エピローグ・後
こんなに走ったのは何年ぶりだろう。
考えてみて、二年近く前にもこんな風に脇目も振らず全力で走った日があったことを思い出す。
姉さんは中学の頃から不登校で、そのうち部屋からもあまり出なくなった。
それで姉弟の関係が冷え込まないはずもなく、俺が中学に上がる頃には一つ屋根の下に暮らしていながら、顔を合わせることも滅多になくなっていたはずだ。
だから姉さんの昏睡を知らされ、しばらく前から世間で騒がれていた幻想中毒症なる奇病かもしれないと説明されても、すぐにその重大さを理解することはできなかった。
その時の俺は高校に上がったばかりで、家のことより学校の、それも狭い教室のことの方が重要に思えていた。
そんな当たり前にさえ感じられた思いに変化が起きたのは、いつだっただろう。
覚えていないということは、きっと一度に劇的な変化があったわけじゃない。
徐々に徐々に、例えるなら増水した川の水が堤防に染み込むように、ほんの少しずつ、それでいて確実に積もり積もった結果だ。
『また明日』
そう深く考えもせずに別れた、その明日が来なかったのを思い出した時、俺は走り出していた。
確か放課後のことだったと思う。
健二か椋也が茶化すように何か言ってきたのを覚えているけど、聞き間違えるはずのない二人の声を曖昧にしか聞き取れないくらい必死になっていたのだ。
滝のような汗を流す俺を待っていたのは、痩せ細り青白くなった姉さんだった。
死んでいるのかとさえ思ったほどだ。
それから月日が流れ、幻想中毒症の原因と思しき不可思議な蛾、ミラージュバグを人為的に取り込むことで夢の接続ができないかと仮説を聞かされ。
そして。
また、月日は流れた。
春と呼ぶには寒すぎないかと思った、四月の夕暮れ時。
しかし今、その寒さを思い出すことは叶わない。大した距離ではなかったはずなのに、駅までの全力疾走は随分と堪えた。体力的にもそうだけど、街中を全力疾走する制服姿に向けられる奇異の眼差しが予想以上だった。
けれど何より、今日という日を一瞬でも忘れたことへの後悔が胸を抉る。
改札口に行くには階段かエスカレーターを使う必要があって、エスカレーターに先客がいるのを見た時には階段を一段飛ばしで駆け上がっていた。
頼む……!
頼むから、間に合ってくれ!
息が切れていなければ、迸る思いのままに叫んでしまっていただろう。
いっそ叫んで、ジロジロと見られてしまった方が罪悪感も紛れたかもしれない。
でも叫べず、それが結果的には良かった。
膝に手を付きながら肩で息をし、顔だけを左右に動かして探した姿。
俺と同じ高校の制服を着たその姿を改札の向こう、ホームから上がってくる階段に見つけ、安堵の息がほっと零れた。
相手もすぐに俺を見つける。
汗だくで、しかも息を切らしていたからか、少し怪訝そう。
ただ次の瞬間には、らしくもなく前にいた人々を押しのけるようにしながら駆け出してきた。
改札を抜け、飛び込んでくる。
思わず抱き締めそうになって、すんでのところで我に返った。
「ちゃんと一人で来られたね」
肩に手を置き、笑いながら言ってやると、その人物はむっと眉間にシワを寄せた。
「私ももう大人なんだから」
姉さんは――。
今年で二十一になる新高校一年生は、そう胸を張って言うのだった。
あの日。
姉さんが幻想から目を覚まし、リハビリを重ねながら夏の終わりを待っていた病室で。
他ならぬ俺が言ったこと。
『一緒に頑張ろうよ、もう少しだけ』
それは不可能と知りながらの言葉だった。
放課後、いつか手を繋いで帰ったように、今度は二人でドーナツ屋に寄り道しようと。
あの日の俺は高校一年生で、姉さんは中学すら満足に通わないまま十九になろうとしていた。
二年足らずで高校に入学するのは体調的にも学力的にも厳しかったが、何よりの障害は精神面だっただろう。
