虐待を受けていた少女の幽霊と同居して甘やかしたら懐いてくれました。
ちょっと重めだったのでボツにしようかと思ったのですが、折角なので載せます。
社会人になって二年目。
いまだに仕事は慣れず、気苦労と勉強の毎日で心は荒んでいく一方だった。
アパートの部屋に帰ると疲れてすぐにベッドに横になってしまう。
そう、今の俺にとって眠りこそが最大の癒やしだった。
昔はゲームとかアニメこそが全てだったのに。
これが大人になることか。とちょっと恰好良いことを思って眠りにつく。
――だが。
「『みーちゃんいつもありがとう。応援してるね。今度素直な言葉を聞かせて欲しいかな……。なんてね。本当に好きだよ』わー、5万円のスパチャありがとうございますー。でもー、みーちゃんはみんなのみーちゃんだからーごめんね」
右隣の部屋からボイスチェンジャーでブイチューバーのふりをするおっさんの声が聞こえてきた。
左に寝転がり、少しでも声を遠ざける。
「ぼえー」
左隣からはジャイアンみたいな声の自称歌い手。
右も左も地獄だった。
対策として耳栓をしたが逆に耳栓が気になって眠れなくなった。
大家にも言ったが、自分でなんとかしてくれと言われ、騒音として警察も呼んだが民事不介入だそうだ。
そして、頻繁に来るN〇K。
「いや、テレビないんで」
「え、でも、にゃんちゅうの声聞こえてません?」
「いや、物まねです。『お"お"ん"!(激似)ミーの声だに"ゃ"あ"(激似)お"お"ん"!(葛藤)』
「よく見てますね。お支払いありがとうございます」
俺は決意した。
引っ越す、と。
※※※※※※
とはいえ、俺の貯金は少ない。なるべく安い場所がいい。最悪、風呂やトイレがなくてもいい。……本当はそんな牢獄みたいな部屋は嫌だが今の環境に比べればマシだ。
なにせ拷問を受けている状態なんだからな。
数少ない休日を使って部屋を探す毎日。
見つからず諦めかけていると。
『マンション。8LDK。家賃2万5000円。三階の最上階で角部屋。風呂トイレ別』
という物件をネットで見つけた。
東京23区内でありながら、この金額ははっきり言って異常だった。
確実に何かある部屋じゃん。
そう思って、不動産屋に聞くと。
「霊が出るんです」
思ったとおりの事故物件だった。
「あの部屋で数年前に虐待で死んだ女の子がいたんですが、今でも自分の部屋だと思っているらしく、部屋に住む相手を脅すんですよ」
「脅すって具体的には?」
「物が動いたり、窓が開いたり、犬の遠吠えとか」
「それだけ?」
「それだけです」
「夜中にお経が聞こえてくるとか?」
「それだと霊が成仏しちゃうじゃないですか」
確かに。セルフ除霊になっちゃうもんな。
「じゃあ、ピアノの音が聞こえてくるとか?」
「学校の怪談ってわけじゃないんで」
……ふむ。それなら。
「ポルターガイストくらいなら別に構わないんで。契約します」
許容範囲内だと思ってしまうところが既に病んでるのかもしれない。
即契約、即入居が決まった。
※※※※※※
俺は荷物を引っ越したばかりの部屋に置く。
目を閉じて耳を澄ましても遠くの車の音くらいしか聞こえない。
騒音はなし。
窓を開けて外を見る。
冷たい空気、立ち並ぶ墓石、お供え物を狙うカラス。
すぐ目の前が墓場かよ。
内見くらいすればよかった。
ま、過ぎたことを悔やんでも仕方ない。
部屋の片付けもそこそこに、早速俺は布団を敷いて横になる。
はぁ~~~~、うるさくないって最高!
しばらくぶりの安らかな睡眠だ!
誰にも邪魔されたくない!
