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一話

 ミサキがやられた。

 構えていた大盾ごと、ドラゴンの巨大な顎門あぎとに両断された。

 鎧がひしゃげ、骨が砕ける音まで鮮明に鳴り響く。

「うあぁぁあああァ!!」

 叫び声。

 駆け出す、乱れきった足音。

「ケンジ! ダメだ、戻れッ!」

 声は届かなかった。

 鞭のごとく振り回された太く硬質な尾がケンジの横っ腹を捉え、ゴミか何かのように蹴散らす。

 直後、迸る鮮血の下を走り抜けていたリョウヤの頭上に影が落ちた。

 神殿を支える白亜の柱みたいなドラゴンの前足が、リョウヤの立っていた大地に突き立つ。

 一瞬だった。

 こんなの戦いにもなっていない。

「逃げなきゃ……」

 我知らず呟き、はっとした。

 ダメだ。逃げてもどうにもならない。立ち向かわなくちゃ。

 でも、どうやって?

 負ける。どう足掻いたって勝てない。死ぬ。俺は死ぬ。

 あぁ、くそ、それで済むなら、それだけで済むなら本望だ。

「逃げろ、ユノ!」

 ミサキの死に激昂しなかった俺たち賢明だったのか? 薄情だったのか?

 どっちでもいい。

 最早、悩むなんて贅沢さえ許されなかった。

「アカリっ? 何言って――」

「いいから! 早くっ! 俺が時間を稼ぐから……ッ!」

 剣の柄を強く握る。

 怖い、怖いよ。怖くないわけがない。だけど、やるって決めた。決めなくたって、やらなくちゃやられる。俺だけじゃない。ユノも一緒に。

 だから。

「早く! 逃げろッ!」

 叫んで、躍り出た。

 ドラゴンの大きな瞳孔が縦に引き絞られ、あぁ俺を、俺だけを見据えたんだと悟る。

 もう幾許も残されてはいない。くそ。別れの言葉くらい、言っておけばよかった。

「うおおオォォゥ!」

 鼓舞する叫びとともに、剣を振り上げる。

 眼前には既に、紅が広がっていた。視界を焼く、次の瞬間には俺自身をも焼く炎。死ぬ。分かっていた。だけど、ユノだけは。

「ダメっ!」

 懐かしい声が聞こえた気がした。

 そんなはずはないのに。

 一瞬で俺を焼くはずだった炎が、俺の真横を通り過ぎていく。

 否。

 ドラゴンに向かっていたはずの俺の全身が何かに弾かれ、大きく横に流れていた。

 気付くと同時、目を向ける。

「逃げちゃいけない。逃げたって、何も解決しないんだよ……!」

 ユノが泣いていたのか笑っていたのか、それさえ確かめる術はなかった。

 炎が過ぎ去る。

 後には、何も残らなかった。

「嘘だろ……?」

 呆然、ただ立ち尽くす。

「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ、嘘だって言ってくれよ――!」



「あああああッ……」

 暑い。

 それで目が覚めた。

 目が、覚めた?

 夢?

 何が?

 ドラゴン。違う。そんなの夢だ。あぁいや、だから合っているのか。

 ドラゴンと戦う夢?

 なんだそれ。

「ていうか、暑いよ。なんでこんなに……」

 まだ七月だよな、と無意識のまま見やった枕元に、八時の五分前を指し示す時計を見つけた。

「灯利! ねぇ、灯利! そんな大声出してどうしたの? 早くしないと遅刻するわよ!」

 ドアの向こうからの聞き飽きた大声に、かろうじて残されていた、昨日の午後の七時五十五分だという希望も打ち砕かれた。

 嘘だと言ってくれよ。

 いつも乗っている電車はもうとっくに出ていた。完全に寝坊したのだ。

 遅刻しないためには、八時十分に出る電車に乗らないといけない。あと十五分。全力で急げば間に合う、かもしれない。

 急いで鞄を手に取って、いやその前に着替えだったか、いやいや待て、まずは歯磨きだと混乱した頭に鞭を打ちながら部屋を出る。リビングからは味噌汁と目玉焼きの匂いが漂ってきていた。でも食べている時間はない。

