七話
「灯利君? ねぇ、灯利君ってば!」
肩を揺すられ、目が覚めた。
霞んだ視界にはユノが……違う、なんだっけ。分からない。
「ユノって、誰だっけ」
ぽつり呟く。
俺の顔を覗き込んできていた少女が肩を落とし、ため息を零した。
「柚乃は私でしょ、私。明石柚乃」
柚乃。
明石柚乃。
霞んでいた視界が晴れていく。あぁそうだ、俺は寝ていたのか。寝惚けていたのか。
「どうして目の前にいるクラスメイトを忘れるかなぁ」
「え……。あ、いや、ごめん! 本当にごめんっ!」
「もう、ようやく目が覚めた?」
「覚めました、覚めましたって! この通り!」
かっと目を見開いてみせたら、柚乃がからからと大声で笑い出す。
それで顔が熱くなった。
まずい。寝起きに天使の、じゃなかった柚乃の顔を間近で見たせいで変なテンションになっていた。今の俺、どんな顔してたんだろ。変顔になってないかな。なってなかったわけないよな。
あぁ、どうしよう。
「灯利君って、結構面白いんだね」
「きょ、恐縮です」
「構わぬ、構わぬ。……で、いつまで敬語?」
「いえ、柚乃様にあらせられましては、やはり、やはり……えっと、ごめん。見切り発車だった」
「素直でよろしい」
夢かな、これ。
思わず頬をつねりそうになったけど、そんなことをしてまた笑われたら堪ったもんじゃない。ていうか、理由を聞かれたらなんて説明するんだ。
まさか「天使と笑い合えるなんて夢としか思えず」とか白状するのか?
馬鹿か、俺は馬鹿か。クラスメイトを天使扱いとか気持ち悪いだろ。同い年なんだぞ、柚乃と俺は。
……ん?
あれ、何か変だな。
「灯利君? どうかした?」
「あぁいや、なんでもありま……じゃない、なんでもないよ」
「そう? それならいいいけど」
柚乃、柚乃、柚乃。
俺はこんな風に彼女を呼んでいたか?
何かが違う。
違和感は膨れ上がり、しかし急速に萎んだ。
柚乃が手を伸ばしていたから。
他のどこでもない、俺に向けて。
「行こうよ。ねぇ、灯利君」
「行くって、どこに?」
疑問符が入れ替わる。
そうして残った違和感の残滓は、柚乃の困ったような微笑に掃き捨てられた。
「それも忘れちゃったの? さっき話したでしょ?」
柚乃は掴んだ。
俺の手を。
そっと優しく、それでいて確固たる意思とともに。
「ミラージュバグ。全てを叶えてくれる、不可避の幻想を探しに」
夕焼けに染まる街。
下校途中の学生が巻き起こす喧騒、静かだけど満たされた笑顔のスーツ姿、買い物袋を提げた女性と、それとは反対の手で繋がれた幼い子供。
何もかもが有り触れている当たり前の景色の中に、きっと俺たちも紛れ込んでいるのだろう。
だけど本当は、日常なんかじゃなかった。
あの柚乃と手を繋いで放課後の街を歩くなんて、今でも信じられない。
俺の手を柚乃が引いている。振り返った彼女の顔には――瞳にも、頬にも、唇にも笑みが浮かぶ。
あまりに信じられない光景に、それでも驚かなかったのはどうしてだろう。
夢想しすぎたのだろうか。いつかこんな日が訪れるなら、と。
「なぁ柚乃」
こんな風に気安く呼べるのも夢みたいだ。
夢なら覚めないでくれ、と映画か何かで聞いた台詞を心に唱える。
「これは今、どこに向かってるんだ?」
聞いてはみたけど、そんなことはどうでもよかった。
ただ話をしたくて、彼女の声を聞いていたくて声をかけただけ。
それに振り返った彼女は、柔和な、それでいて快活な笑みを崩さず言った。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「どうしてって」
「どこでもいいでしょ? 行き先なんて」
あぁ、と声なく頷く。
その通りだ。行き先なんてどこでもいい。
俺が描いた夢想、望んだ理想は既にここにある。
前を見れば柚乃の笑顔があって、視線を下ろせば繋いだ手が見えた。
これ以上の何を望み、思い描けばいいのだろう?