目を閉じると、すぐに眠気が襲ってくる。
意識は闇に包まれて心地の良い眠りに誘われる。
※※※※※※
「ね」
「ね」
……。
「今度は大丈夫かな?」
「今度は大丈夫だといいけど」
……。
「くすくす。どれくらいかな?」
「今日かも。明日かも」
……。
「また逃げ出すかも――」
「そうかもね――」
……。
なんか寒気がする。おかしい。今は夏なのに。
「くすくす」
「くすくす」
心臓をわしづかみするような女の子の声の囁きが聞こえたが、
「うるさい」
寝ぼけまなこをこすりながら、はっきり告げる。
……ぶっちゃけ眠くて頭が働かない。
目の前の影がびくりと動いた気がした。
「怖がらないね?」
「うん、怖がらない」
……ああ、そっか。そういえば、まだ実家だった。ってことは妹だな。どうせ腹でも減ってるんだろう。
「ほら、これやるよ」
近くにあったうまい棒を渡す。
普段はうるさい妹だが、お菓子を食べるときだけは静かなのだ。
「次は邪魔するなよ」
そう言って、返事を聞く前に俺は再び目を閉じる。
「……これ何?」
「毒かな?」
「お菓子かも」
かさかさと袋を開ける音、そして、さくさくと咀嚼する音が聞こえてきた。
「ん!?」
テッテレーみたいな光のオーラを感じた。どうやら喜んでもらえたようだ。ちょろい妹だよ。
「美味しいね?」
「ね」
うわずった声と咀嚼音をBGMに、和やかな気分のまま俺は眠りへと落ちた。
……あれ? 妹の声ってこんなだっけ? そもそもなんで二人分の声が聞こえるんだ? 妹が分裂した?
疑問が頭の片隅に残ったまま。
※※※※※※
ちゅんちゅんという雀の声が窓の外から聞こえてきた。とてもすがすがしい朝だ。
徐々に意識が覚醒を始める。
目覚まし時計を見ようと目を開けようとした瞬間、頭上からふわりと冬の花のような冷たくて甘い匂いが鼻孔鼻孔をくすぐる。女子の気配というには冷たく、おぞましい幽霊の気配かといわれれば違和感を感じる。
不思議だが、命の危機みたいなのは感じない。
だからこそ、今まで熟睡できたのだろう。
そーっと目を開けると、見知らぬ長い黒髪の女の子が顔をキスが出来そうな距離で覗き込んでいた。
年はおそらく12、13くらいだろう。
異様に色白だが、整った顔立ちは俺に女子として意識させるのに十分だった。
「可愛い」
やべ、口に出してしまった。
「!?」
「あ、いや、違う。えっと、誰?」
ドキドキしながら問いかけるが。
「……ぼそぼそ」
声が小さくて聞こえない。
「なんだって?」
極力優しく問いかけたつもりだったが。
「!?」
逃げるように俺から離れると、部屋の隅にうずくまる。よほど怯えているらしく、体がぷるぷると震えている。
……一体誰なんだよ。でも、おかしいな。部屋の鍵はかけたはずだ。それなのに、部屋に入ってこれたということは。
俺の迷探偵としての灰色の脳細胞の出番だった。
――つまり、大家の娘さんだ!
ならば、仲良くなって損はない。
「よーしよし。ほら、怖くないよ?」
陰キャの俺には不釣り合いの精一杯の笑みを浮かべる。
「ニチャア」
「ひ……」
おかしい。目の奥に恐怖を宿して、更に体を縮めてしまったぞ。どうやら失敗したらしい。
途方に暮れていると、どこからともなくぬいぐるみが現れて彼女の胸に収まる。
ぬいぐるみがぎろりと睨んだ気がした。その瞬間、
「はぁ!?」
思わず目をこすって、これが現実の光景か確かめてしまった。
それほど奇妙なことが起こっていた。
――女の子の体が透け始めたのだ。
「え、え、ええぇ!?」
驚いている間にも体は透け続けて、やがて、消えてしまった。跡形もなく。
人間が出来ることじゃない。
……ってことは。
「あれが幽霊?」
まさか本当にいるなんて。
でも、不思議と恐怖は感じなかった。――むしろ。
※※※※※※
幽霊を認識してから俺の生活は一変した。
まずは部屋。いつの間にかリモコンが移動していたり、レコーダーに少女向けアニメが録画されているようになった。
……一度友達に見られてロリコン扱いされた。
その次に音。寝ていると少女の泣き声が聞こえてくる。
はっきりいって前の部屋のほうが騒音は酷かったから気にしないが。
そして、パソコン。これが一番厄介だった。
どうやら霊はパソコンの使い方を心得ているらしく、勝手に会社の資料をいじりまくっていた。
お陰で『最新資料』『最新資料(2)』『最新資料(2)最新版』『最新資料(2)こっちが本物』。
勝手に名前が変えられていた。
……家のパソコンにまで会社のデータを持ってきたのは俺の失態だったけど。
ちょっとしたいたずらで害はそこまでない。けど、この程度なら前の住民だって耐えられたはずだ。
俺が部屋から出て行くつもりがないとわかって、今後はいたずらが更に度が増してくる可能性はある。
最悪命の危険だってあるかも。
そう考えると、俺が出来ることは一つ。
俺は手にした大量のうまい棒をテーブルの上に置く。
この間のことが夢ではなかったとしたら、妹だと思っていた霊はお菓子が好きってことだ。
コミュニケーションが取れるのなら交渉もできる。
「おーい、いるか?」
霊に対して呼びかける。
当然、返答はない。
ま、親し気に『なーに?』と言われても困るけど。
「とりあえず、ここにお菓子置いておくからな」
最初は簡単な挨拶だけ。
焦らずに。慎重に。相手は化け物――。
とてとてと女の子が俺の前を横切った。
ん? え、出てきた?
