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最終話

 微睡みを感じた次の瞬間、我に返って両目を見開いた。

「……ッ」

 明るすぎるほどの照明に視界が白く染まり、直後、飛び起きようとしていた身体が思った以上に重いことを自覚する。

 それでもどうにか手だけは伸ばした。

 誰かがすぐ脇で息を呑んだのが気配で分かる。その誰かが俺の意図を察し、すぐさま『それ』を差し出してくれた。

 ガラスで覆われた容器の中に見えるのは、留具で固定され動かない蛾。

 そのガラスに手を叩き付ける。

 鈍い音がして、手の平から何かが抜け落ちた。それはガラスをすり抜け、容器の中に蛾に吸い込まれていく。すると、それまで微動だにしなかった蛾が動き出した。

 しかし、本来それは有り得ない。

 その蛾は標本であり、つまりは死体なのだから。

「おはようございます、灯利さん」

 静かな声が聞こえた。

 照明に焼かれた視界も元に戻りつつあって、見慣れた顔を見分けるくらいはできる。

 平凡だが、それゆえに整っているように見えなくもない顔の男。彼は医者で、なんなら主治医の加賀美先生だ。歳は四十手前と聞く。

 その傍らには美人看護師の柊さんが立っているが、彼女の年齢は知らない。

 見たところは二十代半ば。本職は看護師ではなく政府筋の人だというけど、実情は知らないし知りたいとも思わない。触らぬ神に祟りなしだ。

「お……、おはようございます」

「ところで灯利さん、夢の中に僕たちの声は――」

「黙秘します」

「では、あとでこちらに報告書を上げていただくとしましょうか」

 医者相手に許される黙秘が許されないほどの報告書を要求できる看護師とは。

 とはいえ、こちらも無理をお願いした身の上。ウィンウィンという名の共犯者だが、絶対的な権限を持つのは相手側だ。

「安心してください。多少の問題行動があったとしても、結果的に実害がないのですから誰も藪をつついて蛇を出すような真似はしませんよ」

 それは確かにそうだ。

 幻想中毒症は死者数こそ少ないものの、その性質からデリケートな扱いを受けている。

 最初の報告から一年以上が経った今なお治療法は確立されず、唯一目に見えた効果が確認された方法は危険を伴っていた。

 その方法とは、外部からの物理的衝撃によって患者を強制的に目覚めさせるというもの。

 単純に言うなら、目覚ましのアラームで起きない子供の頬を叩いて起こすに等しい。

 しかし、それが成功した事例の大半は昏睡に陥ってから丸一日、二十四時間以内に限られる。二日目以降ともなると目覚めることはなく、一週間を過ぎた患者に至っては原因不明の死を遂げることもあった。

 姉さんは元々部屋から顔を出すことが稀で、緊急搬送された時には既に二十四時間以上が経過していただろう。

 ただ自発的な覚醒を待つ以外の手段は残されていない、――かと思われたが。

「むしろ、過程はどうあれ灯利君が戻ってきたことは僥倖と言えます」

「曲がりなりにも命の危険を伴う実験的治療法を、規制する法律がないからと強行したわけですからね」

 一つ間違っていたら俺が命を落とすだけでは済まなかった。

 加賀美先生や柊さんは勿論、今ここにはいない数々の関係者が法的責任を問われていた可能性もある。

 それだけ危険な方法であり、それでもなお可能性を見出せた方法。

 幻想中毒症の原因たる幻の蛾、ミラージュバグを人為的に取り込み、他の患者の夢に入り込むこと。

 そのためには相手の夢の登場人物になる必要があった。

 姉さんの人間関係が限りなく狭かった上、幼少期から一番と言っていいほどに親しかった弟の俺だから成り立った方法だ。

 リスクは言うまでもない。ミイラになりに行くミイラ取りの真似事なのだから。

 だが、俺は戻ってきた。

 結果オーライの一言で済む話ではないものの、二次遭難は免れたのだ。細かな問題には目を瞑られ、成果の全ては解明の推進剤に使われるだろう。

 しかし俺にとっては、それこそが些事に過ぎなかった。

「ところで、先生」

 身体が重い。

 筋肉が衰えているのか。

 元々の予定では外部から無理やり起こせる丸一日、それに多少の余裕を持った二十時間で強制的に起こされる計画になっていた。なのに俺は、夢の中で先生の制止を振り切っている。

