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五話

 遮断機が下りていた。

 走り抜けていく電車の窓には、何人もの柚乃が見える。

 柚乃はいつも笑っていた。

 そして柚乃の隣には、いつも一人の男がいた。

 顔は見えない。なのに表情はあって、笑ったり怒ったりしている。

 窓の中で柚乃と男が笑い合っていた。柚乃が泣き、男が困っていた。柚乃が怒り、男が呆れていた。

 しかし、ある時を境に一変する。

 柚乃がいなくなったのだ。

 男は一人で笑ったり、怒ったり、何も感じさせない冷たい表情を浮かべたり。

 やがて電車が走り去る。

 遮断機が上がり、踏切の向こうが見通せた。

「……おい」

 呟く。

 叫んだつもりだったのに、声が全然出なかった。

「んで……なんでお前が、お前は」

 踏切の向こう側で、顔のない男が振り向いた。

 そいつは俺を見て笑ったのだろうか。分からない。

 気付いた時には走り出し、男の胸ぐらを掴んでいた。

「なんでお前はそこにいる! どうしてお前が、お前だけがそこにいるッ!」

 男はないはずの目と、ないはずの口を歪ませる。

「なんでって? 理由がいるのか?」

 あまりに冷たい、けれど腹の底が煮え立つ声だ。

「俺はただそこにいただけだ。ここにいるだけだ。他にどんな理由が必要なんだ?」

「どんなって……。分からないのかよ、分かろうともしないのかよ!」

「お前、なに言ってんだ? 意味が分からない」

 意味が、って。

 そんなわけないだろ、そんなはずないだろ。

「お前は……っ! お前はそれでいいのかよ! こんなの、こんなの絶対――」

「間違ってなんか、ねえんだよ!」

 男が叫んだ。

 掴んでいたはずの手が外れ、逆に胸ぐらを掴まれる。

「間違いだなんて言わせねえぞ、お前に言えるわけがねえんだ。俺が何を間違えたって? 何が間違ってたって? 何一つ間違えちゃいねえんだよ」

「じゃあ……。じゃあ、これが正しいってのか? 今のお前が正しいって?」

「そうだよ! だって、そうだろうが! 悪いのは姉さんなんだよ。姉さんはいつも間違えてた、いつだって間違えてた。馬鹿なくせに、要領悪いくせに、何一つまともにできねえくせに、なのに……ッ!」

 あぁ、そうだよ、そうなんだよ。

 笑ってしまった。

 こういうのが乾いた笑いっていうんだろう。ははは、と楽しくもないのに笑いが零れる。

「確かに……そうだな、確かに、間違ってたのかもしれないよ」

 見えないのに、くしゃくしゃに泣いているのが分かった。

 声が枯れる。

 一生分も叫んだ気がした。

「だけど、悪いなんてことねえだろ」

「間違いだって分かってるなら、そんなことするのは間違いだ。違うか?」

「違わねえよ。違わねえけど、でもさ」

 分かるだろ。

 分からないわけないだろ、なぁ?

「柚乃は、あいつは、あの人は、そりゃ間違えちゃったかもしれないけど、間違いだって分かってて逃げなかった馬鹿かもしれないけど――。けど、それを悪いなんて言うなよ。言ってやるなよ」