「もぐもぐ」
そのままテーブルの上のうまい棒を無造作に掴んで食べ始めた。まるで普通の女の子みたいだ。
いやいや、警戒心皆無じゃん。どうなってんだよ。
長期戦を覚悟していただけに拍子抜けもいいところだ。
「えっと、美味しい?」
「……」
俺の問いかけに、女の子はきょとんと目を丸くした。
「……」
少女は無言で手に持ったぬいぐるみを突き出す。
「美味しい」
腹話術のようにぬいぐるみの後ろで女の子が喋る。
「ね?」
ぬいぐるみに向かって、女の子が頷いた。一人二役を演じてるようだ。そういえば、引っ越してきたばかりの頃も会話してたな。普通に喋ればよくない? と思うんだが。
……そういう繊細なところを突いて逆キレされたらどうしよう。
「あー、幽霊ってお菓子食べれるんだな?」
結局、俺の口から出てきたのは無難な言葉。
女の子は無視するようにひたすらうまい棒を頬張る。
「聞いてる?」
おいおい、ハムスターかよってくらい詰め込むなぁ。
「ああ、おい、口元にお菓子ついてるぞ」
ティッシュを手にして、女の子の口元に手を伸ばした。
「――!」
瞬間、女の子が怯えたように表情を硬くして身をすくめる。その目には恐怖が宿っていた。
この反応……殴られると勘違いした?
女の子の姿が徐々に消えていく。
まずい、誤解されたまま逃げられるのは困る。
「待った待った! 殴ろうとしたわけじゃないんだって!」
「……」
しまった。俺の大声に驚いて更に姿が薄くなっていく。
こうなったら!
「美味しいお菓子があるんだ! そうだ! コーラもあるぞ!」
更なる賄賂で引き留めるしかあるまい。
「……コーラ?」
お、どうやら興味を引いたみたいだ。色を取り戻すように再び浮き上がってきた。
「そう、コーラ」
冷蔵庫を開けてコーラを取り出す。実は俺のおやつだったが仕方ない。
「ほら、これ」
刺激しないようにコーラをテーブルに置いて下がる。
「……」
恐る恐るというようにコーラを口にする。
「!?!?!?!?」
炭酸に驚いて目を白黒させる女の子。幽霊でも驚くんだな。
「くくっ」
笑うつもりはなかったが、あまりにもほのぼのしてしまったため、つい口元が緩んでしまった。
「……むー」
不満そうに唇を尖らせる。その対応も悪霊らしくない。
「やべ! わ、悪かった」
慌てて謝るが、二度目はないというように女の子は消えてしまった。
やっちまったなぁ。
「……残ったお菓子あげるから許してくれ」
そういうと、また出てきて無言で食べ始める。
まるで懐かない猫みたいな仕草だ。
でも、コーラで驚くなんて。まるで初めて飲んだみたいなリアクションだな。
……うまい棒にすら驚いたところを考えると、実際初めて飲んだのかもしれない。お菓子をろくに与えられなかったということは、あまり恵まれた環境ではなかったみたいだ。
部屋に住んでいる幽霊。それくらいしか俺は知らなかった。
彼女の背景も知らずに懐柔しようとしていた。
本当に彼女が悪霊なのか知るべきだろう。
いや、違うな。俺が知りたいんだ。
それはきっと彼女の境遇に対しての同情と……可愛さから仲良くなりたいという下心があったからだろう。
※※※※※※
今の時代、ネットを使えばある程度のことは調べられる。
現住所、事故、ニュース。たったこれだけである程度のことがわかった。
俺は知らなかったが有名な事件だったらしい。
被害者や加害者の写真まで乗っていた。
深山あぐり。
享年十三歳。
