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ヴァレリー法律事務所

アレクサンドリーヌ・レックス

作者: 飛鳥京子

二〇二〇年六月〜  パリ




「見て、恐竜の花器」

 竜導幸葉(りゅうどうゆきは)に袖を引かれて、エラリイもそちらを向いた。フランス人がニ、三人、幸葉を見つめているのは、幸葉の「見て(Regarde!)」の発音が妙に良かったからだろう。

 フランス語のrの音は独特で、英語のように舌を巻くのではなく、舌先を下の前歯の裏につけ、喉から強く息を出して発音する。イギリス人のエラリイには、hとkの間のような音としか形容のしようがない。

 幸葉はフランス語ネイティブのように流暢にしゃべるわけではないが、なぜかregarderの発音だけは上手かった。聞けば、あまりに言いにくいので、ムキになって練習したらしい。

 サンジェルマン=デ=プレの一角にある雑貨店のショーウィンドウに、幸葉の注意を引いたものが飾られていた。ぽってりした陶器の恐竜、そのいくつかには花が挿してあった。恐竜の体はどれも、油彩のようなタッチで緑色系の色に塗られている。その色味のせいか、インパクトのあるフォルムなのに、花を食ってしまうことがない。

「面白いけど、何か高くねえ?」

「目に宝石が使われてるからだよ」

 見ると、モデルになった恐竜の名前の隣に、オニキスだの、トパーズだのと書いてある。売約済みの札がついたティラノサウルス・レックスの両眼は、オレンジがかったゴールデンイエローのシトリンで、地上最強といわれた威風を示すように、炎の色に輝いている。それほど高価な石を使っているわけではないらしく、エラリイの収入でも手が届く値段だが、かと言って気楽に手を出せるものでもない。

 この店は、新進作家の作品を中心に商品展開しているようだ。今日展示即売会を行っている恐竜の花器は、二人の女性の合作だという。日本に陶芸の修業に行ったフランス人のミュゼット・リュシルと、パリに留学していた画学生の出水玲子(いずみれいこ)

「どれも一点物です。世界に一つしかない、お客様だけのお品になりますよ」

と、店員が耳打ちしてきた。彼女がそれ以上営業モードにならないうちに、二人はそそくさと退去した。

 彼らは、パリ弁護士会主催の無料出張法律相談から、事務所に戻るところだった。弁護士会のプロボノ(無償奉仕)活動の一環で、市内に設けられた会場に弁護士の方から法律相談に赴くというものだ。

 コロナ禍によるロックダウンが明けて間もない時期だったので、休業による収入の激減に関する相談が多かった。

 ギグワーカーと呼ばれる、ネットで配送などの仕事を請け負うフリーランサーは、

−−忙しかった時は、一日一三時間働かなきゃならないほどの荷物を押しつけられてたのに、今はまったくお払い箱状態です。契約も上手いこと、EUの保護法の基準にあてはまらないようになってるみたいで、まさに使い捨てです。

と訴え、ある女性パートタイマーは、

−−数年前、正社員で勤めていた会社をリストラされました。その後はやむなくパートで働いていますが、今度はコロナ禍で時給ゼロ。こうと知っていれば、前の会社にもっとしがみついていたのに、社長に苦しい経営状態を切々と訴えられて、つい。シングルマザーの元同僚は、そんな話全然されなかったそうです。独身女性は霞を食べて生きているとでも思われてるんでしょうか?

と、目尻を拭った。

「ああいう問題って、日本もフランスも実態はたいして変わらないんだね」

 帰り道で幸葉は言った。

「ヨーロッパって、日本より法整備も男女共同参画も進んでるから、もう少し事情が違うのかと思ってたけど、パートは圧倒的に女性が多いとか、弱い立場のフリーランスが企業に都合よく振り回されるとか」

「給料払う奴が強いのは、どこ行っても同じだろう」

「やっぱり」

 そんな話をしていたところへ、恐竜の花器の展示即売会に出くわしたのだった。

 その店から離れてメトロの出入り口が目に入ると、幸葉はエラリイが予想した通りのことを言い出した。

「ねえ、メトロで帰らない?」

「歩いて帰れる距離だよ」

「二駅は乗るよォ」

 エラリイは普段、自転車でパリ中を移動している。今日は無料法律相談の前に入っていた予定との兼ね合いで、自転車は事務所に置いて来た。幸葉は、事務所の最寄り駅からメトロで来たようだ。