 二十四時間以上、下手をしたら何日と数えるべき時間が過ぎ去ったかもしれない。

 だが、それも些事だ。

「姉さんは……、姉さんは目を覚ましたんでしょうか?」

 夢に見た、あの懇親会の日。

 姉さんは幻想中毒症によって昏睡し、五月どころか六月と七月が過ぎ去ってなお目覚めなかった。

 今は何日だろう。

 俺が幻の蛾を掴んだのは、八月一日だった。

「それについては、心配いりません。あなたのお姉さんは、明石柚乃さんは目を覚ましました」

 先生の言葉に、安堵の息が零れる。

 ただ、何かはっきりしない物言いだった。先生は暗い表情で続ける。

「身体的には深刻な異常もありません。長い昏睡状態で筋肉が衰えているために立って歩くことはできませんが、まだ若いですからリハビリすれば良くなるでしょう」

 それなら一体、何が問題なのか。

 分からない振りをしようとした頭は、しかし先生の言葉の意味を正しく受け取ってしまう。

 身体的には。

 先生は、そう言ったのだ。

「精神的には?」

「……かなり不安定な状態にある、としか」

 不安定、不安定か。

 再び昏睡状態に戻りそうとか? 何もかもが前例のない話だ。何が起きても、どう転んでもおかしくない。

 腹を括り、我知らず噛み締めていた奥歯を無理やりに引き剥がす。

「覚悟はしていました。状況を教えてください」

 先生は柊さんの方を一瞥し、ため息を押し殺す表情で口を開いた。

「灯利さん、まず言っておきたい。柚乃さんが目覚めたのは、八月五日のことです」

 八月五日。

 俺に許されたタイムリミットは、八月二日の正午までだった。

「そして今日は、八月の九日です」

 一週間以上。

 外部から強制的に目覚めさせようとすれば、目覚めるどころか永遠に眠りかねない時間。

「この四日がどういう意味を持つのか、あなたは考えなければいけません」

 四日が持つ意味。

 言われても、すぐには分からなかった。しばらく考えても、まだ何を言われているのかさえピンと来なかったほどだ。

「でも、起きたは起きたんですよね?」

「はい」

「姉さんと会うことはできますか」

 四日もあれば精密検査も何も済んでいるだろう。

 感染症でも、免疫不全の類いでもない。身体的な衰弱は抵抗力を奪うだろうが、身内と会って話せないほど重篤な状態に陥ることもないはずだ。

「松葉杖は用意してあります。必要なら車椅子も、すぐに用意できます」

「いえ、いりません」

 それよりも早く、一刻も早く姉さんに会いたい気分だった。

 自分でも妙な気がする。

 ずっと一つ屋根の下に暮らしていた時は顔も見たくないと思っていたのに、いざ話すことも笑うこともできないとなったら急にこれだ。

 姉さんのことを言えない。

 俺は馬鹿だ、どうしようもない馬鹿だ。

 それでも間に合わないなんてことはない。そう信じたい、そうであってほしいと無意識に願ってしまう。

 立ち上がり、たった八日とは思えない重さを感じた。

 いらないかとも考えていた松葉杖を早々に受け取り、慣れないながらも歩き出す。

 先生と柊さんは俺を追うことなく、代わりに病室の場所を教えてくれた。教えられなくても覚えている。すぐ隣だ。

 病室を出る。

 すぐそこの長椅子に舟を漕ぐ母さんが見えた。一週間で更に老け込んだ。俺のせいか。

 人目も憚らずに寝ているところを見ると、家に帰っても満足に眠れなかったのだろう。それより今は姉さんだ。母さんが寝ていてくれたことを、ここで時間を使わずに済むことを喜んでいる自分も見つける。