「母さんごめん、すぐ出るからご飯は――」

「あんた、そんな汗だくで学校行く気? シャワーくらい浴びてきなさいよ」

 リビングから顔だけ出した母さんの呆れ顔に、ようやく目が覚めた理由を思い出す。

 そうだ、まだ七月だってのに朝の八時ともなると結構暑い。

 それでドラゴンの炎に焼かれそうになる夢なんか見たのか。しかも美咲みさき健二けんじ椋也りょうやが友情出演ついでに死んでいた。南無三。いっそリアルでも死んでくれれば……っていうのは、不謹慎が過ぎるか。

 別に、そこまで嫌いなわけじゃない。

 ちょっと目障りっていうか、声がうるさいっていうか。教室はクラス全員のもので、どこかの誰かが占有していいものではない。あいつらは好き勝手しすぎだ。

 そう面と向かって言う勇気もないから、夢の中で殺すに留めたんだろうけど。

「けど、……まで殺すことないだろ」

 シャワーを浴びながら、ぶくぶくと言葉にならない声を零す。

 美咲が死んで、それに激昂した健二が死んで、裏をかこうとした椋也まであっさり死んだ。

 俺は最後、彼女のヒーローになろうとしたんだろう。

 だけど叶わなかった。

 何かの暗示か?

 まさか。

 もう高校生だ。学校にテロリストが乗り込んでくる妄想は、中学に置いてきた。

「あーかーりー? そんなゆっくりしてる時間あるのー?」

 シャワーの音の向こうから聞こえた声に、はっと我に返る。

「まっず……!」

 急がないと電車に乗り遅れる。

 電車に乗り遅れたら、そのまま遅刻まで確定だ。中学までと違って、どんなに足を酷使しても乗る電車によって遅刻が決まってしまうのが高校の悪いところだった。

 逆に少し早起きすれば、ただ座っているだけで学校のすぐ近くまで行けるんだから楽なんだけど。

 とまれ、かくまれ。

 シャワーに時間を費やした俺は、駅まで炎天下を走る羽目になった。



 それで結局、今日一日は不愉快に過ぎ去った。

 左手の窓の向こうには、もう夕焼けが広がっている。

 俺は手元に文庫本を広げ、半分読みながら、もう半分で教室の喧騒に耳を傾けていた。

「だからさぁ、マジなんだって。もうマジでさぁ」

「え~? なにそれ~」

「や、だからマジなんだって」

 美咲や健二のグループが何事か話し込んでいる。

 毎度のことだが、何を喋っているのかさっぱり分からない。あれは日本語なのか? それともマジ語とかヤバ語的な、なんかそういう専門的な言語だったりしないのか?