夢の中で、微かに見た。
姉さんの夢に潜る中で俺が見た、そして俺が見たがゆえに姉さんも見た、二年遅れの高校一年生をやり直す光景。
あまりにリアルな感覚を今でも忘れられない。
夢の中の俺は健二たち同級生に迎えられたけど、姉さんには誰一人として待ってくれている同級生などいなかった。
そんな中に飛び込んで、毎日を当たり前に過ごす。
どう言葉を繕っても、不可能と無謀以外の結論を導くことはできなかった。
それでも俺は頑張ろうと囁き、姉さんは頑張ってきた。
その結果が、今ここにある。
まだ四月も初旬、寒さのせいで人影も疎らな駅からの短い通学路。
俺と姉さんは並んで歩きながら、互いの状況は少し違っていた。
俺にとって、今はあくまで放課後に過ぎない。一日の学校生活を終え、あとは家に帰るなりバイトに行くなり、あるいは友人や恋人と寄り道するだけの時間。
しかし姉さんにとって、今は放課後ではなかった。
姉さんは今年、俺と同じ高校に入学した。
ただし全日制ではなく、定時制に。
危惧していた通り、体力的にも精神的にも全日制は無理だった。医者が……俺の主治医でもあった加賀美先生がそれだけは絶対に不可能だと断言し、何があっても止めざるを得ないと厳しい言葉を選ぶ程度には無理だった。
ただまぁ、分かっていたことではある。
そりゃ無理だろう。
だけど姉さんは少なからずショックを受け、それでも最後には笑って言った。
『灯利の嘘つき』
その一言にはありとあらゆる、どんな言葉でも足りない想いが込められていたのだろう。
だから俺も、笑って返した。
『姉さんは十やれって言われても、九か八しかできない人だから』
無理を言う。
姉さんならできると口では言い、実際には不可能を突き付けるだろう。
何度でも。あるいは、いつだって。
そうと知りながら何度でも騙されて、いつだって頑張ってきた。姉さんは、そうして今ここにいる。
「今日、ちょっと寒くなかった?」
そんなことは微塵も思っていないのに、隣を歩く三歳年上の後輩に笑ってみる。
「ちょっとじゃない。すごく寒い」
「コート、仕舞わなきゃよかった」
「もう春なのにね。まだ冬みたい」
空を見上げながら白い息を零す姉さんの横顔には、やはり言葉では言い表せない、あまりに多くの感情が覗いていた。
もう二十一になる。
なのに、まだ高校一年生。
それが俺の姉、明石柚乃の現状だった。
数えてみれば五年もの遅れがあるわけで、その空白は頑張ったからといって埋められるものではない。それは一生背負い続ける五年だ。
けれど今、姉さんはここにいる。
俺と並んで、通学路を歩んでいる。
それでいい。
他の誰かはそれ以上を望めたかもしれない。
姉さん自身も、どこかで何かが違っていたらもっと高い今を手にできたかもしれない。
でも、今はここにある。ここにしかない。
「姉さん」
今となっては慣れた一言を、けれど絞り出すには時間がかかった。
姉さんも何か言おうとしては失敗し、ついぞ言葉は見つけられないまま無言で頷く。
眼前には校門があって、まだ校舎に残っていた全日制の生徒たちが出てくるところだった。ほとんどは制服姿で、そうでない者も学校指定か部活のジャージを着ている。
「入学、おめでとう」
それだけが全てではない。
きっと苦労もある。
いや、ないはずがなかった。俺には想像もできない、経験したこともない苦労が待っている。今でさえ、何か珍しいものを見る目を向けながら誰もかもが通り過ぎていく。
そもそも定時制の生徒に、制服の着用義務はない。
にもかかわらず、姉さんは今日という日に制服を選んだ。
男女の違いはあっても、同じ制服を着て俺の隣に立ちたいと言って。
「ねぇ、灯利」
震えを抑え込もうとして、できていない声だった。
「私、頑張ったよ」