 薄情だな、ほんと。

 どこまでも身勝手で、考えというものが足りていない。

 でも、今だけは許してほしい。

 これまでのことは反省する。文句を言われても仕方ない。これから先は努力する。周りのことを、先のことをちゃんと考え、身勝手な振る舞いは慎もう。

 だから今この瞬間は、ただ自分のことを、姉さんのことを優先させてほしい。

 病室のドアに手を掛ける。

 なんの重みもなく開くそれを横に引きながら、そういえばノックを忘れたと思い出した。

 どうでもいい。

 病室は程よく明るく、程よく暗かった。

 視線を一周させるより早く看護師が俺を見て、はっと息を呑む。

 だけど俺は、次の瞬間にはそこに他の誰がいるかも忘れてしまった。何もかもを忘れ、ただそこに横たわる姿に目を奪われる。

 姉さんだった。

 やつれた顔。これが本当の……高校生にも冒険者にもなれず、自分の部屋と病室で過ごしてきた明石柚乃の姿だ。

 虚ろな眼差しは天井に向いているが、そこに何を見ているということもないのだろう。

 ぽかんと半開きの口は動いているのか動いていないのか。

 考えてきた言葉が失われ、喜びも悲しみも、俺の知る感情の全てが霧散する。

 残されたこの気持ちは、果たしてなんと呼べばいいのだろう?

 姉さんの首が動いた。

 今になってようやくドアが開いた音に気付いたのか。それとも俺や看護師の発する異様な雰囲気を察したのか。

 虚ろな、ただ開いているだけとしか言えなかった両目が俺を見て、動きを止めた。

 何秒が過ぎただろう。

 何分が過ぎただろう。

 きっと一秒にも満たない時間だったのだと、理性は言った。

 本能は、感情は、最早何も考えたり感じたりすることはできなかった。

 虚ろだった瞳に光が宿り、ようやく姉さんが俺を見る。俺も今になって初めて、それが姉さんだと確信したらしかった。

「姉さん」

「……あか、り?」

 気付けば駆け出していた。

 姉さんが急に身体を起こそうとし、それだけの筋力もなく崩れるように倒れかけたのが見えたから。

 投げ出した松葉杖が音を立てて転がる。

 思った以上に衰えていた足がもつれそうになり、けれど転んでしまうことはなかった。

 姉さんが俺を受け止めていた。

 支えているのか、支えられているのか、お互い分かっていなかっただろう。

「あかりっ! あかり……ッ!」

 舌っ足らずな、覚えたての言葉を喋るみたいに姉さんが言った。

 何を返せばいいのかと、そんなことを考えるまでもなく、何一つ言えないことを悟る。

 喉が震え、頬が濡れた。

 何も考えられず、何も分からず、ただ声だけは上げまいと静かに泣いた。

 ドアが開き、閉まった音が聞こえたのを何秒か遅れで思い出す。見れば看護師がいなくなっていた。気を利かせてくれたのか。でも、それはいいのか。近くで見ていなくても、大丈夫なのだろうか。

 思わず考えてしまって、もう一つ思い出した。

「姉さん」

「なにっ? なに、あかりっ」

「ちょっと、離れようか」

 恥ずかしいよ、とは声に出さずに済んだ。

 俺はもう高校生だ。姉さんは十九になる。抱き締め合うには、大人に近付きすぎていた。

「やだ」

「いや、なんで」

「もう離さない」

「なんで……っ!?」

 あまり大声も出すべきではないのだろうけど、思わず叫んでしまっていた。

 この細く、骨に皮を纏っただけみたいな腕のどこに、これほどの力が宿るのか。ぎゅうぎゅうと背中を締め付ける腕は俺を逃がすまいとして、無理に解こうとすれば骨が折れてしまいそうだった。

