三話
ミサキがやられた。
構えていた大盾ごと、ドラゴンの巨大な顎門に両断された。
鎧がひしゃげ、骨が砕ける音まで鮮明に鳴り響く。
「うあぁぁあああァ!!」
叫び声。
駆け出す、乱れきった足音。
「ケンジ! ダメだ、戻れッ!」
声は届かなかった。
鞭のごとく振り回された太く硬質な尾がケンジの横っ腹を捉え、ゴミか何かのように蹴散らす。
直後、迸る鮮血の下を走り抜けていたリョウヤの頭上に影が落ちた。
神殿を支える白亜の柱みたいなドラゴンの前足が、リョウヤの立っていた大地に突き立つ。
一瞬だった。
こんなの戦いにもなっていない。
「逃げなきゃ……」
我知らず呟き、はっとした。
何かが間違っている。何かがおかしい。こんなの絶対、どうかしている。
けど、何が?
今はそんなことを考えている場合じゃない。逃げなきゃ。違う。せめて、ユノだけでも。
「逃げろ、」
ユノ、と続けようとした喉が凍りつく。
頭の中で誰かが、何かが叫んだ。
――逃げちゃいけない
――逃げたって、何も解決しないんだよ……!
だったら、どうしろってんだよ。
わけも分からず吐き捨てる。
目の前にはドラゴンが迫っていた。何もできずに死ぬのか、俺は。まだまだやりたいことがあった。目指したものがあった。そのために冒険者に、冒険者に……?
「あれ、なんのために」
目の前でドラゴンが炎を吐く。
誰かが言った。
――無理なんだよ、灯利。
その声には、聞き覚えがあった。
「柚乃?」
思い出す。
なんで忘れていたんだろう。
目の前で柚乃が焼かれそうになっていた。
嘘だ。
嘘なんだろう?
燃え盛る炎の向こうで、ドラゴンが俺を見ていた。
焼き尽くされたはずの柚乃が俺を見て、表情のない顔で何かを言った。
あぁ。
また目が覚めてしまう。
見たことのない部屋だった。
一面の白。
示し合わせかのような白い花瓶に、唯一の紅が咲いている。
病室。
独りでに脳裏に浮かんだ言葉が眼前の光景と結ぶ付いていく。ここは病室なのか。
「灯利?」
誰かが俺を呼んでいる。
誰だろう。
声がした方に目を向けたら、見慣れた顔が少しだけ老け込んでいた。
「母さん?」
「あぁ、灯利! 灯利……!」
母さんが泣いている。
何があったんだろう。
俺はどうしたんだろう。
頭が痛い。何かが遠ざかっていく。ダメだ。手繰り寄せなきゃ。
だけど、届かなかった。
掴んだはずのそれは、指の間から抜けていく。
否。
手の平をすり抜け、ここではないどこかへ消えた。
薄れゆく蛾の姿だけが、脳裏に残される。
「お母さん、大丈夫ですよ、お母さん」
聞き覚えのあるような、ないような声が聞こえた。
顔を上げる。
病室には夕日が差し込んでいた。先ほどはなかったはずの朱色。
「灯利さん、僕が見えますか」
声の主が言った。
顔がぼんやりとしている。いや、違うな。俺の視界そのものがぼやけていた。
「あの、俺って眼鏡とか、かけてましたっけ」
「いいえ。よく見えないのなら、恐らく目やにでしょう。ずっと寝ていたんですから」
声の主とは違う誰かの手が伸びてきて、布か何か柔らかいもので目元を拭っていった。それで視界が晴れ、椅子か何かに座っている声の主やその隣に立つ人物も見えてくる。
医者と看護師。
そんなイメージが脳裏に浮かんで、それはまず間違いないのだろうと理性も頷く。看護師さんは美人だった。こんな人に目元を拭ってもらったのかと少し顔が熱くなる。医者の方は、平凡だが平凡ゆえに整った顔立ち。
耳に残る声は優しく、その声とよく重なる顔をしていた。眼鏡もかけている。四角くシャープなやつだ。
「灯利さん、今度は見えますか」
「えぇ」
「では、幾つか質問をしましょう。あなたの名前は?」
名前?
俺の?
「灯利じゃ、ないんですか」
灯火のトモシに利き手のキキ、それでアカリ。
何度となく口にしてきた名乗りだ。ただアカリとだけ言っても、絶対に漢字までは伝わらなかった。
「それだけですか?」
「それ以外にどんな名前が……あぁいや、すみません、そうでした」
うっかり失念していた。
「明石です、明石灯利。明石市の明石ですよ、あの誰でも知ってる明石市です」
「えぇ、明るい石と書く……明石大橋とかと同じ字ですよね」
「そうです」
頷くと、医者も頷いてくれた。
そして改まった調子で口を開く。
「それでは、明石灯利さん」
俺は何を言われるんだろう。
まさか余命宣告とか? 起きたばかりなのに?