「知ってる」
「逃げなかったよ」
「知ってる」
「無理じゃ、なかったよ」
「……知ってるよ」
頷き、震えてしまう声で言った。
「けど、知ってたとは言えない」
笑おうとして、失敗したのを自覚する。
「姉さんはさ、やっぱりすごいよ」
× × ×
空はとっくに暗くなっていた。
中で待っててもいいんですよ、と何度か声をかけてくれた警備員がチラチラと視線を向けてくる。
けれど、こうして夜空を見上げながら待っていたかった。
遠くで小さな足音が聞こえる。
ふと目を向ければ、警備員の前でこちらを指差している姿が見えた。
「あぁ、ごめん、こっちこっち」
言うと、警備員も得心した顔で礼をする。
大変な仕事だ。自身の半分も生きていない相手に、ただ警備員という立場だけを理由に頭を下げなければいけない。まぁ、大抵の職業はそんなもんか。それが仕事と言われたら、そうなのだろうと納得するしかない。
考えていたところへ、たったと軽やかな足音が近付いてきた。
「よっ、パシり野郎め」
「悪いな、手間かけさせた」
悪戯っぽく笑いかけてきた相手に視線で詫びる。
「ま、いいってことよ」
相手は恩着せがましく笑って、手に持っていた紙の箱を少し持ち上げてみせた。
「灯利の奢りって話だったしね」
「そりゃな。杏の欲しいの、残ってたか?」
「ラス一だった」
言うと、杏は俺の隣に腰を下ろした。
そこは本校舎前に設けられたベンチで、屋根どころか風除けも何もない。
春といっても四月初旬の、しかも日が落ちた後では風も涼しいを通り越して寒かった。
「頼んでおいてこんなこと言うのもなんだけど、帰っていいんだぞ」
「つれないね」
「風邪引かせたら悪い」
「同じことをお姉さんも思ってるだろうよ」
思わず真横を見てしまう。
ニシシ、と悪戯に成功した子供の笑顔を見つけた。
「こんなこと言ったらお前は疑うんだろうけど、ウチもお姉さんには認めてもらいたいって思ってるんだよ」
疑いはしない。
そう言おうと思ったのに、言えない理由はないはずだったのに、声が出てくれなかった。
杏とは、一年の冬からの付き合いになる。
付き合いというのはあれだ、男女の付き合いだ。通院と見舞いで病院に入り浸っていた夏休みの俺が聞けば、笑えない冗談だと一蹴したはずだ。
しかし交際は一年以上も続いていた。
問題がなかったとは言わないが、なんだかんだでこの先も続いていきそうだ。
その一番の要因が、杏の良くも悪くも適当なところなんだろう。
「けどまぁ、それにしたって女に買ってこさせるのが姉への貢ぎ物とはね」
責める口調で杏は言った。
「貢ぎ物じゃない」
そこじゃないだろ、とツッコミを入れるような性格じゃないのは知っていた。
「じゃあなんなん? ご褒美? それって餌付け?」
「ご褒美くらいあってもいいだろ。普通、二十一で高校通う気になれるか?」
「普通は大学通うか社会出てるかって歳だからね。その気になるも何もない」
そう、それが普通。当たり前。
だけど、だからこそ、そうじゃない姉さんのような人々には風当たりが強い。普通じゃない、なんて表現は優しい方だ。当たり前のこともできない、可哀想な人たち。……その言葉は、あまりに強く鋭く、それゆえに大切な何かを深く傷付ける。
「でも、事実でしょ?」
俺の心中を察して、杏が笑った。なんの他意もない、無邪気な笑み。
「高三の弟にこんなことさせる姉がいるかね? 受験生だよ、君。風邪引くからって一家総出で過保護するのが、むしろ普通じゃない?」
「過保護が普通かはともかく、まぁそうなんだろうな」
姉さんが普通と違うのは、否定できない事実だ。
けれど、それだけだ。
「灯利は覚えてる? 最初にウチに声かけてきた理由」
「忘れるわけがない」
「そりゃそうだ。もし忘れてたら別れてるから。いやほんとに」