 二人は押し問答をしながら、セーヌ左岸に辿り着き、サン・ミシェル橋を渡って、セーヌ川の中洲の一つ、シテ島に渡った。シテ島とサン・ルイ橋でつながるもう一つの中洲、サン・ルイ島に、二人が働くヴァレリー法律事務所はあった。白い壁にきっぱりと濃紺に塗られたドアの前に立つと、エラリイは、

「な? 歩いてもすぐだっただろう?」

と言った。幸葉は大げさに息をついた。

 中に入ると、イタリア人事務員のベアトリーチェが、開口一番、

「ねえ、カフェのオープンテラス、すごいことになってるんだって?」

と訊ねてきた。

「まず、そこかよ、おまえ」

 この日、久しぶりにカフェのオープン席が解禁されたパリでは、どの店も、いかにたくさんの座席をつくるかにやっきになっており、空いた地面があればとめどなく増殖している。

 エラリイ達が帰って来る道筋にも、車道にはみ出しているもの、通り向かいのアパルトマンの前まで座席が設えられているものと、度肝を抜くような眺めがあった。

「そんなにあるんなら、帰りにゆっくり寄れるわね」

 紺のテーラードスーツにオレンジのスカーフを緩めのネクタイのように巻いたベアトリーチェは、豊かな金髪をかきあげながら歩き去った。

 今の時季、パリは一年中で最も日が長く、午後九時や十時でも昼間のように明るい。彼女が仕事帰りに立ち寄る頃も、カフェは陽光の下で賑わっているだろう。

 入れ替わりに 事務所の代表者、ジャン=リュイス・ヴァレリーが、

「やあ、ごくろうさん。どこまで行ってくれたんだい?」

と、二人に声をかけてきた。

「サンジェルマン=デ=プレの側の会場です」

「エースは一緒じゃなかったのかい?」

「あいつは別の会場。どこだったかな」

 エースというのは、エラリイと同じイギリス人弁護士、ラエスリール・エースナイトのことだ。ヴァレリー法律事務所はなぜか、弁護士も事務員も多国籍のスタッフが集っている。

「サンジェルマン=デ=プレか。まさか、恐竜の花瓶売ってたのなんか、見なかったよね」

「見ましたよ」

という二人の返事に、ヴァレリー弁護士は驚いたが、なぜ彼があの展示即売会を知っているのかを聞いて、エラリイ達も驚いた。

 何と、売約済みの札がついたティラノサウルスは、彼が買ったのだという。

(そんなに良かったですか?)

という問いを、二人は同時に呑み込んだ。

「芸術的価値はよくわからないけど、洒落がきいてて面白いかなと思ったんだ」

 ヴァレリー弁護士の一人娘、ルナ・ヴァレリーは、少し前から猫を飼い始めた。ターキッシュアンゴラの雌で、純白の毛と神秘的なオッドアイを持つ美しい猫だ。ルナはこの猫をアレクサンドリーヌと名付け、家族はそれを縮めてアレックスと呼んでいた。

「ところが、アレックスはとんでもないお転婆でね。最近じゃ、みんな、レックスって呼んでるんだ。まるで、最強最凶のティラノサウルス・レックスなんだよ」

 ティラノサウルスの花器は、そんなレックスの飼主に対する洒落だという。

 そこまで話して、ヴァレリー弁護士は急に自信がなくなったらしい。

「喜んでくれると思うかい?」

と、気弱げに訊ねた。

「まあ、おれなら、花瓶にあんな金額は出さないけど、モノはいいんじゃないかな」

「プレゼントにはいいと思いますよ。インパクトがあって、ユニークで」

 エラリイと幸葉は口々に言った。



 ロフトのドアを開けた途端、重量感のある物体が降ってきた。

 エラリイが躱すと、そいつは大きめの体の割には、器用に床に着地した。

「ジーニアス」

 エラリイは猫をにらみつけた。ジーニアスはメインクーンの雑種なので体が大きい。まともにぶつかっていたらどうなっていたか。どうしてそれほど、と思う程人を驚かすのが好きな猫だった。