 それで仕方なく、どこまでも諦めに満ちた心持ちで、行き場を失っていた腕を曲げる。

 左手で背を撫でながら、右手はそっと頭に伸ばした。

 あまりに細く、薄く、骨張った身体。予想した罪悪感はなく、予想しなかった悔しさや寂しさが胸一杯に滲む。

 流れる涙が姉さんの髪を汚しているのは知りながら、離れようとは思えなかった。

「おはよう、姉さん」

 どうにかこうにか、笑ってみせようと全力を尽くした。

 けれど、姉さんは――

「……ないよ」

「え?」

「おはようじゃ、ないよ……! ぜんぜっ――全然、おはようじゃない! あかり……、灯利……。だって、だって……っ!」

 切れ切れの、上手く言葉にならない声で。

「また明日って。待ってるって。灯利、言ったのに! だから、だから、もうやめようって。もうやだって、思ったのに、決めたのに。なのに灯利は、灯利が……ッ!」

 涙とともに、胸の中で吐き出された叫び。

 それを聞いて、ようやく悟った。

 この四日間。

 姉さんが目を覚まし、俺が眠り続けた時間の意味を。



   × × ×



 うだるような暑さだった。

 拭いても拭いても流れ出す汗は、もし拭かずにいたら降り注ぐ日光とともに俺を茹で上げてしまうのではないか。

 馬鹿げた妄想にすら取り憑かれそうになるが、今の時代、妄想と一蹴することもできない。

 なにせ幻想中毒症は、夢想した通りの夢の世界、幻想の世界に俺たちを閉じ込める。

 正確には俺たちが自ら閉じこもろうとし、現実との繋がりを断ち切ってしまうのだろうが、結局は同じことだ。自分が茹で上がる想像なんかして、そんな夢に囚われては堪ったもんじゃない。

 汗を拭いたハンカチを仕舞い、最後の気力を振り絞って小走りする。

 音もなく開いたドアの向こう側に滑り込めば、ひんやりとした空気が全身を冷やした。拭ききれなかった汗も急激に冷え、局所的には寒いくらい。

 その僅かな寒さも気持ちよく感じながら、顔パス同然の淀みないやり取りで受付を抜ける。

 そこは一般病棟とは別の、専門的な措置が必要な患者や、見込みと身寄りがなく静謐だけを伴侶に余生を過ごす患者が寝起きする病棟だった。

 当然ながら一般の人間が当たり前に出入りできる場所ではないし、出入りする人影も疎ら。

 にもかかわらず、俺はこの受付で常連客の扱いを受けていた。

 八月もそろそろ終わる。

 いくら夏休みといっても高校生に入院生活を送る暇はなく、代わりに通院する日々を送ってきた。

 二学期が始まったらどうなるのか、どうするのか。

 その辺りも考えたり相談したりしなくちゃいけないけど、ひとまずは今日の目的地を目指す。

 といっても、今日はリハビリでも経過観察でもない。

 病棟の中でも一際静けさを保つ区画に足を踏み入れると、空気も一層ひんやりとするのが分かる。

 入院病棟だ。

 しかし幸い……と言える雰囲気では決してないものの、これから訪れる病室の主は他の入院患者と違って末期的な病状というわけではない。

 ただ外部に情報が漏れてはまずいからと、この見舞い客も少ない区画に割り振られている。

 病室の前で立ち止まり、深呼吸してからコンコンとドアを叩いた。

 中から声が返され、ドアが開けられる。検査か何かをしていたらしい高齢の看護師がすれ違いざま「今日は落ち着いていますよ」とだけ残し、去っていった。

 凍りつきそうになった足を踏み出して、清潔だが温かみに欠けた病室の空気を吸う。

「今日も来たよ、姉さん」

 ベッドの上で上体を起こし、首だけでこちらを見ていた入院患者に声をかける。

 放っておいても独りでに閉まるドアを敢えて後ろ手で閉め、規則的な足音を意識しながら二人の間の僅かな隙間を埋めた。

「ん、おはよ。灯利」

「もうおはようって時間でもないけどね。今まで寝てたの?」

「ううん。朝には起きてたけど、ここは起きてるのか寝てるのか分からなくなるから」

 力なく微笑する姉さんの顔色は、しかし悪くなかった。

 長く日差しを浴びていないせいで肌は不気味なほどに白く、落ちてしまった筋肉はたった一ヶ月のリハビリでは付け焼き刃にもなっていない。

 だが、それだけだ。

 顔面蒼白という文字の通り、生きているのかも分からないような青白さは既になかった。筋肉はなくても、表情には喜怒哀楽が浮かぶ。……まぁ、俺の前だと喜か楽ばかりだけど。