「ねぇ、灯利君」
柚乃が俺の名を呼び、微笑んでくれる。
何も答えなくていい。言葉がなくても通じ合い、呼び合うだけで満たされた。
そう思っていた、はずなのに。
道を歩けば前に進み、景色は移ろう。見えるものは変わり、感じるものも考えることも変わらざるを得ない。
望もうと望むまいと、歩き出した俺たちは進むしかなかった。
「こんなに歩いたら疲れちゃったよね。ちょっと休まない?」
柚乃が微笑む。
俺たちは、いつの間にか見慣れたところまで歩いてきていた。
四つ辻の文房具店前。小さい頃は『ヨツツジ』がなんのことか知らなくて、文房具店をやっている人がヨツツジさんなのだろうと考えたこともあった。
随分と遠くまで来てしまったものだ。
「ねぇ、灯利君」
「……なに?」
「知ってる? ここで買った消しゴムを好きな人に拾ってもらえたら、その人と恋人同士になれるんだって」
俺が頷かなかったからか、柚乃は歩みを止めていなかった。
しかし不思議と景色が流れる速度は遅く、ここと言われてすぐに文房具店のことだと分かった。
「そう、だったんだ」
「迷信っていうか、ただの噂なんだけどね」
知らなかった。
きっと俺が知らなかったということを、柚乃は知らなかったのだろう。
「灯利君さ、誰か好きな人がいたの?」
いたよ、と言おうとした口が閉ざされる。
いるよ、と言う自分がどこかにはいたはずだ。
「俺はさ――」
言葉を紡ぎかけた喉が詰まる。
声が出ない。
心臓が張り裂けそうなほどに震えて、目の前すら見えなくなりそうだった。
それで強く、あまりに強く繋いだままの手を握り締めてしまう。
柚乃が驚いた顔を浮かべ、何かを言おうとした。それを遮る。
「好きだったよ、柚乃のこと。君のこと。お前のこと。あんたのこと」
どれも違和感があった。
柚乃。
どうして俺は、そんな風に彼女を呼ぶのだろう。
「それならさ、灯利君。ねぇ。それなら、私たち」
「だけど、何かが違うんだ」
分かっていた。
ずっと知っていた。
何かが違う。間違っている。
柚乃は天使だ。クラスのマドンナだ。誰とでも別け隔てなく笑い合える、優しい少女。非の打ち所なんかなくて、だから誰でも好きにならないわけがない。
柚乃といれば、誰もが楽しくなる。
あぁ、そうだ。
「柚乃のこと、俺は好きなんだ」
「……うん、知ってる。知ってた。だから灯利君」
「だから柚乃、これは間違いなんだ」
世界は夕焼けに包まれていた。
どこもかしこも朱と紅に染まり、四つ辻も文房具店も背景に溶けて消える。
ただ天上に、月と見紛う太陽が輝いていた。
「何、言ってるの?」
「なぁ、柚乃」
繋いだ手を強く引く。
彼女は驚きながらも淡く微笑み、俺に身を預けようとした。
でも、それは無理なんだ。
「えっ……?」
柚乃の身体が俺をすり抜ける。
否。
俺の身体が、柚乃をすり抜けていた。
支えを失った柚乃が二歩、三歩とたたらを踏むように前のめりになる。それはもう俺にとって背後で、過去だった。
代わりに、前に。
柚乃が立っていた場所に、もう一人の彼女を見つける。
小さく、蹲った彼女を。
「あ……」
彼女の瞳が俺を見上げ、弾かれたように立ち上がった。
伸ばされた手が、繋いでいたはずの手を失った俺の手を今度こそ掴む。
「灯利君、これは、これはね」
「やめてくれよ、そんな呼び方」
灯利君。
そんな風に呼んだこと、ただの一度もなかっただろ。
「なぁ、姉さん」
「違う!」
「違わない。明石柚乃。それは俺の、明石灯利の姉だろう?」
世界はもう動かない。
鮮やかな夕焼けに染め上げられた世界に、俺と姉さんだけが立っていた。
「これは夢だ」
「違う」
「姉さんの夢」
「違う……」
「朝になれば目が覚めて、いずれ記憶からも消えゆく幻想」
姉さんは俺を見上げていた。