くすくす笑いながら怖いことを言う。
まぁ、それだけのことをしたのが俺だ。
杏に声をかけたのは高一の夏休みが終わって間もない頃。高校生活三人目の彼氏と別れたと噂が流れ、朝の教室で見かけた姿からして事実なのだろうと察した、その放課後だった。
『ちょっと付き合ってくれないか』
まるで週末の買い物に誘うような、そして事実、本当にその程度の誘いだった。
幻想から目を覚ました姉さんが、あまりに俺に依存しそうだったから。
否、依存してしまっていたから。
俺に弟の役目を求めるのは構わないが、男の役目を求められても困る。夢の中で俺は柚乃とユノに恋情めいたものを抱いてはいたけど、現実の俺が姉さんに情欲を抱くことはない。
そうは言っても精神的に不安定だった姉さんをただ突き放すわけにもいかず、選んだのが逃げの一手だった。
見舞いの頻度を減らすための言い訳に、ついでに姉さんのことを夢の中同様の異性としては認識していないことを暗に告げるため、杏を頼った。
姉さんに見抜かれないような嘘をつく自信がなかったから、ギリギリ嘘ではない範囲で言い訳に使わせてほしい、と。
幸い、治験のバイトという名目で得た、口止め料もとい給料は振り込まれていた。
「言っとくけど、灯利のことはちゃんと好きだよ?」
そう悪戯っぽく笑う杏は少し早口だった。
「知ってる」
「はずい奴だな」
「俺もちゃんと好きだ」
「やめろキモい」
「お前から言い出したんだろ」
慣れたリズムで言い合って、どちらからともなく吐息を零した。
少し離れたところにある職員室の窓から漏れた明かりに照らされて、二つの息が白く可視化される。
その形までそっくりで、キモいという杏の言葉が脳裏をよぎった。
「ウチのせいじゃない。お前が真似たんだ」
「いきなりどうした」
笑いつつ、出来心で手を伸ばした。
一年の頃から全然背が伸びていない杏は、頭を撫でられると嫌そうな顔をする。
「やめろ」
「嫌だ」
「人の嫌がることはしちゃいけないんだぞ」
「杏のそういう顔は少し……うん、割と好きなんだ」
言ってから、顔が熱くなるのを感じた。
「そんな顔するなら言うなよ」
杏はまた早口になった。
しばし沈黙が漂う。
こういう沈黙は嫌いではなかった。きっと一時間でも二時間でも耐えられる。というか実際、一晩ではないにせよ朝が来るまで二人して何も言わずに過ごしたこともあった。
だけど今は、なんでもいいから話していたかった。
思い浮かぶことならなんでも、話しておきたい、話しておかなくちゃいけないことに思えた。
同じように、彼女も思ってくれたのだろう。
「灯利の適当なところが楽だった」
自嘲する声に、同じ笑いを重ねてしまう。
「ウチのやりたいようにさせてくれるところ。優しいんじゃなくて、そこまでの興味も執着もないところ」
それくらいは必要経費だと割り切っていた。
割り切っていただけのつもりだった。
「けど灯利は、ウチが走ったら後ついてきてくれるだろ?」
「駆け足くらいでな」
「それは嫌味か? お前が走ったって駆け足で追いつくぜって嫌味か?」
「はいはい、恥ずかしがらない恥ずかしがらない」
頭を撫でる。
反撃にぎゅっと詰め寄られ、思わず背中が仰け反った。負けだ。杏が誇らしげに鼻を鳴らす。
遠くで、警備員が何も見ていない顔で遠くを見やっていた。
「想像だけど、お前はお姉さんが走っていったら、走って追いかけるだろ?」
「走るだろうなぁ。咄嗟に」
「それがウチは嫌なんだよな」
笑う声は、どこか軽やかだった。
「あ、嫉妬するって意味じゃなくてな?」
「分かってるよ」
「ウチは走って追いかけられるのは嫌だ。そんなに求められても困る」
「俺も別に姉さんを求めてるわけじゃないけど」
「うっさいシスコン」
俺、最近シスコン呼ばわりされすぎじゃないか?