ていうか、俺はなんで病室なんかで寝ていたんだろう。事故? 事件?
まぁ、いいか。
どうせ待っていれば教えてくれる。
「ミラージュバグという言葉を聞いた覚えはありませんか?」
「ミラージュ、バグ?」
なんだったかな。
覚えている。確かに覚えているんだが……あれ、なんだっけ。
「すみません、覚えていた気がしたんですけど、勘違いでした」
「いいや、気にしなくていいですよ。そういう病気ですからね」
病気?
と、心中で首を傾げたのが表情に出ていたのだろう。
「そう、病気なんです。灯利さんは蛾を見たことはありますか」
「そりゃまぁ、ありますけど」
「失敬。ただの蛾じゃなくて、幻みたいな蛾なんです」
「幻みたいな……?」
幻。
単純な言葉すぎて、定義まで気にしたことはなかった。
だけど、どんなものかはすぐに思いつく。
「今、そこにいたようなやつですか?」
「そこ? そこって、ここですか? 病室?」
「え? えぇ、まぁ」
心底驚いたような顔をされると、俺の方が驚いてしまう。
「今、いましたよ。掴んだはずなのに掴めてなくて、指の間から抜けたんだと思ったら、手の平をすり抜けてたんです。妙なこともあるもんだと……先生? どうしたんです、先生」
かっと目を見開き、わなわなと口を震わせる医者の姿を見るのは初めてだった。
少し怖い。
ホラー的な恐怖ではなく、この人に治療を任せることになるのかという実際的な恐怖があった。
「それはすごいな」
「えっと?」
「あぁ失敬、失敬。それが恐らく、ミラージュバグと呼ばれるものの正体なんでしょうね」
「はぁ……?」
あなたは医者で、病気の専門家ではないのか。
言いたかったが、やめた。脳外科医に腹痛のことを聞いても仕方ない。専門外だったのだろう。
あれ、じゃあなんで専門外の医者に診られてるんだ、俺。
「えっと、先生はミラージュバグ……? とやらの専門家ではないんで?」
「とと、そうか、そこから話すべきでしたね」
医者は頬を赤くしていたが、それは恥ずかしいからというより、先ほどの驚きの余韻がまだ残っているからだろう。
「灯利さん、あなたは幻想中毒症という病気だったんです」
「幻想、中毒?」
幻想と言われて最初に浮かぶのは、中世ヨーロッパ風のRPG的世界観。
「まさかネトゲにハマってぶっ倒れるまでのめり込んだとか?」
思わず口走ると、医者も思わずといった具合に笑ってしまっていた。
「いやいや、そういうことじゃないですよ。まだ謎の多い病気でしてね、原因はよく分かっていないんですけど、灯利さんみたいな年頃の青少年が突然目を覚まさなくなることが増えてるんです。そして目を覚ました人は口々に言う。手を伸ばしたら蛾が消えた、って」
青少年……、若者の昏睡。
手を伸ばしたら消える蛾。
なんというか、よく分からない話だな。
「よく分からない話ですね」
思ったことをそのまま言うと、医者もその通りなんですと鷹揚に頷く。
「そこから取って蜃気楼の蛾、ミラージュバグと呼ばれています。ひとまずこの蛾が原因だとされてきましたけど、今の灯利さんの話を聞く限り、その蛾は消えているんじゃなくて、身体の中に入り込んでいるのかもしれませんね」
手を伸ばしたら消えたと言う患者たち。
対して俺は今、手からすり抜けていく蛾を見た。
なるほど、合わせて考えるとそうなるのかもしれない。消えたのではなく、手の中に入った。そして出ていったから、症状もなくなる。
「……で、どんな病気なんです? 原因とかはともかく、症状は」
俺は専門家じゃないし、専門家を志してもいない。
いきなり病室で目を覚まし、わけも分からないまま原因の究明をする気にはなれなかった。
「幻想中毒症は、その名の通り、幻想にのめり込んでしまうらしいんです」
「つまりネトゲに?」
「灯利さんの中で幻想はネトゲとイコールなんですか?」
「まぁ、ファンタジー的なものの中毒と言われたら、まず浮かぶのはネトゲかと」
ナントカファンタジーなんて数え切れないほどあるんじゃなかろうか。
「でも違うんです。あるいは、もっと良質なファンタジーとでも言いましょうか」
「端的にお願いします」
「理想の夢の中に生きられるんです」
……はい?