 とことん理解不能で、なんだったら理解する価値もない会話。

 しかし、それが不意に意味ある会話へと変貌した。

「ねぇねぇ、聞いた?」

 その声を聞いた瞬間、ぱっと思考がクリアになる。

「あれ、柚乃じゃん。どこ行ってたん?」

「どこでもいいじゃん。それよりさ、聞いた?」

「や、だから何を?」

「噂だよ噂、あの噂!」

 柚乃ゆの

 明石柚乃。

 クラスのマドンナ。

 ……いや、本当のことを言うと『マドンナ』の意味はよく知らないんだけど、とにかくクラスのアイドル的な存在である。

 柚乃は可愛いのは勿論だけど、優しく明るく、誰にでも別け隔てなく接してくれる天使だった。

 別け隔てなさすぎて健二たちともよく話すが、それもまぁいい。不愉快なだけだった謎言語が彼女の参加によって福音にさえなるほどだった。

 ぺらりと読んでもいないページをめくって、柚乃の声に耳を傾けながらも視線はふと窓に向かう。

 夕焼け。

 放課後の教室から眺めるそれは、意外なほどに胸打つ光景だった。

 ただ校門や駅の混雑を避けるために居残る教室で、こうも綺麗な景色が見られるのは幸運と言う他ないだろう。

「ね、灯利あかり君」

「ひょっ」

「何なに、急に。そんな面白い声出しちゃって」

 くすくす悪戯っぽく笑う声に信じられない思いで目を向けるも、聞き間違いだったはずもない。果たして柚乃が俺の席のすぐ隣に立っていた。

「えっ、やっ、どうしたんすか、柚乃さん」

「なんで敬語?」

「え? あ、いや、これはなんていうか、驚いたっていうか」

「『ひょっ』みたいな声出てたもんね」

 かあぁと顔が熱くなる。

 俺、なんで俺、そんな声出しちゃったんだろ。みっともないにも程がある。

「てて、ていうか、ええと、あれ、健二たちは?」

「さっき帰ったよ? みんなでカラオケ行くんだって」

 へぇ、そうなんだ、全く興味ないけど。

「灯利君ってさ、ほんと周りの話聞いてないよね」

 言われ、ぎょっとする。

 違うか。聞き耳立ててたのがバレたわけじゃないんだから、ぎょっとはしなくていい。むしろ安堵すべきところだ。

「え、いやまぁ、その、本読んでたから?」

「でも今、窓の方見てたよ?」

「あっ……」

 まさか夕焼けが綺麗だったとか、そんなキザなことは言えない。

 どう誤魔化したものかと考えを巡らせていたら、柚乃はまたくすりと無邪気に笑った。

「でも分かるな、すごく綺麗だもんね」

 君の横顔の方が綺麗だ。

 思わず声に出しそうになった自分を精神的にタコ殴りにしつつも、横顔に向く意識を逸らすことはできなかった。

 柚乃は髪が長い。

 といってもアニメみたいに腰まで伸びているとかじゃなくて、背中の上の方、肩甲骨の辺りまで伸ばしていた。染めてないから黒髪だけど、色素が薄いのか陽の光に当たるとオレンジがかる。それがまた綺麗だった。

 そして今、夕焼けに染まる空を眺めた彼女の横顔は、最早一枚の絵画にすらなりそうである。

 オレンジなんてベタついた色ではなく、朱か紅かに染まる髪。

 すっと線を引いたようなシャープな輪郭は、けれども柔和な丸みを帯びている。

 目は丸く、大きく、どこか小動物めいて見えるのは持ち前の好奇心を隠せていないからだろう。

「柚乃……」

「ん、なに?」

 その瞳が俺を見て、声も俺に投げかけられる。

 いつ死んでもいい。

 そう思わせられる一場面だけど、できることなら彼女を見送った後で死にたい。

「えっと、カラオケ行くんじゃなかったの?」

「え、私が? どうして?」

「……? さっき健二たちとみんなで行くとか言ってなかったっけ?」

「へ? あぁ違うよ、違う。みんなで行っちゃうから私が取り残されたって話」

 健二たちは馬鹿なのか?

 なんで主役たる柚乃を置いてカラオケなんて行くんだ?

 それは衣がないフライドチキン並みに無意味で無価値な集まりにならないか?

「灯利君、なんかちょっと馬鹿なこと考えてない?」

「まさか。人類史に残る芸術について考えていたんだよ」

「……? まぁいいや」

 うん、細かいことを気にされても困る。

 今の俺はなんていうか、自分で何を言っているのかも今一分かっていない状態なのだから。

 しかし、それならどうしたものだろう。柚乃がカラオケに行かないのは分かったけど、なんで教室に居残っているんだ。まさか校門や駅の混雑を避けるため?

「ええと、それで、なんの話だっけ」

 変なことは口走るまいと当たり障りのない言葉を吐きながら、意識は彼女の唇……に向きそうになるのを必死に堪えていた。まずい、ダメだ、それはちょっと洒落にならないレベルの変態だ。

「あぁそうそう、灯利君に話があったんだよ」

「話?」

「そ、さっき言ってた噂のことなんだけど……って、灯利君は聞いてないんだっけ」

「ごめんなさい?」

「いや、何を謝るのか分からない感じで謝られても困るから」

「やー、うん、本読んでてね」

「へぇ、そんなに面白い本だったんだ。って、違うから。今は噂の話だから!」

 話の腰折らないでよね、もう!