いや、気のせいか。
最近どころか一年以上前から飽きるほど言われてきていた。
「灯利の適当なとこ、今は好きだよ」
面と向かって言われると、顔が熱くなるなんてもんじゃない。
「適当なつもりは、ないんだけど」
「真剣なくせして駆け足しかしないお前が好きだって言ってんだ」
随分とひねくれた女だと思う。
けどまぁ、そういう距離感を心地よく感じるのは俺も同じだ。
「だから、それをお姉さんにも理解してもらいたい」
「そこなんだよなぁ」
「あれはなんかこう、ウチがお前の全部を欲しがってるみたいに思ってる」
「そもそも俺の全部は姉さんのものじゃないんだけどな」
「あれはブラコンだからな」
「あれじゃねえ、姉さんだ」
「ブラコンは否定しないのか」
「できるか?」
二人して乾いた笑いを零す。
白い息が伸びて、流され、消えていった。
遠く喧騒が聞こえる。
勢いよくドアの開く音が鳴って、ぞろぞろと足音ばかりが重なった。よく知る放課後には声も溢れているから、こうして足音ばかりが連なる光景には少し不気味なものを感じてしまう。
「あ、いた」
あまりジロジロ見てもな、と視線を逸らした俺と違って、杏はずっと唯一の見知った顔を探していたらしい。
「お姉さん、目立ってるな。一人だけ制服だ。他にも何人かいると思ったのに」
「制服、高いからな」
「なーる」
その言い方、中学くらいの頃に流行ったな。
上っ面をなぞるように過ぎ去った思い出の中にも懐かしさが存在していたことに、なんだか感慨を覚えてしまう。
「おい灯利」
「ん、なんだ?」
「向こう見ろ、お姉さん手ぇ振ってるぞ」
「はぁ?」
反射的に振り返って、愕然とする。
近くを歩いていたと思しき少し強面のジャージ女がぎょっとした表情で距離を取りつつ、触らぬ神に祟りなしとばかりに早足で駐輪場の方へ行った。正直定時制ってことで心配していたんだけど、幸か不幸か杞憂に終わるかもしれない。
ともあれ無視するわけにもいかず、控えめに手を振って返す。
と、隣でブンブンと手を振っているのが音と風で分かった。姉さんが顔を顰める。ちょこちょこと小動物めいた足取りで駆け寄ってきて、じろじろと無遠慮な目で杏を眺めてみせた。
「なんで別れてないの?」
「お義姉さん、約束のドーナツですよ」
「あんたとは約束してない。灯利とだけ約束したの」
「え、でも灯利から頼まれたんですよ?」
「あっそ。じゃあもう用済み。帰って」
「え、でも」
「帰れ」
「お義姉さん、約束のドーナツですよ」
「灯利……!」
心霊現象に遭遇したがごとき涙目で迫ってくる実の姉に、なんと返せばいいのだろう。
正解は分かっていただけに、しばし悩んでしまった。
ため息を零す。
杏の頭を優しく撫で、視線だけは姉さんから外さずに微笑を作った。
「あんまり姉さんをいじめないでやってくれ」
「灯利はその子に甘い!」
「やーいシスコン」
それで途端に上機嫌になる姉さん。
それを横目で見た杏はニヤニヤと含みのある眼差しを俺に向け、しかし俺が何か言うより早くずっと手にしていた紙の箱を開け始めた。
「さてお義姉さん、お好きなのをどうぞ」
「あっ灯利は? 灯利はどれが食べたい?」
選択肢がないのは知っている。
箱を覗けば、一つは杏が好きなやつで、一つは姉さんが好きだと伝えておいたやつで、残る一つは一番安いやつだった。数十円を懐に入れて喜ぶとか小学生のお遣いかよ……。
「じゃ、これで」
一番安いやつを取りながら、ちょうど思い立ったような口振りで言ってみる。
「ちょっと行儀悪いけど、食べながら帰ろうか」
杏が声なく笑い、姉さんは嬉しそうに声を上げた。
「ところでお義姉さん、次の週末なんですけど」
「私と灯利は予定があります」
「そう、その予定にウチもお邪魔することになりまして」
「えっ? ようやく邪魔だって気付いてくれたの?」
「……灯利、助けて」
我関せずと空を見上げれば、薄っすらと星々が瞬いていた。
星々は周りの明かりに覆い隠され、満天の星空とは言えない。
けれど確かに、そこで輝く。
夜はまだ寒いけど、少しずつ暖かくなっていくのだろう。
春は、ようやく始まったばかりだ。