いつから、なんだろう。見上げていたはずの姉さんの顔を、見下ろすようになったのは。
覚えていない。もしかしたら、知らなかったのかもしれない。
もう何年も、姉さんとちゃんと顔を合わせたことはなかった。
「違うよ、違う。これは夢なんかじゃない。幻想なんかじゃない」
姉さんは泣きながら、笑って言った。
「朝になっても目は覚めない。この世界は終わらない。ずっと続く。いつまでも、どこまでも。だから、これは――」
現実なんだろう。
もう一つの、あるいは理想の。
「違うよ、ここは現実なんかじゃない」
「違わない。だって灯利も、……灯利も感じたでしょ?」
思い出した、とは言わない。
覚えている。
ユノが死んだ悲しみを。柚乃と歩いた放課後を。
でも、それは作られた記憶だ。用意され、配置され、再生されただけの紛い物。
「何が嫌だった? 何が足りなかった? 灯利はもっと大人っぽい方が好き? だったら――」
「無理でしょ、姉さんには」
繋いだ手の、あまりに小さく頼りない心地に苦笑する。
「夢は夢だよ。それは姉さんの想像を越えられない」
「でも灯利がいる。そうだよ、ねぇ、灯利! 灯利がいるんだよ? 灯利がいたら、なんだってできるよ。だって、だって灯利は」
「自慢の弟、だから?」
笑ってしまう。
姉さんはいつもそうだった。
きっと姉さんには、俺が何か特別な人間に見えていたのだろう。
いつでもそうだった。それが誇らしくもあり、疎ましくもあった。だって俺は、姉さんが思うほど特別じゃない。
むしろ真実は逆で、姉さんが悪い意味で特別だっただけ。
だから普通でしかない俺が、姉さんには特別に見えていた。
「灯利はすごいんだよ」
「そりゃ姉さんに比べたらね」
「ううん、他の誰と比べてもすごいの。灯利はすごい」
そりゃどうも、と笑う気力すら枯れていた。
身内にどれだけ褒められても、それで喜べるほど素直じゃない。
「だからクラスのマドンナになったの? 最強の冒険者に?」
笑ってしまう。
「賢者の弟子だっけ? ……いや、賢者って誰。なんで夢の中の俺ですらその情報知らないの。設定甘くない?」
夢は、夢でしかない。
幼稚園児がお花屋さんになりたいと願うのと同じだ。お花屋さんはお花畑でお花を育てて、それを売っていると思いこんでいる。でも現実に、栽培から販売までの全てを自らこなす花屋がどれだけいるだろう。
俺にその知識はない。
だから俺が花屋の夢を見ても、きっと現実とは別物のハリボテにしかならないだろう。
姉さんもそうだ。
「姉さんはクラスのマドンナになりたかったの? 最強の冒険者になりたかったの?」
笑いそうになるのを堪えて言えば、姉さんは夕焼けに染め上げられてなお見て取れるほどに頬を赤く染めていた。
「い……、いけない?」
「いけなくはないけど、そんなの姉さんじゃないよ?」
「分かってる! 分かってるよ、そんなこと!」
姉さんは多分、分かっていない。
何一つ、分かっちゃいない。
「姉さんは知らないんだよ」
「そんなこと私が一番――」
「そうじゃなくてさ」
きっと俺の夢には、クラスのマドンナも最強の冒険者も登場しない。
代わりに出てくるのは健二や椋也、美咲と一緒に笑っていた杏や秋田、ややこしろうコンビだ。
そして、そこにはいつか。
「姉さんのこと、俺は好きだったんだよ」
目を丸くする姉さんに「いや男女のそれじゃなくてね」と苦笑する。
どんなに背伸びしても、俺たちの間にそんなドラマは生まれない。クラスのマドンナは幻想に過ぎず、現実の俺が恋する同級生の役を演じることはないだろう。同級生でなくとも同じことだ。
俺が姉さんに恋することはない。逆もまた然り。
それは当然のことだけど、それと同じくらい、俺にとっては当然のことだった。
「姉さんのこと、俺は尊敬してたんだよ」
知らないだろう?
