってたのか?」

「用事があるって言ってた」

 彼女に偽装工作をする必要がある用事ってなんだ。

 美咲を騙すために駅を経由したわけではないにしても、相手が女となると……。

「やめてよ、その感じ」

 責めるというより、同意を得たくはなかったという表情。

 ただ一つ幸いだったのは、並んで歩く健二と杏が互いに前だけを見ていることか。歩く速度もそこまで遅くはない。わざわざ顔を横に向けてまで、あるいは歩みを遅らせるほどに盛り上がる話はしていないようだ。

「何か心当たりはないのか?」

「最近怪しいって言ったでしょ。前の週末も用事があるって言われて、一緒に行けないのか聞いても返事が曖昧な感じだったし」

「や、それは怪しいけど、そっちの心当たりじゃなくて」

 欲しいのは浮気の証拠ではなく、浮気される原因の方だ。

 疑心暗鬼を生ず。疑わしいことを探してもキリがない。

「健二があたしに愛想尽かしたって言いたいの?」

「ないとは思うが、浮気ってのはそもそもそういうもんだろ」

 そういうもんだとは限らないのは知っているが、健二に限って構ってほしいとか嫉妬してほしいとか、そんな発想には至らないはずだ。

「……灯利から見たら、どう思う?」

「何が」

「愛想尽かしたと思う?」

 ないと思うと言った直後なんだが。

 いや、まさか。

「何か心当たりあるのか?」

「……ないけど」

「あるのか……」

「ないって言ってるでしょ!」

 叫んでしまった美咲が我に返って、咄嗟になのだろうが俺の背中に隠れながら健二たちの様子を見やった。

 まだしも電柱ならともかく、俺に隠れても意味はない。むしろ百害あって一利なし。

 幸か不幸か、ある程度の距離もあったお陰で二人は相変わらず前だけを見て歩いているが。……いっそ気付かれてしまった方が手っ取り早く済んだかもしれない。

「灯利。その、さ」

 背中に隠れたまま、おずおずと声を上げる美咲。

 こういうところがあるから健二も惚れたんだろうな、と他人事みたいに思う。

「やっぱり男としては、そういう感じってあるわけ?」

「すまん、さっぱり意味が分からねえ」

 なぜ他人事にしか思えないのかといえば、この間をすっ飛ばした会話のテンポが苦手だからだ。友達付き合いはできても、それより踏み込んだ関係性は続かないだろう。

「や、だから、あんまり健二以外とこういう話はしたくないんだけど」

 そもそも俺は友人の女と二人で歩くなんて危険を冒したくはないんだけど。

 何を言われているのかも分からないまま返そうとして、そこでようやく思い至った。というか、思い至ってしまった。

「え、おい待て、もう三年の四月だぞ」

 勘違い、なんだよな?

 俺の方が怖くなってきて震えた声で訊ねるも、背中から返される声はない。

「お前ら、もう一年半以上も付き合って……」

 それ以上言ってしまっていいものか。

 よりによって健二の彼女だ。友人として踏み込みすぎている自覚はあったが、あまりの驚愕と一抹の恐怖が僅かとはいえ自制心を上回ってしまった。

「でも、まだ高校生だし」

「もう高校生だよ……」

 百歩譲って三年になってから付き合い始めたり、教師と生徒の禁断的なアレだったりするなら、そういうのを理由に卒業を待つのは分からんではない。

 けど、健二が美咲に告白したのは一年の秋、夏休みを経ても交際に至らなかった事実に業を煮やした椋也が物理的に尻を蹴飛ばしてからのことだ。その告白は誰もが予想した通りに成功して、修学旅行の頃には交際一周年の記念を過ぎていたはず。

 言うまでもなくクリスマスだとかバレンタインだとか、そういう季節のイベントも二巡しているわけで……。

「ほら、でもさ、灯利たちとは違うわけで」

「いや俺たちは割と普通だけど?」

「あんたらが普通とか笑わせんな。どこが普通だ、どこが」

 なんで急に怒られてんの?

 俺、やっぱり帰っていい?

 本気でそう考え、だったら美咲を道連れにしてでも杏に声をかけに行くかと、前を歩く二人の背に視線を戻した時だった。

「あっ」

 二人が足を止めている。

 まさかバレたかと思ったが、そうではなかった。

 交差点を渡ってきたうちの一人が健二に話しかけ、それに杏も一緒になって応じている。

「椋也」

 ぽつりと呟いた俺の声で、美咲も見知った顔だと気付いたらしかった。

「え、まさか三人で……!?」

 その発想は絶対におかしい。

 言いかけ、そこであまりに当たり前すぎる事実に気が付く。

 健二と杏の背中を追いかけていた俺たちに、どうして椋也の顔が見えているんだ?