 もっと早く気付くべきだった。

 こんなことになる前に、こうしておくべきだった。

 だけど、もう遅い。

 遅いけれど、手遅れだなんて言わない。言わせない。

「他にやりようがあったはずなんだ」

「どんな? 他のどんなことしたって、もっと悪くなっただけだ」

「でも、やってみなくちゃ分からない」

「やってみて、それでダメだったら? もっと悪くなるだけだったら?」

「困るよな、そりゃ困っちまう」

 空を仰ぐ。

 そこには闇があり、夜空はなかった。

「俺が……、俺は正しかった。そんなこと、お前が分かってんだろ」

 顔のない男が笑った。

 諦めに諦め抜いた、それは賢い者だけが知る笑い方なのかもしれない。

 じゃあ、俺にはいらないよ。

「そこをどいてくれ。俺は行かなくちゃいけないんだ」

「どうして? どこへ?」

「行くって決めたから。行きたいところへ」

 男は笑った。

 それは嘲笑と呼ぶべきものだった。

「お前には無理だよ」

 それだけ言い残し、男は消えた。さらりと闇に溶けていった。

 そして、俺だけがぽつりと立っている。

 行こう。

 行かなくちゃ。

 背後で誰かが叫んでいる気がした。

 けれど、もう振り返らない。



 無理だろ、こんなの。

 ドラゴンの炎に焼かれながら、思わず笑ってしまった。

 どうすればいいんだろうな。

 こういう時、アニメとか映画ならどうするんだっけ。

 ミサキに逃げるだけの余裕はない。出会い頭にパクリだ。それでケンジが我を忘れる。そりゃそうだよな、だってケンジだし。ケンジはミサキのこと大好きだもんな。ほんと、お似合いだよ。

 意外なのはリョウヤだった。あいつ、あれで意外と面倒見がいいっていうか、困っているやつとか悲しんでいるやつがいたら放っておけないんだ。良いやつなんだよ、まったくさ。

 で、どうすりゃいいんだろうな。

 そこまで考えた頃、俺が燃え尽きた。

 目が覚める。

 駆け出し冒険者用の宿舎でケンジとリョウヤを叩き起こし、支度をして食堂に向かう。

 そしてまた冒険に出掛ける。

 冒険なんて呼ぶのは間違っている気がする、片道一時間の通い慣れた森へ行く。

 身軽なリョウヤが獲物を探す。そうだ、もっと違う場所に出掛ければいいんだ、と気付いた時にはドラゴンの顎門がミサキを両断していた。

 目が覚める。

 そうだ、もっと違う場所に……あれ、これって前にも考えなかったっけ。

 そう首を傾げた時には爆炎がトロールを包んでいた。ズシンと大地を揺らす足音が聞こえ、ドラゴンが現れる。やはりミサキに逃げるだけの余裕はない。ケンジが激昂し、リョウヤは良いやつなんだと笑ってしまう。

 ユノが俺を庇って死んだ。

 どうすりゃいいんだよ、これ。

 クソゲーかよ。

 いや、それどころの話じゃないか。

 ゲームなら勝つための道筋が用意されている。どんなに難しくても、クリアから逆算して動けばいつかは勝てるだろう。あるいは負けイベントでも、その後にはストーリーが続くものだ。

 けど、これは違うだろ。

 どうすりゃ勝てるのかなんて誰も決めてなんかいない。

 かといって負けイベントのように、負ければ何かが前進するってこともない。負けたら終わりだ。終わりじゃなかったとしても、デスペナ貰ってやり直し。

「馬鹿だろ、アホだろ。なんなんだよ、これはさ」

 誰かが背後で叫んでいた。

 うるさいな。

 束の間の眠りに身を委ねる。

 目が覚めた後、俺はまたドラゴンに焼かれるのだろう。



 縁石の上を柚乃が歩いていた。

 夕焼けに照らされた彼女の横顔は、瑞々しく輝いている。

 そっと触れたいと、その頬を撫でたいと思いながら、そんなことは許されないと知っていた。俺と柚乃はただのクラスメイトだ。……あれ、そうだっけ。

 なんで俺たち、同じクラスにいるんだろう。

 大人の都合? 単なる偶然?