……身体つきや態度から、もうちょっと年齢は下だと思った。
肝心な死因だが。若い未婚の母親の虐待による餓死だそうだ。どうやら、あぐりの育て方がわからず持て余しての犯行と裁判でわかっていた。
面倒を避けるために学校には病気だと偽り極力行かせず、部屋の中でパソコンやペットの犬と過ごしていたようだ。
そうか、だから、お菓子やコーラに驚いてたのか。
不覚にも目頭が熱くなった。
俺、こういう不幸な話に弱いんだよな。
彼女……あぐりの背景はわかった。
人が恋しいからいたずらをする。母を……もしくは愛情を求めているからこの部屋に固執する。
ただわからないこともある。
……前の住人を何人も追い出した悪霊というのは本当にあぐりのことか?
そこまで凶悪にはやはり思えない。
まだ知らないことがある気がする。
……ま、考えても仕方ないか。そんなことよりも食材が切れてきたからな。そろそろスーパーに買い物に行くか。
財布を手に部屋から出ようとすると、
「くいくい」
引っ張られる気配。振り向くと、そこにはあぐりが幽霊のように佇んでいた。いや、幽霊なんだけどさ。
「うわお! ……って、あぐりかよ。脅かすなって」
あぐりはきょとんとした顔で小首を傾げる。
「名前……?」
最初は抱きしめた犬のぬいぐるみが。
「知ってる。なんで?」
次は本人が。これが彼女の話しかけるルーティンみたいなものなのだろう。
「不思議」
「不思議だね」
「ああ、調べたからな。あ、もしかして嫌だったか?」
「……」
無表情で俯く。うーん、あぐりの感情が読み取れない。
でも、嫌だったわけではないらしく俺から離れようとしない。
もしかして。
「またお菓子が欲しい?」
「そうかも」
「そうだね」
心なしか声が弾んでいる。どうやらお菓子のおいしさに目覚めたようだ。
「それなら一緒に行くか?」
誘っておいてなんだけど、この部屋から出られるのか?
あぐりみたいな霊って地縛霊だろ。土地に縛られて……みたいな感じだと思っていたが。
「行く?」
「うん、行く」
ついてこれるんかい。この場合は憑くだけど。
「できれば人前で消えないでくれよ。他の人が見たらびっくりするから」
ひそひそとあぐりと人形が話し合う。
「疲れる」
「ね」
「チョコレートとか買ってやるから」
「「わかった」」
今、ハモった? 器用だな。
「お兄さんとの約束だ」
「約束だって」
「守らなきゃ、ね」
さすがに人前で消えられたら騒ぎになる。……ほんとはぬいぐるみを持つのも目立つからやめて欲しいんだけど。
「外、楽しみだね」
「ね」
大事に抱えた姿をみているとさすがに置いていけとは言えない。これくらいなら多めに見よう。
「じゃあ、行くか」
※※※※※※
スーパーに入るとあぐりは目を輝かせて辺りを見渡す。まるで遊園地のアトラクションを見るような熱い視線だ。
「お菓子コーナーは向こうだ。好きなお菓子選んでいいよ」
「好きなもの?」
「二人で決めよう」
「ね」
「ね」
一人と一匹? は顔を見合わせて駆けだした。
微笑ましい光景だ。
さてと、俺は特価のカップラーメンでも漁るか。
就職して一人暮らしを始めた頃は色んな料理を作っていたが、騒音トラブルのせいで食欲がなくなりカップラーメンが一番楽だということに気づいてしまった。
今ならまたあの頃の情熱を取り戻せるかもしれないが、一度見に着いた自堕落はなかなか拭えない。
お、このラーメン見たことないな。
「じー」
焼きそばも買っていくか。
「じー」