 ともあれ、姉さんの病状は快復に向かっていた。

 そう、病状である。

 幻想中毒症患者の多くは、目が覚めても別の病気に悩まされていた。

 既存の、現代人なら誰しも耳にしたことがあるであろう様々な精神病だ。

 姉さんは覚醒の後、俺が目覚めるまでの四日間で幾度となく錯乱状態に陥った。幻想中毒症になる前から鬱病、あるいは病と呼ぶほどでなくとも鬱状態だったとも推測されている。

 むしろ、そんな状態に至るまで精神的な苦痛を放置してしまうからこそ、幻想中毒症なる病に囚われるのだろう。

「今日は時間、大丈夫なの?」

 ベッドの横に腰を下ろした俺に、姉さんがおずおずと訊ねてくる。

「診察もないから、姉さんの体調が良ければ最後までいられるよ」

 流石に病室や、廊下の長椅子で寝起きはできないが。

 俺の身体が持たないし、いつまでも一緒にいられるわけじゃない。弟離れというと少し違うけど、姉さんにも俺がいない状況に慣れてもらわないといけなかった。

「私は大丈夫だよ、今日は気分が良いんだから」

 にこりと無邪気に笑う姉さんだけど、俺はそれを毎日聞かされている。

 実際、姉さんは毎日気分も体調も良さそうだった。

 ……あくまで、俺がいる間は。

「なら、のんびりしていこうかな」

 笑いつつ、言葉を探す。

 ここ二、三日ずっと言わなければと思いながら、ついぞ言えずに持ち帰っていた話。

「ここは涼しいね」

「夜はちょっと寒いくらいだよ」

「そうなの? それは大変そうだけど、でも羨ましいかな。外は暑いよ」

 今日もここに来るだけなのに汗だくで、なんて笑いながら。

 ふと姉さんの目を見て、悟った。

「もう、八月も終わっちゃうね」

「気付いてたんだ」

「もしかして灯利、私たちは曜日も日付も感覚ないと思ってる?」

 私たち。

 姉さんがそう呼ぶ彼ら彼女らのことを、俺は知ろうともしてこなかった。

 いや、今だって知ろうとはしていない。

 俺が見ているのは姉さんだけで、それ以外の誰かにまで目を向ける余裕はなかった。そうした世間が幻想中毒症を生んだのではないかと連日ワイドショーでは騒がれているが、事実、人は自分とその周りのことで手一杯になってしまう。