 いや、そんな話じゃない気がする。何か大切な歯車を一つ忘れている。

「灯利は楽しくない?」

 訊ねられ、咄嗟に答えようとした時だった。

「灯利?」

「ん? だって君、灯利でしょ? 出席番号一番、明石灯利君」

「そう、なんだけど」

「何か変?」

「ううん、何も変じゃないね。だけど柚乃は――」

 あれ、どうして俺、柚乃のこと柚乃なんて呼んでいるんだろう。

 そんな風に呼ぶ仲だったっけ。

 分からない。

 思い出せない。

「そもそも俺たち、何してるんだっけ?」

「忘れちゃったの?」

 柚乃はくすくすと笑って、しかし直後、その笑みを凍りつかせた。

「あれ? 私たち、何してたんだっけ?」

 世界が霧に包まれる。

 あぁ、間違えたんだ。

 その時になって全てを思い出した。

 どうして忘れられたのかと、自分でも驚いてしまうほどに大切な何もかも。

 けれど、思い出したところで手遅れだった。

 全ては霧に包まれて、また最初から。

「違う、ダメなんだ」

「……何が?」

「手遅れなんかじゃ、ないんだよ……!」

 柚乃は寂しそうに、悲しそうに笑った。

「無理なんだよ、灯利。無理、なんだよ……」

 世界は、そして幕を閉じる。



 気付いたら病室のベッドに座っていた。

 いや、座るというよりは上半身だけ起こしたといった感じ。

 すぐ前には見慣れた主治医が座っていて、脇には若く美人な看護師が立っている。

 先生が口を開いた。

 何か喋っているはずなのに、しかし声は届かない。

 どうしてだろう。

 若く美人な看護師は意外と冗談好きで、それに励まされていた覚えがある。なのに今、彼女は必死の形相を浮かべていた。美人が台無し……とまでは言わないけど、やっぱり美人さんは笑っていた方がいい。

 ていうか、美人に限った話じゃないな。

 誰だって笑っているのが一番いいに決まっている。

 なんでそんな当たり前のことも、わざわざ思い出さなくちゃいけなかったんだろう。

「……さん、灯利さん!」

 先生の声が聞こえた。

「灯利さん! 聞こえていますか、灯利さん! 戻ってこなくちゃ……! それ以上はダメだ、行ってはいけません! 戻ってこなくちゃ、戻ってこられなくなってしまう……!」

 ごめんなさい、無理なんです。

 笑いかけるも、当然といえば当然か、向こうには伝わらないらしかった。

 けど、構うものか。

 ベッドから降り、己の足で立ち上がる。

 先生と看護師の間を抜けて歩き出したというのに、先生はまだベッドに向かって声を投げ、看護師も何か必死の表情で訴えている。

 廊下に出た。

 ここ数年で一気に老け込んだ母さんと父さんが待合室の椅子に腰掛け、蒼白な顔で何やらブツブツ呟いている。人の目を気にすることさえできなくなったら末期だと、誰かが言っていた。

 あれは誰だっけ。

 まぁ、誰でもいいか。

 病院を後にする。

 電車に乗ろうと駅のホームに行けば、誰かが捨てたか落としたかした新聞が目に映った。

『原因不明の昏睡。新たな幻想中毒者か』

 死亡者数でいえば風邪の合併症よりずっと少ない。

 発症数で数えても、奇病難病と呼ばれる類いのものより少なかったはずだ。

 それでいて世界を震撼させる所以は、幻の蛾などという超常現象紛いの存在が原因として考えられているからか。

 宇宙からの侵略者だ、ネット世界から具現化したのだ、はたまた世界政府の陰謀で云々。

 あらゆることが好き勝手に叫ばれる中、俺は電車に乗った。

 乗ったと思えば、すぐに着いた。

 もう七月だ。

 三ヶ月間ほぼ毎日使い続けた、慣れ親しんだ駅である。

 駅舎を出て、似たような背格好の波に紛れて学校に向かった。

 昇降口で出席番号一番の下駄箱を探し、靴を履き替える。歩き慣れた廊下を歩く。

 教室では健二と美咲が顔を寄せ合い、笑い合っていた。あれでまだ付き合っていないらしい。椋也が二日に一度は俺のところに来て「なんで付き合ってねえの? どうにかしろよ」とか無茶を言ってくる。

 でもまぁ、これぞ青春だよな。

 総一朗と修二郎は揃ってエセ兄弟、ややこしろうコンビなどと呼ばれるようになっていた。

 杏は高校生活二人目の彼氏と別れて次の男を物色中で、秋田はどうやら賑やかし担当以上にはなれそうにないと気付いて少ししょげていた。気にすんな、と椋也に肩を叩かれて何故か嬉しそうにしていたのが記憶に新しい。