あとはカレーメシでご飯成分を摂取して――。
「じー」
「なんでじっと見てるんだ?」
「これ」
俺の前に突き出されたのは女子向けのアクセサリーが入ったおもちゃ入りお菓子だった。
「ああ、欲しいのか。いいよ。かごに入れておいてくれ」
俺はカップラーメン山盛りのかごを向ける。
「……お菓子入らない」
「ね」
……ちょっと買いすぎたかな。
「ちょっと待っててくれ。少し戻してくるから」
「……ご飯いつもそれ?」
「体に悪い?」
幽霊に体を心配されるとは思わなかった。
「一人暮らしだからな」
すると、あぐりと一匹? がひそひそと内緒話をする。
「よければ」
「作りましょうか?」
「え、マジで? 作り方わかんないだろ?」
「お腹がすいたとき」
「ネットで料理の動画を見てたので」
焼肉屋のダクトから漂ってくる焼肉の匂いでご飯を食べてる気持ちになるようなものだろう。目頭が熱くなってくるんだけど。
「た、助かるけど。でも、包丁とか持てないだろ」
「念力で?」
「サイコキネシスで?」
「名称統一しろよ」
……よく考えたらいたずらしてたくらいだから、ある程度の物は動かせるのだろう。
「料理作れるなら頼みたいけど」
「お菓子のお礼」
「ね」
意外と義理堅い。どうやら多少は心を開いてくれたようだ。
でも、実践は初めて、というわけか。
「自信はどれくらいあるんだ?」
「東京ドーム三個分くらいは」
「あるかも?」
「……意外と強気だった」
多少の不安は残るけど、カップラーメンも飽きてきた頃だ。
「わかったよ。じゃあ、新しいかご使って良いから食材も頼む」
「任せて」
「ね」
楽しそうに駆け出すあぐりを見て、周囲の人たちが微笑ましそうに見つめる。見た目は可愛らしい少女だからな。
「優しい妹さんね」
近くにいたおばさんが話しかけてきた。
「は、はぁ」
実は部屋に住み着いてる悪霊なんです。と言ったらどんな反応をするだろう。……おそらくは『こいつ何言ってんだ』みたいな顔になるんだろうけど。
※※※※※※
買い物をすませてスーパーから出る。
右手に人形、左手に肉まんを持ったあぐりがレジのお姉さんに手を振る。それを見て、レジのお姉さんも微笑みながら小さく手を上げた。
「家族みたい」
「と言われました」
心なしか嬉しそうなあぐり。もしかして、
「家族が欲しかったのか?」
「……ん」
ぬいぐるみではなく、あぐりがこくりと頷いた。……今までのあぐりは最初、ぬいぐるみに自分の気持ちを代弁させていた。それがなかったということは代弁させることを忘れるほどの思いということだろう。
彼女の境遇を考えるとそれも当然だけど。
早いうちに家族を亡くした俺にはその気持ちが痛いほどわかる。
……そうか。あぐりに親近感があったのは『家族がいない』という共通点があったからか。
それなら――。
「俺が家族になってやるよ」
こうすることで俺たちは互いの傷を埋めることができる。
それがいびつで歪んでいて――依存みたいな関係だったとしても。
一瞬、言葉の意味を考えるようにあぐりは黙り込んで、
「うん」
小さく頷いた。
「家族が出来てよかったね」
「ね」
「なんて呼ぼうか?」
「パパ?」
「いや、それはやめてくれ。お兄ちゃんでいいだろ」
女の子と付き合ってないのにパパなんてごめんだ。
「お兄ちゃんだって」
「……」
ぬいぐるみであぐりが顔を隠す。どうやら恥ずかしがっているようだ。ぬいぐるみがお兄ちゃんって言ってるのは恥ずかしくないのか?