 当然のごとく、後から合流した椋也はいきなり二人の横に並ぶのではなく、面と向かって幾らかの言葉を交わした。

 そしてこれまた当然、その視線は少しズレただけで――

「……は?」

 怪訝そうに零された椋也の声は、距離的に届くはずがないのに驚くほど鮮明に脳裏で響いた。

 俺と椋也の目が合い、恐らくは次の瞬間、美咲と椋也の目も合ったのだろう。

 そんな椋也の視線を追って、背を向けていた二人も振り返る。

「あれ、灯利じゃん」

 杏がなんでもない風に呟いた。

 健二が目を見開き、何か言おうとしながら失敗している。

 パクパクと金魚か鯉の物真似をする美女が横目に映った気もするが、見ないでやるのが友情だろう。

「すまんな、バレるつもりはなかったんだけど」

 どうにか冗談めかして笑い、二人ではなく三人になった過去形の尾行対象たちに歩み寄る。

 杏の意外そうな顔、健二の驚きに固まった顔、そして椋也の呆れ果てた顔が俺の良心を苛んだ。

 やっぱり尾行なんて、するもんじゃない。



「言い訳をさせてくれ」

 三人との間にあったほんの十数メートルを埋める間、必死に考えた言葉がそれだった。

「よかろう」

 と笑って返してくれたのは杏だ。

 健二は未だ再起動中で、椋也は何も言うことはないとばかりにそっぽを向いている。

「まず、俺は被害者だ」

「いきなり仲間を売るか、卑怯者め」

「卑怯で結構」

「こけこっこ?」

 可愛らしく首を傾げながらクソつまんねえこと言う杏は無視して、真の当事者である二人を交互に見やる。

「そして美咲のために、健二のために、俺の口からこれ以上の言い訳はしない」

「言い訳する気ないだろ、お前」

 杏がまたも笑いながら言った。

「お前に言い訳する必要性を感じない」

「それは知ってる。けど健二は? ていうか、ウチの方は追及しない感じ?」

「そこは喧嘩両成敗」

「なーる」

 というわけで、俺と杏に関しては話が済んでしまった。

 その間に美咲と健二の再起動も済むことを願っていたが、こちらはそう単純ではないらしい。

 と、不意にため息が聞こえた。

 まさか俺が無意識に零したのかと思ったが、すぐに違うと分かる。呆れ顔の椋也が口を開いたからだ。

「まず美咲、一言あるだろ」

「えっと……ごめん」

「違うわボケ」

「えっ?」

 それ以上にどんな一言があるのかと美咲が目を回す。

 比喩ではなく、実際にぐるんぐるん黒目があっちこっち回っていた。器用なやつだが、あまり恋人の前でする表情ではない。

「あっ」

 そして遂に気付いた様子。

「これはアレです、尾行してたんです」

 何を当たり前のことを、とは思ってくれるな。

 そんな当たり前のことで健二が安堵の表情を見せ、それから申し訳なさそうな顔になる。

「こっちは、まぁ、なんていうか」

「密会中?」

 杏がけろりと言った。

「貴様は黙れ」

「おい貴様、自分の女を貴様呼ばわりとは何事か!」

「面倒だから貴様ら二人は黙ってろ」

 椋也の一喝に二人して黙りこくり、視線だけでお前が悪いんだぞと言い合う。

「目配せもやめろ」

『うす』

 二人で声を揃え、それぞれ自分の同行者だった友人を見やる。

 先に音を上げたのは、杏に見据えられた方だった。

「悪い。市ヶ谷には、その……あー、なんていうか」

 あまりに歯切れの悪い健二の言葉。

 一瞬、怪訝な感じが俺と美咲の間で共有されるも、続く言葉でそれも氷解する。

「えっと、どういうのが女子には喜ばれるのかなっていう話で……あ、そう、プレゼントを一緒に選んでもらってて」

 プレゼント。

 四月の祝い事としては進級祝いがあるものの、同級生で何か贈り合うほどではないだろう。年が離れていて、特に目上の側がプレゼントするのなら分かるが。

 他に四月に何かあっただろうか。

 考えてみても見つからず、せめて来月……五月なら美咲の誕生日なんだけど、とそこまで考えて思考を強制終了させる。

「杏、あとで話があるんだが」

「大丈夫、こいつ童て」

「そこの二人、ちょっと席外せ」

 またも椋也に一喝され、杏と二人、とぼとぼと輪から離れる。

 そして顔を寄せ合い……というか背の低い杏に俺が顔を寄せる格好で、三人には聞こえないよう絞った声を交わした。

「で、なに聞かれたん?」

「雰囲気の良いお店とか? 灯利がどういうとこ連れてってくれるかーとか?」

「あぁその程度……」

「ていうか、なんとなく察してはいたんだけど、あの二人ってまだなん?」

「察してたの? すげえな」

「お前ほんと鈍感な。そういうとこ直せよ、ほんと」

「なんで。嫌だよ。仲間内のそういうのとか、察したくないじゃん」

「ウチは仲間外れってか?」

「大体そうだろ? ほら、元々別グループだし」

「え……そうだったの?」

 自覚、なかったの?