 俺が席に着くと、朝のホームルームが始まった。

 だけど教室に柚乃の姿はない。あるはずがない。

「だったら、用もないか」

 苦笑し、席を立つ。

 夢なのは分かっていた。

 随分と長い、それでいてリアルな夢だ。

 だから窓から外に出て、ベランダから飛び降りるのは勇気がいった。

 だけど決めたんだ。

 気付いたんだ、思い出したんだ。

 俺の高校生活は嘘じゃない。たった三ヶ月ぽっちだけど、楽しいやつらと出会い、仲良くなった。気晴らしのカラオケで我を忘れて熱唱したこともある。寄り道とかいって、帰り道とは全然違うところまで足を伸ばしたこともあった。

 それを嘘とは呼ばない。

 紛い物の、有り合わせの詰め合わせだなんて思わない。

 でも気付いてしまって、思い出してしまって、決めてしまったなら。

 もう、後戻りは叶わない。

 胸の奥底に穿たれた空虚な隙間の、そこに収まっていたはずの大切な何かを取り戻さないことには、どんな笑顔も嘘っぱちになってしまうから。

 地面に激突する寸前、顔のない男を見つけた。

「ずっと思ってたんだ」

 男は笑ったのだろうか、呆れたのだろうか。

 きっと、どっちもだ。

「一度でいいから、お前のこと全力でぶん殴りたいって」



 そこがどこなのか、咄嗟には分からなかった。

 夕焼けの放課後でも、冒険者用の宿舎でも、病室や教室でもなかった。

 しかし見慣れた天井があることに気付き、思い出す。

 そこは子供部屋だった。

 今は俺の部屋だけど、小学校の四年生になるまでは子供部屋だった一室。

 そこに先客がいた。

 俺と同じ背丈、同じ体格、そして――

「飽きないよな、お前はさ」

 俺と同じ声でからからと笑う男。

 だけど、男には顔がなかった。表情はあるのに、顔がない。

 当然だろう。

 俺は一度だって、こいつの顔を見たことがないのだから。鏡の中、写真の中、夢の中。どこでも見たけど、本当の顔を見たことは一度もない。

 これからも見ることはないのだろう。

 それを悲しいとか寂しいとか思うことはない。

 ただ、安堵だけがあった。

「この部屋、覚えてるか?」

「忘れてたさ」

「だろうな」

 男がからからと笑う。

 もう長いこと笑っていなかった人間が、どうにか昔の笑い方を引っ張り出したような不自然さがあった。

「俺はずっと姉さんの弟だった」

「そりゃそうだ」

「もしも、例えば、姉さんがこのまま十九になることなく死んだとする。だけど俺は十九になる、二十歳になる、三十にも五十にも、もしかしたら百にもなるかもしれない。それでも俺は、ずっと姉さんの弟だ」

 男は笑った。

「そうだろう?」

「そうだな」

「だけどさ、そんな当たり前のことを大人は知らないんだ」

 大人は。

 その言い方には覚えがあって、我知らず苦笑していた。

 男が不機嫌そうに鼻を鳴らし、けれども言葉は変わらずに続ける。

「姉さんは、ただ俺より先に生まれたってだけで姉さんなんだ」

「お前は柚乃より後に生まれたってだけで弟なんだ」

「……? まぁ、その通りだ」

 何がおかしい?

 お前はまだ気付いていないのか?

 それとも、気付きたくないのか?

「だけど、だからって俺が姉さんに劣るって道理もないだろう? 俺は姉さんより運動ができたよ。男だから? 確かにそうかもしれない。背も伸びたしな。だけど、勉強だって実は俺の方ができたんだぜ?」

「実は? みんな気付いてなかったか?」

「気付いちゃいないさ。あいつら、馬鹿だからな。気付いてないんだ、姉だからってなんでもかんでも弟より上手いわけないのに」

「悔しいか?」

「さあね」

 男は肩を竦めた。

 それが本音なのだろう。

 誰だって、分からないことだらけだ。誰かに教えてほしいと思うことも珍しくない。

 おい、見えてるんだろ? 見てるんだろ? だったら教えてくれよ、どこが間違ってる? どこを直せばいい? どこを伸ばせばいい? なぁ、教えてくれよ。

 俺が笑えば、男も笑う。

「だけど今じゃ、みんな知ってる。姉さんは馬鹿だ、姉さんは間違えた。だけど俺は間違えなかった、俺は正しい、姉さんとは違う。そうだろう?」

 そうだろう?