……別人って設定なんだろうけど。
「他には……恋人とか?」
耳まで真っ赤だ。
……言った自分も照れてしまった。
「ごめん、今はまだお兄ちゃんで」
「今はまだ?」
ぬいぐるみの純粋な目が痛い。
「い、いいから、恥ずかしがってないでお兄ちゃんって言ってみてくれよ」
「……」
「ほらほら」
「……」
「ほら――って、消えるなよ!」
完全に消えちゃったよ。
あぐりの恥ずかしがっている顔が可愛くてつい意地悪するように急かしてしまった。
悪いことしたな。
仕方なく一人で帰路につこうとしたそのとき、
「お兄ちゃん」
背後からあぐりの声が聞こえてきた。
振り向くとそこには誰もいない。
普通ならほんわかするんだけど。……ホラー映画の演出みたいでちょっと怖い。
※※※※※※
それから俺とあぐりの生活が始まった。
味噌汁の匂いに気づいた。次にまぶたの裏から感じる日の光。最後に小鳥たちの鳴き声。そこでようやく俺は目覚めた。
体を起こして居間に向かう。
「おはよー」
人の気配はない。だが、
「おはよう」
「ございます」
あぐりの声が背後から聞こえてきた。
幽霊の性なのか、本人の性分なのか朝はあまり姿を見せない。
俺がテーブルに着くと、すでに朝食の準備がされていた。
ご飯、納豆、卵、焼き魚、漬物。
基本的な和食だ。何日か過ごして気づいたが、あぐりは和食が得意らしい。
「いただきます」
ほどよい米の炊き加減。焼き魚もただ焼いてるだけじゃなくて、きちんと捌いた形跡があり丁寧な下ごしらえを感じて申し分ない。
「米もほどよくふっくらだし、このきゅうりの漬物も美味いよ。さすがはあぐりだ。よ! 日本一!」
本心からの言葉もあるが、
「むふー」
あぐりの満足そうな顔を見たいという気持ちから言葉が大げさになってしまう。初めて出会った頃と比べればあぐりもだいぶ表情が豊かになった。
「美味しいと言ってくれるので」
「お弁当も作りました。……こちらに」
合図とともに可愛らしい袋に包まれた弁当がふわふわと浮遊してくる。
すぐに幽霊特有の能力を使うのは難点だが積極性も出てきた。
今では料理だけではなく家の掃除や洗濯までしてくれる。
お陰で部屋はいつも綺麗で塵ひとつない。
……この活発さが本来のあぐりなのだろう。
「ありがとう。嬉しいよ」
こうまでされると何かお返しがしてやりたい。
そうだ。
「仕事行ってる間、暇だろ? ネット見てもいいよ」
「……おぉ」
「太っ腹」
あぐりの目がきらきらしている。現代っ子らしく、どうやら喜んでもらえたようだ。自然と俺も笑みがこぼれる。
「げ、やべ」
いつの間にか走らなければ会社に間に合わない時間になってしまった。
「また夜にな!」
それだけ言って、俺は部屋を飛び出していった。
※※※※※※
「はぁ……」
大きなため息がこぼれる。
結局、会社に間に合わず遅刻してしまった。
そのため、上司から説教を食らってしまった。
あの人……話がくどいんだよな。遅刻してきたその場で一回、昼に一回、最後に全員が帰る前に一回。
※※※※※※
なんとか日付が変わる直前に帰ることができたけど。
精神的な疲労で足取りが重い。苦して、辛くて、むかついて。
何度もため息を吐きながら、ようやく家に帰ってこれた。
朝見たばかりだというのに、早くあぐりの喜ぶ顔がみたくてたまらない。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、
「……おかえり」
「お兄ちゃん」
あぐりがぱたぱたと走ってくる。そして、俺の間の前で急停止して、どこか期待した眼差しで見上げてくる。
本当は抱きつきたいのに必死で我慢するような表情。
甘えたい気持ちとそれが恥ずかしいと相反する感情。
そんな彼女にいつもの俺なら優しく声をかけて頭を撫でるのだが。
「ただいま」
今日の俺はそれだけでは飽き足らず、つい抱きしめてしまった。
「……!?」
普通の女の子にこんなことをすれば殴られることもあるが、あぐりは目を見開いて驚いただけだった。むしろ。
「どうしたの?」
あぐりは綺麗な黒い瞳をこちらに向けた。いつもと違う俺を心配しているようで声の響きはいつもより優しく感じる。あぐりには何でも話せる。そういう雰囲気が出ていた。だから――。