 時には一つ屋根の下に暮らす血を分けた姉弟ですら、時に疎ましく思うほどに。

「ねぇ、灯利」

「ん?」

「私はさ、まだ退院できないんだよね?」

「……だと思う。けど、悪いことじゃないよ、それは」

 入院生活で身体が鈍るという話は聞くけど、姉さんの場合は逆だった。

 あの狭い部屋に閉じこもっているより、広く清潔な病室で寝起きし、毎日三度の食事と適度な運動をする今の生活の方が健康的に決まっている。

「でもさ、ここってネットもテレビもないんだよ?」

「そりゃね」

 思わず苦笑する。

 一時は錯乱状態にも陥った鬱病患者に、探そうと思えば幾らでも悪意や悲劇を見つけられるネット環境など与えられるはずがない。

「けど、いずれは退院するんでしょ?」

 姉さんは他の入院患者とは違う。

 この病院で永遠の眠りに就くことはなく、外に出て自分の足で歩けるようになるまでの休息をしているだけだ。

 望もうが望むまいが、いつかその日は来るだろう。

 だったら、せめて望んでいてほしい。

「ちゃんと録画しといてよ?」

「分かってる。……ただ先に言っとくけど、なんかの間違いで録画ミスったらごめん」

「その時はネットで見るからいいよ。有料だけど。一話二百円もするんだけど」

 それが録画してあるアニメだとしても、悪いことは何もない。

 ただまぁ、何ヶ月もネットから隔離されていたのに、どうしたら九月だか十月から放送予定のアニメを把握できるのかは謎だけど。

「九月になったらさ」

 ほんの少し前のこと、嬉しそうに話していたのを覚えている。

 あの漫画がアニメ化される、あれは絶対アニメで化けると。そんなことを無邪気に話していた姉さんの姿は、今はどこか遠かった。

「灯利、あんまり来られなくなるんだよね」

 随分と遠回りしてしまった。

 幻想とは違って、現実は過ぎ去った時間を繰り返すことはない。

 たった十二ヶ月の一年で、去年もあった九月が今年もまた訪れるけれど、それは去年とは全く違う九月になるのだろう。

 誰も足を止める余裕などなく、だから置いてけぼりにされる誰かが生まれる。

「できるだけ来るよ。どれくらい来られるかは、まだ分からないけど」

 高校一年の夏が終わろうとしている。

 俺たちの高校では文化祭が七月だから、秋のイベントといえば体育祭と修学旅行か。修学旅行は一年には関係ないし、体育祭だけなら放課後まで忙しくなることもない。

 しかし仮に体育祭すらなくても、高校生活には無駄にしていい時間などないだろう。

 同級生でも夏期講習に通い、志望校合格を合言葉に勉強に励む姿は珍しくない。十代後半、羽化する蛹のごとく大人へと脱皮しようとする子供たちは必死だ。俺もその仲間入りをしようとしている。

「ごめんね、灯利」

 姉さんは笑っていたけど、目の端には涙が滲んでいた。

「こんな風に謝っちゃうのが一番悪いっていうのは分かってるんだけどさ、……でも、ごめん。こんなお姉ちゃんで」

 姉さんが普通だったら。

 意外にも、それはあまり考えてこなかった。

 だけど姉さんは考えてしまうらしい。自分がもっと普通の人間で、普通の姉で、普通の中学生や高校生、大学生や社会人になっていたら、と。

 そこに描かれる俺の未来は、きっと今こうしてベッドの横に座る俺に待つ未来とは全く別物なのだろう。

「でも、姉さんに感謝することはあるよ」

「……感謝?」

「そ」

 苦笑し、随分と広々とした病室を見回す。

「少なくとも学費を理由に進学を諦める必要はなくなったから」

 姉さんと俺は、お偉方にしてみれば希少な研究対象だ。

 表沙汰にできない手段に出たために保護もされれば、警戒もされる。俺の入院生活は治験のバイトという名目を与えられ、給料という名の口止め料も出ていた。姉さんの治療費や入院費も我が家の家計簿に支出として記されることはない。

「まだ何をしたいってのはないんだけど、頑張るつもりではいるよ」

 頑張る。

 その言葉にピクリと反応した姉さんを見て、そういえば禁句だったかと思い出す。いや、頑張れと励ますのがいけないんだったか。

 しかし、目の前にいる彼女は鬱病患者ではなく、明石柚乃だ。

「灯利はすごいよ、昔から」

「そりゃね」

「そう。そういうところが灯利のすごいところ」

 幻想中毒症や鬱病について嫌でも見聞きするうち、耳慣れてしまった言葉がある。

 成功体験というやつだ。

 なんでもいいから何かを成し遂げ、成功したという実感。それがあるかないかで自己評価は大きく左右され、そうした自信の有無はあらゆる物事と決断に影響を与える。

「姉さんのお陰で、俺は自惚れられたからね」

 誰かにできないことを、自分ならできる。

 そういう経験を何度となく俺に与えてくれたのが姉さんだった。

「自信くらい持たなきゃ、姉さんに悪いでしょ」

「それって、嫌味?」

「ただの本心だよ、本心。……違う? できて当然だなんて、できないやつの前じゃ言えないだろ」

 下を見る。

 そして蔑むのではなく、代わりに己を誇ればいい。

 それは傲慢か? 非情か? だが同情し、憐憫の言葉を並べ立てるよりはマシだ。相手を救う力がないなら、一緒に不幸になる勇気もないなら、せめて自分だけは前に進まなければ。