 椋也とか結構露骨に杏とは距離取ってたんだけど、気付いてなかったのか……。

「お前、察し悪いな」

「彼氏の手の平返しが容赦なさすぎる件」

「まぁそれはともかく」

「ともかくすんな」

 何か言いたげだった椋也には、話は済んだと視線で返す。

 要するに、まぁ、なんだ。

 美咲から聞いた話と総合するに、健二も一歩踏み出すつもりだったのだろう。しかし美咲はガードが固いから、全方位にガードが緩かった杏に援護を求めた、と。

 全方位にガードが緩い彼女ってなんだよ、と自分でも思うが、杏も最近は案外まともなので信用したい。させてほしい。それに健二も健二で、気を遣ったのか勇気が足りなかったのか、あまり踏み込んだ話はしなかったようだ。

「まぁ実際、ウチはともかく健二クンのことは信用してやんなよ?」

「心配すんな。杏も健二もちゃんと信用してるから」

 入学半年で三人の男と交際し破局した実績を持つ杏だが、それでも今現在、付き合っているからにはそれなり以上の理由がある。

 四人目の俺とは一年以上続いているわけで、恋人とかいう以前に、ちゃんと話せば分かる相手だ。それに事情もあって、腹を割って話す機会にも恵まれた。

 互いに思うところはあっても、言えずに燻ぶらせるほどのことはない。

 俺たちでもそうなのだから、健二と美咲が互いに言葉を惜しんで行き詰まるのは勿体ないだろう。

「つうか、椋也はどうして合流したん?」

 気まずい感じの沈黙を漂わせる三人の間に割って入り、沈殿しかけた会話を拾い上げる。

「どうしてって言われてもな」

 助け舟を感謝するでもなく、ただ何気ない風を装って椋也は肩を竦めてみせる。

 誤解されやすいやつだった。……いや、過去形ではなく今もなお誤解されがちだ。だからこそ、椋也は自分の持つ役割というものを自覚している。

 俺に言わせれば、友人とするにこれ以上の人物もいない。

「いくら相手が市ヶ谷でも男女二人はまずいからって、健二に呼び出されたんだよ」

「いくらウチでもってどういうこと?」

「いくら灯利の彼女でもってことだよ。個人ではなく人間関係的な」

 椋也が吐き捨て、杏が突っ掛かり、健二が執り成す。

 そんないつもの光景に、美咲も思わずといった調子で笑い声を零した。

 それから、不意に思い出したように顔を赤くする。

「あー、椋也」

「なんだ?」

「若干気まずいかもしれんが、顔貸してくれ」

「別に気まずくはないが。まぁいい。了解した」

 そうだな、気まずいわけじゃないんだよな。

 杏も椋也も互いに好き嫌いがはっきりしていて、更に言うとそれを我慢してまで付き合うっていう精神がないだけで。

 とはいえ椋也も、今この場において『顔を貸す』が『席を外す』と同義なのは理解している。

 文句も言わずこっちに歩いてきて、そのまま何も言わずに横を通り過ぎていった。そういうところが誤解されるんだぞ、と言ってやりたい。言っても「だから?」の一言で終わってしまうんだろうが。

 杏も何か釈然としない顔で俺を見ていたものの、敢えて口を挟むことはなかった。

「じゃあな、お二人さん」

 好き合う二人が好き合うゆえに相手を信頼しすぎ、それに対して自分を不安に思うというのも変な話だ。

 杏は遠慮も躊躇もなく言ってくれるから、そういうところには助けられてきた。

 その杏が俺に黙ってたんだから相当なんだぞ、と健二には言ってやりたい。視線を投げても、感謝半分謝罪半分の眼差ししか返されなかったが。

「あ、灯利!」

 しかし代わりに、美咲が小さく手を振りながら言ってきた。

「用事あったのにありがとね」

 用事。

 はてなんだったかと首を傾げかけ、直後、血の気が引く。

「ほんとね。灯利がお姉さんのこと後回しにするって相当――」

 呆れ笑いを浮かべた杏が俺の表情に気付いて、笑みを引きつらせる。

「え、うそ、……冗談だよね?」

「やべえ、忘れてた……」

 美咲の話はちょっとした相談事くらいに思っていて、まさか駅を出るとは考えもしなかったのだ。

 それで大丈夫かと場所を変え、そこからは勢いに流されるまま……。

「まずくない?」

「まずいね、かなり」

 変な笑いが出そうになる。

 えっと、まずは全速力で走ろうか。

 洒落にならない状況を察したのか顔面蒼白の美咲には、大丈夫だから気にすんなと念を送ってみたが、その俺が何一つ大丈夫だと思えていないのだから虚しいばかり。

「すまん、杏」

「いやウチはいいから」

 何から何までありがとう。

 彼女なくして今の俺はいないと断言できる。

「あ、鞄預かっとくよ。最悪、うちに取り来て」

「助かる」

 最低限だけ言葉を交わし、覚悟を決める。

 高校生になると、ただ街中で走るってだけで馬鹿みたいに恥ずかしくなるんだから不思議なものだ。

「じゃ、また」

「ん。後でね」

 一年以上ぶりの全力疾走に身を委ねながら、我知らず考えていた。

 人から奇異の目で見られるって、こういう気持ちなのだろうか。

 人と違うこと、人より遅れていること、あまりに必死すぎて滑稽にさえ見えること。

 それでも頑張ると、頑張れると思えてしまった。

 そして頑張ってしまえたその人のことを、俺はやはり、誇りに思わずにはいられない。

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