想像さえ、しなかったはずだ。
「嘘、そんなの嘘だよ」
「嘘じゃない」
「おだてたって無駄なんだから。私は、ここでなら一番になれるんだよ?」
「だから?」
まさか、姉さんは一番になりたかったのか?
違うだろう。
「灯利の知ってる本当の私はダメダメだった。何をしてもダメで、いつも笑われてた」
知っている。
俺が小学校に上がる春、四年生になった姉さんは安堵したことだろう。
それまでの三年間、姉さんは放課後を一人で過ごしてきた。だけど俺が……弟が入学したから、放課後は手を引いて一緒に帰らないといけない。だから友達と一緒にいられないだけで、一人ぼっちなのではないと。
ちっぽけな、あまりに見え透いた見栄だけど、それが姉さんの支えだった。
分からないはずがない。
三年も下の学年の子供と一緒にいるなんて、四年生になった俺には耐えられなかった。姉さんが耐えられたのは、ただ姉弟だったからじゃない。他にいなかったからだ、一緒にいてくれる誰かが。
「夢でも幻想でも、それでいいじゃん。何がいけないの? 誰がいけないって決めたの? 現実だって、それが夢じゃないなんて誰にも断言はできないのに」
手だけを繋いだまま、俺の心は姉さんには伝わらない。
それが他人というもので、他者というもので、現実というものだ。
「灯利だって、そうじゃないの? もっと綺麗なお姉ちゃんがよかったでしょ? もっと明るくて、人気者のお姉ちゃんが。そしたら鼻が高かったんじゃない?」
悲痛に笑う実の姉に、なんと言葉をかければいいのか。
四年生になったばかりの頃の俺には難しくて、ついぞ分からなかった。分からないまま考えることをやめて、自分は間違えずに姉さんが間違えたのだという、考えるまでもなく明白な現実に飛びついた。
だけど、今なら分かる。
何を言えばいいのかは分からないままでも、何を言いたかったのかは思い出せた。
「言っただろ、俺は姉さんを尊敬してたって」
「小さい頃は、でしょ?」
「そうだな、そうだ。今の姉さんはちょっと見るに堪えない」
笑ってみるが、俯いてしまった姉さんには届かない。
それでいい。
俺は親でも恋人でもない。ただの弟だ。同じ親から、後に生まれただけの存在。
たったそれだけの理由で優しくする必要も、親しくする必要もないだろう。
だからこそ。
「姉さんは頭悪かったよね。そもそも要領が悪かった。運動もできなかったし、知らない人と話すのが苦手で、好きだったはずのゲームも別に上手くなかった。ていうか普通に下手だった」
姉だから、じゃない。
姉さんだからこそ。明石柚乃という、彼女自身だからこそ。
「それでも馬鹿みたいに頑張る姉さんを尊敬してた。お姉ちゃんなんだから、って言われて我慢できる姉さんをすごいと思った。逃げる方法なんて幾らでもあるのに逃げ出さなかった姉さんが、小さい頃は少し自慢だった」
俺には真似できない。
小学生の頃は勿論のこと、高校生になった今でもそうだ。
そんなすごいことを姉さんは当たり前に、それ以外に道はないんだと信じ込んで頑張り続けた。ただ頭が悪くて、要領が悪くて、普通なら見えるはずの周りが目に入らなかっただけだとしても。
「俺はさ、姉さんのこと尊敬してたんだよ」
その姉さんが逃げ出した。
他の道なんて見えていなかったはずの姉さんが。
どうして気付かなかったんだろう。それは楽な方に逃げたわけじゃないんだと。
「帰ろう、姉さん」
幻想中毒症。
蜃気楼に、届かないはずの遠く離れたところに手を伸ばし、足を踏み外してしまうそれ。
「無理だよ」
「何が?」
「私、まだ馬鹿なんだよ? 頭も要領も悪いままで、運動もできないし人見知りだし、得意なことなんて何もないんだよ?」
「だから?」
「……だから無理なんだよ、何もかも」
できる、とは言えない。
空を飛び海を歩くことさえも自在な夢に比べ、現実のいかに不便なことか。
「じゃあ、姉さん」
「一緒にいてくれる?」