 その言い方がおかしくて、また笑ってしまった。

 男が苛立ちを隠さず、足を踏み鳴らす。

「違うか?」

「違わないかもしれない」

「違う可能性があるってか?」

「さて、どうだろうな」

 一息つき、天井を見上げた。

 何度となく見上げてきた天井なのに、今はまた違ったものが見える気がする。

「お前は正しくなんかないんだよ」

「……どこが?」

 男は笑っていた。

 ニヒルに、と形容したい。ニヒルってなんだっけな、……冷笑? いや、冷笑は少し違ったはずだ。

 まぁ、いいか。

 名前なんてどうだっていい。俺はあいつを知っている。それで十分だ。

「そうだな、お前は確かに間違えなかったかもしれない」

「それが正しいってことだ」

「テストの話か? 不正解じゃありません、だから正解ですってか?」

 笑わせるなよ、ガキかよ、お前。

「お前は間違えなかった。どうしてか教えてやろうか?」

「俺が正しいからだ」

「違うよ、全然違う」

「じゃあ、なんだって――」

「お前はな、逃げただけなんだよ。逃げて逃げて、逃げ続けてきただけなんだよ」

 一瞬、怖くなった。

 それを言ってしまえば全てが壊れ、崩れてしまう気がしたから。

 でも、ほんの一瞬のことだ。

「お前は正しかったんじゃない。間違えるのが怖くて、間違えなくて済むように逃げ出したんだ。お前は一度だって、正しいことをしようなんて考えなかった」

 知ってるんだよ、当然だろう?

 だって。

「それならお前は、お前が正しいってのか?」

 男が声を絞り出す。

 最早叫ぶだけの気力も尽きていた。

 お互い様だ。なんだか倍は疲れた気がする。当然か。

「知らねえよ」

「なんだよ、それ。正しいかどうかも分かんねえことより、少なくとも間違ってないことの方がいいだろ。違うのかよ」

「違うんだよ」

 あぁ、それでも笑うだけの気力はあった。

 見慣れた天井は、ただ眺めているだけでいつかの笑い声を思い出せた。

 手を伸ばせば記憶の彼方に消えてしまう、最早届かぬ笑い声。

「お前は間違えなくちゃいけなかったんだ」

「馬鹿を言え」

「そうだよ、馬鹿だとも。馬鹿をやれって言ったんだ。どうせ逃げるなら、一緒に逃げてやればよかった。目を背けるなら、一緒に目を背けてやればよかった。あの人が、あいつが――」

 姉さんが。

 そう言いたい気持ちをぐっと堪えて、無理やりにでも笑ってみせた。

「柚乃が間違えたなら、お前は一度くらい、一緒に間違えてやるべきだった」

「柚乃? お前、まだ気付いてないのか? ここは夢で、お前は――」

「気付いているさ。だから行くんだ、俺は」

 ここが夢なら、俺は誰だ?

 眼前の男に訊ねても、きっと答えは返されなかっただろう。

 だってそいつは、俺だから。

 今ここにいる俺じゃなくて、いつかどこかの俺なのだから。

「俺は高校生だよ。俺は冒険者だよ。そして俺は、ヒーローなんだよ」

 こんなの絶対、間違っている。

 だからいつかは正さなくちゃいけない。

 だけど、今だけは間違っていてもいい。ここでなら間違えてもいい。

 これは夢なんだから。

 いつか覚める、どう足掻いても終わってしまう、一時の幻なのだから。

「そこを、どいてくれ」

「断る」

「どうして?」

「俺は間違えなかった。間違えなかった過去を否定するのは、間違っている」

 否定なんて、大袈裟すぎる。

 でもまぁ、大袈裟なくらいでいいのかな。

 ここは夢の中。

 空を飛ぶのも、海を歩くのも、あるいは教室で笑うのも自由だ。

 腰に手を伸ばす。

 高校の制服には似合わない、鈍色の輝きを掴んだ。

「じゃあ、どいてもらう」

「お前、もう高一だろ?」

「俺に言うなよ。ここにいる俺は、俺じゃないんだ」

 俺はヒーローになるんだ。

 今度こそ。

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