「ちょっと会社で嫌なことがあってさ」
素直に弱音も口にできた。
あぐりは優しく頭を撫でてくれた。
「よしよし」
子供扱いするような『よしよし』だが、そこには労わるような響きと同情が含まれているため、決して不快ではない。むしろ、このまま眠りたくなるような気持ちよさだ。
「お疲れ様」
「でした」
あまりのバブみ力にすっかり身を委ねてしまった。なんて母性だ。
「もう」
「大丈夫です」
そんな夢現の状態だったから次の言葉を深く考えなかった。
「私が守ります」
「家族なので」
「そっか。それなら安心だ」
「「はい」」
またあぐりの声が二重に聞こえてきた。
※※※※※※
そんなことをすっかり忘れた次の日。
「大体君はだねぇ」
今日もまた部長の小言を聞いていた。
今度は俺が飲み会に参加できないことに対する不満だった。……仕方ないじゃん。あぐりが部屋で待ってんだから。
前に一度飲み会で明け方くらいに帰ってきたときは呪われそうで怖かった。
あぐりもスマホを持てばいいんだけど、物を動かすことはできるが、繊細な操作ができないらしい。
「ちょっと聞いてるの?」
「は、はい」
やべ、ついあぐりのこと考えてたよ。
このオッサン、話を聞いてないことに対して敏感だから面倒なんだよな。
はぁ、今夜も遅くなりそうだ。
バレないように内心でため息をついたそのとき、
「ひ」
短い悲鳴を上げて部長は後ずさった。その表情は何か恐ろしいものを見たかのように恐怖に歪んでいる。
「どうかしましたか?」
「……」
声をかけても返事がない。視線は俺のほうを向いたまま――、いや、違う。正確には俺の背後だ。
「あ、青白い顔の子供が」
そう言ったきり、再び口をつぐんだ。
まさか。
なんとなく誰の仕業か検討がついた。
だからこそ、躊躇なく振り向いたんたが。
「誰もいない?」
そう呟くと、
「い、いたんだ!」
突然、部長が我を取り戻したように叫ぶ。その声に職場にいた全員が驚いて、こちらを見た。
「こ、子供がでっかい犬になって! の、呪ってやるって」
犬になって?
それは予想外だった。てっきりあぐりの仕業かと思ったけど、犬に変化するなんて聞いたことないしなぁ。
実は本性が犬だったとか?
……いや、事件のニュースを見たけど、あぐりはごく普通の人間だった。
どういうことだろう。
「部長、大丈夫ですか?」
「疲れてるんじゃないですか? いつも怒鳴ってばかりだから」
騒ぎ出した部長の様子を見て、同僚たちが心配そう……若干、馬鹿にしたように声をかけてきた。
「ほ、本当なんだって! い、犬が! の、呪いが!」
「はいはい」
「どうする? 救急車でも呼ぶ?」
騒げば騒ぐほど、部長に対する周囲の対応が雑になってきた。
……人徳ないからなぁ。
その後、部長は精神的疲労から病欠……というか追い出されたような形になり、俺に対するお咎めも一切なくなった。
快適にはなったが、やはり疑問は残った。
※※※※※※
「ただいま」
帰宅してすぐにあぐりが駆け寄ってきた。
「おかえり」
まるで子犬みたいにじゃれつくあぐりの顔をじっと見る。
「どうか」
「しましたか?」
不思議そうな顔するあぐり。元々、無表情に近いからわかりにくいが、それでも何かを隠していたりする様子はない。
「……」
むしろ、何か反応を待っているような。ん、なんだ、この匂い。キッチンのほうから匂ってくるけど。
「あ、ハンバーグ作ってくれたのか?」
「はい、今日は私が一日頑張りました」
ぬいぐるみから顔を上げて、あぐりが気恥ずかしそうに微笑んだ。
「おお、すごいな。ありがとうな」
「……実は」
「実は?」
一瞬溜めるから、部長を呪いましたと告白するのかと思ったが。
「中にチーズが入れてます」
やっぱり誰かを呪うようなタイプには見えない。……一日頑張ったっていうのも嘘じゃないだろうし、部長の件とは無関係なのかも。
「テーブルに」
「料理並べます」
あぐりの合図と共にキッチンからハンバーグが乗った皿がふよふよと漂ってくる。
何も知らないとポルターガイストにしか見えない。それにしても美味そうなハンバーグだ。大きさも申し分――。
「あれ? なんでハンバーグの大きさ違うんだ?」
「それは」