「けどさ、姉さん」

 俺はそうやって前に進んできた。

 しかし今、立ち止まっている。そこに理由を、意味を求めるのなら。

「夢と違って、現実は進み続けるんだよ。何をどう足掻いても、同じ時を繰り返すことはないんだよ」

 姉さんは何か言おうとして、何も言えないことに気付いたらしい。

 一度は伏せられた目が再び俺を見据えてくるのを待って、言葉を紡ぐ。

「俺は高校生になったよ」

「うん」

「もう夏も終わる。秋になる。あと半年もしたら卒業式で、あっという間に二年生になる」

 俺は十七になる。

 姉さんは二十になる。

 RPGのレベルと違って、現実の年齢は一つ進んだからといって何かが劇的に変わるわけじゃない。新しい魔法は覚えないし、それまで苦戦してきた難局を急に突破できるようになるなんてこともない。

 だけど、重い意味を持つ一年だ。一歳だ。

「覚えてるかな。昔さ、何度か電車に乗って買い物行ったよね」

「うん、覚えてる。私はお姉ちゃんなんだよ? 灯利が覚えてる頃なら、私はもっと覚えてる」

 そうかな。

 実はそんなこともない気がするけど、口には出さなかった。姉さんの瞳は、思い出の中にしかない日々を見て、輝いていたから。

 きっと俺が覚えていないだけで、子供らしい失敗をした俺が泣くか拗ねるかして、それをお姉ちゃんぶって咎めたりあやしたりする姉さんがいたのだろう。

 昔の話だ。

 どれほど思い出が輝かしくとも、過去が過去である以上、未来に光や影を落とすことは有り得ない。誰もがそう思い込んでいるだけで。思い込みが、幻想を現実にしてしまっているだけで。

「いつも降りる駅があったの、覚えてる?」

「覚えてるよ」

「あの駅、いつも使うんだよ。昔はあんなに遠くに感じて、電車に乗るだけでなんかもう冒険って感じがしたのに、今じゃ毎日乗ってる。毎日あの駅で降りて、学校までほんの数分だけ歩くんだよ」

 あの頃の俺は、ほんの数分の距離に未来の自分が通う学校があるなんて想像もしなかった。

 だからどうしたと言われれば、それまでだけど。

 でも確かにあの駅は思い出の中にあって、今も現実に存在している。勿論、かつての姿とは大なり小なり変わりながら。

 そんなものがどこにでもあって、世界はどこまでも繋がっているような気がするから、誰もが過去と今を、今と未来を結び付けてしまうのだろう。

 だから――。

「姉さんは知ってる? あの駅にドーナツ屋ができたんだよ。お陰で最近、放課後の駅は大変なんだ。みんな何かって理由つけては、あそこに寄りたがるんだよな」

 新しいもの好きなのかな、と笑ってみる。

 姉さんは少し拗ねていた。いや、どうして。少し考えてみて、思い至る。俺が同級生と……それこそ健二や椋也、美咲と寄り道しているところを想像したのか。

 それならまぁ、好都合か。

「けど、もうしばらくしたらみんな飽きるよ。時々、なんか甘いもん食べたいよなって、今までコンビニで菓子パン買ってたような時に寄るくらいになる。ドーナツは高いしな。安いのは安いけど、いつも一番安いのってのは飽きるし、見栄えも悪いし」