理想の夢?
「えっと、すみません」
「灯利さんがどんな夢を見ていたのかは聞きません。プライバシーの問題がありますから。しかし、研究に協力してくださった患者は口を揃えて言いました。そこは理想的な世界だった、と」
幻想、理想、夢の世界。
頭が痛くなってくる。
思考に降りかかる霧を押しのけながら、どうにか医者の声に耳を傾けた。
「大勢の異性に好意を寄せられる夢、ミュージシャンになったり俳優になったりする夢、世界的名門校に飛び級で入学する夢。それから勿論、ファンタジー的な世界で剣や魔法を武器にモンスターと戦う夢なんかもあったそうですね」
夢、か。
青少年と言っていた。
若者の中でも学生に近い年代のことだとすれば、将来叶えたい『夢』とも合致する。
「俺は、そんな夢を見ていたと」
「そうです」
「それは、でも――」
聞いてしまっていいものか、一瞬分からなくなった。
けれど聞かずにはいられない。
仮に聞かなくても、後から嫌でも知ることになるだろう。
「でも、それは昨日今日のことじゃ、ないんですよね」
目を覚まさなくなる……さっき、医者はそう言っていた。
「えぇ、はい」
「どれくらい」
声が詰まった。
頭が真っ白になって、知らず涙が零れた気がした。
「どれくらい、夢を見ていたんですか」
医者は笑った。
優しい、あまりに優しい、ヒビだらけの花瓶を決して割るまいとする、優しいだけの微笑だった。
「二年です」
「にッ……?」
「灯利さんは二年前、高校一年の七月に、幻想中毒症によるものと思しき昏睡状態に陥りました。今は六月です、二年後の六月なんです」
たった二年で何が変わる?
世界史を見てみろ。
教科書を見てみろ。
一体なにが変わるっていうんだ?
そう笑い飛ばしたくなる自分を見つけて、それこそ笑いそうになってしまった。
二年は一瞬で、なんの自覚もなく過ぎ去った。
そして目覚めてからの一ヶ月が、どれほど長かったか。
高校三年生になり、高校生最後の夏となるはずだったこの七月、俺はまた一年生の教室に向かう。
だというのに、なんの違和感もなかった。
当然だろう。
俺の中では、この一ヶ月間しか過ぎ去っていないのだから。
けれど世界は変わっていた。見慣れかけていた芸能人が姿を消し、また新しいお笑い芸人が猛プッシュされていて、教室の話題に上がっていたドラマは新シーズンを放送中だった。
まぁ幸い、世界というか国際情勢に目を向けると大きく変わったことは特にない。
超大国の大統領も国家主席も見覚えのある人物で、ニュースもなんだかどこかで見たことのあるようなことを繰り返し報じている。
そこは俺が生きてきた日本で、俺が生きてきた世界だった。
電車が停まる。
学校の最寄り駅で繰り広げられる光景も記憶にある通りだった。昨日と今日の区別が付かないように、二年前と今との区別は付かない。きっと二年前の今日と入れ替えたって何一つ不都合はないのだろう。
しかし、俺の足取りは記憶通りとはいかなかった。
二年の寝たきり生活は筋肉を衰えさせ、いくら若いといっても一ヶ月のリハビリでは限度がある。
それでも今日、ようやく学校に復帰できる運びとなった。
俺の記憶にないことからも分かる通り、幻想中毒症なる病はかなり新しいものらしい。これに対する対応で会社や何かの評判が上下することもあったとかで、俺はこの二年間、なんだか特殊な休学措置を取られていた。
そんな措置のお陰で、面倒な手続きなく晴れて学生生活に復帰できたわけである。
都合のいいことに休学した時期と同じような頃に復帰できたから、勉強についていけないということはない。
ただ、二年という月日は残酷だ。
二歳年下の同級生と机を並べるのは勿論、当時の同級生がまだ三年として在学している。
「まぁ、いいけどね」
昏睡から覚めた患者はまだ少なく、治験に参加すれば金銭的なメリットもある。
腫れ物扱いは目に余るけど、見方を変えれば我が物顔で闊歩できるというものだ。
「っと、俺はまた一番か」
記憶より長く感じられた通学路のせいで脳裏を支配していた益体もない考えを払い除け、昇降口で靴を履き替える。
明石灯利。
この名前で小学校の一年から高校の一年まで、ずっと出席番号の一番をもぎ取ってきた。二度目の高校一年でも変わらず一番らしい。