ぷいと視線をそらす。その態度でハンバーグの出来が違うことに気づいた。
「まさか出来が良いのを俺の渡したのか?」
「……ん」
「で、自分のは失敗したやつってことか」
ちょっと目を逸らした。……待てよ。この反応からすると。
「失敗したハンバーグ、他にもあるんだな?」
「それは」
戸惑うあぐりをよそに俺はキッチンに向かう。
「あ、待って」
思った通り、失敗と思われるハンバーグが皿に並べてあった。明らかに焼きすぎだ。でも。
「それ、失敗です。だから。――あ」
「……うん、美味い」
食べてみると下味がしっかりしているから悪くない。
「全然失敗じゃないじゃんか。あぐりはすごいな」
俺は素直に笑いかけたが、あぐりは俺の顔を見た途端、顔から色を消した。
「うわ」
あれ、対応間違ったかなと思った瞬間、あぐりが無言で抱きついきてた。
「な、なんだよ。ハンバーグこぼすところだっただろ」
「……今まで、好きが返ってこなかったから……嬉しくて……」
あぐりの生前は辛いものだったのだろうと感じる言葉。
「なら、今のうちに慣れておいたほうがいいぞ。今度からは好きが返ってくるからさ」
「……うん」
ぎこちない笑み。でも、それでいい。これから慣れていけばいいことだから。
「お兄ちゃん……大好き……」
「――ぐっは!」
「大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫。ちょっとクリティカルヒットしただけだから」
「??」
あぐりの言葉は家族に対してのものだと思うのだが、それでも、心臓の鼓動が止まらない。『ありがとう』と言ったあぐりの顔だけが思い浮かんでくる。
や、やばいって、こんなの意識するに決まってんだろ。
この気持ちが恋かどうかわからない。でも、気持ちに向き合う時間はまだまだある。
ゆっくりと進んでいけばいい。
※※※※※※
……。
「みんな」
「もう来るそうです」
あぐりの声で起こされる。
「ん、そうか」
ちょっと眠ってたみたいだ。
最近眠りが早い気がする。
ベッドから窓を見ると、桜の花びらが舞っていた。
「窓開けてくれないか?」
「風が強いから」
「駄目です」
「そりゃそうか」
出会った頃はしかられるなんてありえなかったのになぁ。
「なんか、腹が減ったなぁ」
「退院したら」
「ハンバーグ、作ります」
「お、そりゃ楽しみだ」
……。
しばらく沈黙を楽しむ。この年になってくれば会話がなくても苦痛じゃない。
「また、ちょっと寝るかな」
「はい」
「わかりました」
目を閉じる。
色々な過去が去来してきた。辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと。
「なぁ」
「はい」
「なんでしょうか?」
「……家族、嫌じゃなかったか?」
「「ううん」」
「そっか。……実は不安だったんだ。無理やり付き合わせたんじゃないかって。俺はただ成仏を遅らせただけじゃないかって」
「そんなことないよ。幸せだったから」
「そっか。……そっかぁ」
「……」
「……」
「なぁ」
「はい」
「幸せにな?」
「もう幸せだよ」
あぐりが涙を流していた。ぽろぽろと。ぽろぽろと。まるで真珠のような涙だ。
よく考えれば泣かせたのは初めてだ。
……前に泣かせないって約束したのになぁ。
※※※※※※
いつの間にかぬいぐるみだけが彼の体の上に残されていた。
ぬいぐるみは犬に姿を変えた。そして、彼をじっと見つめると、ため息を吐いた。
「泣かせないって言ったのに。でも、悲しむだけだったご主人を幸せにしていただいてありがとうございました」
そんな彼女を守ろうと、呪い、怒ってばかりだった。
だから、そんな自分を心配してあぐりは成仏できなかったのだろう。
「また、向こうでも家族でいてやってください」
そう言って、あぐりの飼っていた犬もまた消えていく。
…………
……
…
「あ、また窓開けてる。駄目でしょ。勝手に開けたら。看護師長に怒られるの私なんですから」
「ほら、みなさんもう来ますよ」
「……笑ってる。そんなにいい夢見てるんですかね」
「面白い!」
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