 高校生ってのは見栄っ張りな生き物だ。

 ……いや、違うか。

 人間は誰しも見栄っ張りで、人に格好良いところや可愛いところを見せたくて、泥臭く足掻くところなんて見られたくはなくて。

 それが良いことでもあるし、悪いことでもあるんだろう。

「だから、そうなった頃に一緒に行こうよ」

 笑ってみる。

 姉さんは少し驚いた顔をして、それからそっぽを向いてしまった。

「灯利が買ってきてくれればいいんだよ」

「言っとくけどこの病棟、飲食物の持ち込み禁止だから」

 口を尖らせて言う実の姉を微笑ましく感じてしまうのは、少しまずいのかもしれない。

 もう十九になるんだけどな。

 俺が小学生の頃以来まともに話してこなかったせいか、お互いに距離感が掴みきれていないのはあるかもしれない。

「姉さんは嫌? 俺と一緒にドーナツ食べに行くの」

「灯利と一緒が嫌なわけじゃないよ。……でも、だけど」

 小さな痩せ細った拳を握るのが、薄い夏用布団の動きで見て取れた。

 姉さんの口は何かを言おうと必死に言葉を探し、それでいて見つけた言葉を絶えず飲み込んでいた。

「俺と姉さんは、同級生になれないよ」

「……? それは、そうだよ。だって――」

「だって姉と弟だから、とでも言うつもり?」

 それは間違いだ。

「違うの?」

「姉さんさ、俺が高校生なの忘れてる?」

「えっ? ……いや、だけど」

「だから、だよ。俺は留年も浪人もする気はないからね。姉さんがどんなに頑張っても、俺には追い付けない。俺と姉さんが同じ学年になることはない」

 いつの間にか逆転してしまった。

 前は姉さんが俺を置いていったのに、今では俺が姉さんを置いていこうとしている。

「でも、お陰でまた一緒に帰れるかもしれないよ。俺たちは三歳差だから中学も高校も重ならないはずだったのに、姉さんが立ち止まっちゃったお陰で、あと二年だけなら俺も待てる。放課後に寄り道してドーナツも食べられる」

 だから、とは言わなかった。

 そんなのは夢物語に過ぎないと、夢に縋ることでしか見ることのできない幻想だと知っているから。

「そんなの、無理だよ……」

 しかし姉さんは否定した。

 泣き叫ぶ代わりに、子供みたいに首を振って。握り締めた手を必死に動かして。

 無理だと笑い飛ばすのでも、笑えない冗談だと一蹴するのでもなくて、思い描けてしまった未来を幻想に過ぎないのだと言い聞かせようとした。

 俺は多分、間違えている。

 誰かに言えば、それが誰であろうとお前は間違っていると叫ぶだろう。

 構うものかと、躊躇を振り払うのは勇気がいった。そんな勇気、振り絞ってはいけないのかもしれない。

 でも、だとしても。

 もう決めたから。

 正しくなんかなくていい。

 誰にも正解なんて分からなくても、一緒に間違えることはできる。俺にでも。

「無理じゃないよ」

 笑って、突き付ける。

 こんなことはしなくてもいいのかもしれない。

 分かっていても――否、分かっていたから、無理やりに笑い飛ばした。

「姉さんはクラスのマドンナでも、最強の冒険者でもないけど、姉さんなんだから」

 もし、姉さんが自分に自信を持てないのだとしても。

 そんな姉さんには、代わりに俺がいる。

 傲慢に、不遜に、たとえ滑稽であろうと笑ってみせよう。

「いつも言ってただろ? お姉ちゃんなんだから、って。姉さんは、俺の姉さんなんだよ。何が無理だって? 誰が無理だって?」

 俺が笑う。

 姉さんは、どうする?

「無理じゃないよ。姉さんならできる」

「そんなの――」

「まだ分からない? 姉さんが正しくて俺が間違ってたことなんか、今までに一度でもあった?」

 少しは考えた。

 高校を出てから働いて貯金するとか、大学を出て安定した職を探すとか。

 それは多分、不可能ではない。幸運には恵まれなくても、不運にさえ見舞われなければ実現できただろう。

 たとえ姉さんがいつまでも一人で、そのくせ一人では生きていけなかったとしても、俺が支えていくことはできたはずだ。

 考えた。

 そして気付いてしまった。

 そんな日々は、きっと姉さんには耐えられない。弟の足枷になる姉の役を演じるなんて心が持たない。

 だから。

 不可能と承知で、一緒に間違えると決めた。

「俺も協力するから、ね?」

 悪魔の囁きだと、自分で言うのは少し恥ずかしいけど。

 しかし確かに、これは悪魔の囁きだった。

「一緒に頑張ろうよ。もう少しだけ」

 揺れる瞳が俺を見た。

 俺の瞳は、きっと姉さんの望む幻想を映し出せていただろう。

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