二年経ったにしては驚くほど変わらない廊下を抜け、やはり記憶と変わらぬ教室のドアを開ける。
さて、なんと言って入ろうか。
「お、来たな、寝坊助め!」
おはようでいいのかな、なんて思っていたせいで、すぐには反応できなかった。
「え? あれ? もしかして俺、スベった?」
「だからやめろって言ったじゃん。おひさー、灯利」
「いやいや、灯利は久しぶりじゃないから」
「あ、そっか」
「ん? でも起きたの六月って言ってなかった? 一ヶ月ぶりは久しぶりじゃね?」
「言われてみればそうだな」
「明石君、久しぶり~!」
「おいおい寝坊助、なーに突っ立ってんだよ」
なんだよ、これ。
なんなんだよ、これ。
分かっていた。
健二がいる、椋也がいる、美咲もいる。
みんな少しずつ背が伸びたり太ったり痩せたり、表情が大人びていたり。
しかしどれも、あまりに変わらない顔ぶれだった。
一瞬、ほんの一瞬、期待してしまった。
幻想中毒症なんて嘘で、何もかも嘘で、本当は二年の月日なんて流れていないんじゃないかって。
「って灯利? 大丈夫か? ……もしかして、迷惑だった?」
健二が不安げに言う。
そうだ、健二は気の回るやつだった。少しお節介なところがあって、それを迷惑がるやつもいたけど、お陰で丸くなった美咲みたいなやつもいる。
「んなわけ、ないだろ」
泣きそうになるのを堪えて、どうにか笑った。
七月だった。
全員の顔と名前を覚えて、なんとなくの関係性も固まってきて、夏休み前に滑り込むように開催される文化祭に向けて本格的な準備を始めた頃だった。
忘れるわけがない。
二年前の、でも一ヶ月前みたいな、昨日であってほしいあの日と変わらない、みんなの顔を見回していく。
「おい、まさか泣いてんのか?」
「はっ? 泣くわけ……泣くわけ、ねえだろうが!」
叫んで、笑って、恐らくは今日この日、この瞬間のためだけに待ってくれていたであろう元クラスメイトたちをもう一度だけ、もう一度だけ目に焼き付ける。
「……?」
健二、椋也、美咲。
最初はなんて読めばいいのか迷った杏と一、総一朗と修二郎のややこしエセ兄弟、あの四角い眼鏡の男は瓶底眼鏡だったタツトだろう。漢字までは覚えていなかった。他にも名字だけ、下の名前だけ覚えていたようなやつもいる。
それでも全員、あれはあいつだ、これはこいつだと記憶と結び付けられた。
クラス全員、三十四人。俺を入れて三十五人。誰一人欠けることなく集まったのは、これが高校のクラスだと考えると奇跡的なことなのかもしれない。
だけど、なのに、どうしてだろう。
「なぁ、健二」
「なんだよ、灯利」
改まって名前を呼んだのは奇妙に映ったのだろう。
お調子者の秋田が俺も俺もと表情だけでうるさく言うのには気付いていながら、しかし訊ねずにはいられなかった。
「誰か、足りなくないか」
しんと静まり返る教室。
あぁ、そうだ。
確信できた、できてしまった。
「やっぱり足りないよ。一人だけ足りない」
三十三人、いや三十二人がそれぞれ顔を見合わせる。
残された二人、健二と美咲が心配そうな顔で俺を見てきた。
「なに言ってんだよ、全員いるだろ?」
「ちょっと疲れてるんじゃない? リハビリ、終わってないんでしょ?」
おかしいな。
何か、しっくり来ないんだ。
「なぁ、リョウヤ」
へらへら笑って名前を呼べば、椋也は困ったように笑って返した。それだけだった。
「違うだろ、そうじゃないだろ、これじゃおかしいだろ……!」
叫びながら、何がおかしいのか自分でも分からなかった。
けれど叫ぶ声は、止まらなかった。止められなかった。
「だって、なぁ、おい、これじゃあさ」
これじゃあ、なんなんだろう?
考えてみたら、すぐに分かった。足りないよ、そうだろう?
「俺と、ケンジと、リョウヤと、ミサキじゃ、火力もヒールも足りないじゃん」
ピシリとヒビが入る。
三十四人のそれぞれの顔が凍りついて、上下に分かれた。
彼らが動いたわけじゃない。背景だった教室の壁が上下にズレて、下がる方に立っていた者がそのまま下がり、上がる方に立っていた者がそのまま上がった。
だが、俺だけが変わらぬ高さに立っている。
教室が割れる。
空が砕ける。
世界が、暗闇に閉ざされていく。