「いや、俺は帰るよ? ていうか、起きるよ」
明日の学校は多分無理だけど。
俺は起きる。夢から覚める。
そして学校に行って、進学なり就職なりして大人になっていく。
「まさか忘れたわけじゃないでしょ?」
笑いかければ、姉さんは慌てて頭を回しているようだった。
「大切なこと。最強の冒険者さんに、月が綺麗ですねの代わりに伝えた言葉」
それは愛の告白じゃなくて、有り触れた日常の一言。
「朝になったら、俺は起きるよ。姉さんは?」
「……無理だよ」
「無理無理って、さっきから姉さんは何をしようとしてるの?」
「何って……」
今脳裏に浮かんだのは、きっと全てだ。
やらなければいけないことの全て。夢にはなくて、現実にはある全てのこと。
だけど、そんなことはどうだっていい。
少なくとも俺にとっては、それが姉さんにできようができまいが、さしたる興味はないことだった。
「おやすみ、また明日って」
突然のことだった。
あまりに唐突で、あんまりな不意打ちで、姉さんより俺の方が驚いてしまう。
「そう、いつも言ってた。当たり前に、何も考えずに」
その声は震えていた。
俺の声が。
なんでもないことを紡ぐはずだったのに。
「なのに……なのに、その明日が来なかった。姉さんが朝起きてこなくて、寝坊したんだと思った。今でも覚えてる。ちゃんと思い出した。姉さんはその日から学校に行かなかった。笑わなくなった」
やがて部屋から出てこなくなって、言葉を交わすこともなくなって。
だから夢で出会った姉さんたちは、どれも俺の知らない姿をしていた。
「姉さんが起きてないって。ご飯も水も減ってないって母さんが真っ青になってた日、俺は健二たちと遊んでた。電話を無視して、親睦会の二次会に行ってた」
「……見たよ」
「えっ? いや、それはそうか。俺も姉さんの夢を見たんだから」
俺の夢にはクラスのマドンナも最強の冒険者も出てこなかった。
楽しくも有り触れた、それでいてかけがえのない毎日。
でも、だから、何かが足りていなかった。あるはずのものがそこにはなくて、お陰で何度も夢だと気付いてしまった。
「姉さん、……俺、高校生になったんだよ」
「知ってる」
「ちょっと前まで、姉さんは中学生だったのに。いつの間にか追い抜いてた」
追い抜くはずのないものを追い抜いて。
止まるはずのないものが、それなのに止まってしまったから。
「俺は姉さんに謝りたいんだと思ってた」
あの日に戻って。
また明日と何も考えずに寝てしまった夜、もしあの時あの瞬間に違うことができたとしたら。
俺は、きっと同じことを言うだろう。
おやすみ、また明日。
けれど、それは同じ言葉であって同じ言葉じゃない。ただ待っていては訪れない明日を、約束するための言葉だ。
「でも、夢を見て気付いた。何度もユノを助けようとして、何度も柚乃を追いかけようとして、それで気付かされた」
姉さんはクラスのマドンナや最強の冒険者になりたかったのか?
それとも助けてほしかったのか? 追いかけてきてほしかったのか?
分からない。
夢の中に確かなことなんて何一つなくて、大抵は想像するのも馬鹿馬鹿しいことでしかないから。
だけど夢から覚めて、ふと気付くことはある。
失ってから気付くと言われる何かを、失う前に気付けることがある。
「姉さん」
あぁ、しかしそういえば、ここは単なる夢ではなかった。
ここには俺がいて、姉さんがいる。
それだけが唯一、俺たちを包む蜃気楼の中でも確かなことだ。
「また話せてよかった。嘘でも笑えてよかった」
だから、だから……。
握り締めた手はあまりに小さく、細く、儚く。
想像にある姉さんの――いや『姉ちゃん』の手とは違いすぎて、それが却って現実を教えてくれた。
「待ってるから。いつまでも。明日、また話そう」
そして、叶うことなら。
本心はそっと仕舞い込んで、好きだった笑顔を下手くそに真似てみる。
「今度こそ、本当に笑おうよ。二人で、こんな風に」