 そう口の先を尖らせてそっぽを向いてみせる柚乃は、なんだろう、やっぱり天使かな。実は俺、もう死んでいるのかもしれない。

「それでね、灯利君」

「なんでしょうか」

「なんで敬語?」

 まぁいいやと笑って、柚乃は遂に本題を切り出す。

「ミラージュバグって噂、聞いたことない?」

 ミラージュ、バグ。

 流れるように紡がれた言葉だけど、きっと切るのはそこで合っているはずだ。

「バグって、あの不具合的なやつのこと? ゲームとかの」

「まぁ合ってるっちゃ合ってる」

「間違ってるっちゃ間違ってる?」

「そう」

 柚乃は微笑し、ぴんと立てた人差し指を指揮棒か何かのように振っていた。

 なんだろう、懐かしい仕草だ。

「この話、知ってるかな。昔々、パソコンを作った偉い人がいました」

「パソコンを?」

「あれ、違ったかな? インターネット? 有名なソフト? まぁいいや」

 柚乃は笑っていた。

 話があまりに曖昧というか、なんの話をされているのかも分からなくなってきたんだけど、その笑顔だけで何もかも許せる気がした。

「まぁ昔のすごい人がパソコン作ったんだけど、それが動かなかったの。なんでだと思う?」

 結局パソコンってことになったのか。

 パソコンとインターネットとソフトでは全然違ってくる気もするけど、そこは話の流れから察しろということだろう。

「ええと、バグが起きた?」

「正解! なんとパソコンの中に蛾が入ってたから動かなかったんですね!」

「え、蛾? 蛾って、あの、蝶々みたいな?」

「そう、その蛾」

 ……全然正解した気がしないんだけど。

 いや、ていうか、何が正解だったの? バグと蛾って、一文字もかすってないじゃん。

「ちなみにバグっていうのは、虫のことね。誤作動を引き起こした蛾から取って、今でも予期せぬ動作のことをバグと呼ぶんですよ、灯利君。勉強になったかな?」

 えっへん、と胸を張ってみせる柚乃は可愛い。あと若干、ほんの若干だけど膨らみが主張していてエロい。

 ただそういう目で見るのは罪悪感があって、思わず目を逸らしてしまった。

「で、そのバグがどうしたの?」

 話はあまりに不明確で、どこまで信じていいものかは分からない。

 けれど一々突っ掛かっても話が進まないし、そういう細かいところを気にする男はモテないとも聞く。

 ひとまず俺が納得したのを見て取って、柚乃も満足そうに頷いてみせた。

「ミラージュは幻、特に蜃気楼のことね」

「蜃気楼ってあれだっけ、夏とかに出てくる陽炎? の仲間?」

「そ、遠くから見たら確かに見えるのに、近付いたら消えてなくなる幻のこと」

 つまり、ミラージュバグとは。

「最近、確かに目には見えるのに、触ろうとすると消えちゃう蛾がこの辺りに出てくるらしいの」

「それは……その、単に指の間をすり抜けてるんじゃなくて? 蚊とかって、潰したつもりでも平然と飛んでるし」

「ノン、ノン」

 ぴんと立てた人差し指、小刻みに揺れる人差し指。

 なんだろう、何かが引っ掛かっている気がするのに、思考の指を伸ばすと消える。

「……あぁ、なるほど」

「ん、どしたの?」

「いや、ちょっと納得しただけ」

 ミラージュバグ。

 遠くにいたら見えるのに、近付いて手を伸ばすと消えてしまう蛾。

 もしそんなものがいるとしたら不思議だ。幻想的とさえ言っていい。

「ねぇ、灯利君」

 夕焼けに染まる彼女は、優しく手を差し伸べて言う。

「よかったら、私と一緒に探さない? ミラージュバグ、幻の蛾をさ」

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