「いいかげんにしねえと、おまえもレックスって名前に変えちまうぞ」

 ジーニアスは緑の目をくりくりさせてエラリイを見つめ返した。

 ヴァレリー家のアレクサンドリーヌというのは、どんな猫なのだろう。エラリイはふと思った。一度こいつと勝負させてみたいような気がする。

 エラリイが帰ってきた気配に、さらに二匹の猫が駆け寄って来た。白黒ハチワレのぶちネコと、グレイと白の、やはりハチワレ猫だ。白黒がブラックコーヒー、グレイと白はビクトリアという名前だ。

 ビクトリアは三匹の中で一番小さく、何をするのも要領が悪かった。垂れ目がちな目のせいで、タヌキのような顔立ちに見える。エラリイは、せめて名前だけでも豪勢なのをつけてやることにした。

−−イギリスの女王様だった人の名前だ。少しはあやかれよ。

 名前を決めた時、エラリイはそう言ってビクトリアを抱き上げたのだが、通じたのかどうか、猫はフニャアと情けない声を出した。

 キッチンでは先に帰宅したエースが、夕食の用意に取りかかっていた。

「ダンテが美味い魚を分けてくれたから、今日はムニエルだよ」

「あいつ、帰ってきてんの?」

 エラリイ達はこのロフトを四人でルームシェアしている。エラリイ、エース、イタリア人のダンテ、フランス人のセルジュという面子だ。ダンテは漁師だそうで、一年のうち何か月かを漁に出、後はパリにいて友人のピザショップを手伝ったりしている。セルジュは画家で、普段はモンマルトルのテルトル広場で似顔絵描きをして日銭を稼いでいた。

「エラリイ。悪いけど、ジーニーをキッチンに入れないでくれ」

「OK」

 エラリイはジーニアスを抱え上げると、自分の部屋へ連れて行った。ブラックコーヒーとビクトリアもついてくる。

 猫達に食事をさせて部屋に閉じ込め、キッチンに戻ると、ちょうど夕食ができあがったところだった。

「うわ、うまそ」

 エラリイは魚のプリプリした身にナイフを入れた。味付けはバターと塩こしょうだけのあっさりしたものだったが、素材に甘味があって旨い。

「なあ、おまえ、今日の無料法律相談、

どこ行ったの?」

「ぼく? 郊外の方。弁護士会がバスを出してくれて」

 おそらく、移民をはじめとする貧困層が住む集合住宅の多い区画だろう。

「どんな相談が多かった?」

「そうだなあ。カフェみたいに解禁と同時にお客さんが群がるようなところはいいんだけど…」

「そういや、うちの側までテラス席ができてたじゃねえか。あれ、どこのカフェだ?」

 エラリイが思わず話の腰を折ると、エースも苦笑した。

 オープンテラスが解禁になって浮かれるのはわかるが、なぜ前以上に座席が増えなければならないのか。このロフトには多分、セルジュ以外に理解できる人間はいないだろう。エースは続けた。 

「でも、ロックダウンが明けたからって、すぐ以前のお客さんが戻ってくるところばかりじゃないだろう。そういうところは、非正規やフリーランスにしわ寄せがいってるみたいだ」

 仕事量が少ない日は早く上がらされたり、交代で休みをとらされたりする。突然、注文が干上がる。そのため、収入がまるで計算できないという相談が多かったそうだ。

「あ、そういうの、こっちもあったな」

 エラリイは言った。

「店を閉めなきゃならなかったとか、そういう直接的な被害は国の支援も受けやすいけど、そこで仕事してる人達の中でも一部の弱い立場の人、みたいな、ちょっと見えにくいところで困ってる感じ」

「SDGsでよく、『誰も置き去りにされない世界』とかいうじゃない」

 エースの話は突然飛躍したように見えても、最後まで聞くとちゃんと関連していることがわかる。だから、エラリイは黙って続きを待った。

「でも、そういうことを声高に唱える人って、たいてい、自分は置き去りにされない立場の人だよね」

「んー、いわゆる専門家とか、メディアで働いてるヤツってこと?」

「もちろん、アナウンスすること自体にも意義はあるんだけど」

 エースはナイフとフォークを置いた。

「ただ、彼らは具体的にどういう人達を想定してるのかな。今日、相談に来た人達の多くは、『でも、あなた、目の前でこうして取り残されてるわたし達のこと、見えてます?』って言いたい気分かもしれないと、ふと考えてね」






「ねえ、エラリイ、ちょっと見て」

 事務所でとっている日刊紙の一つを、幸葉が差し出した。一番上になっている面に、妙に見覚えがあるようなないようなものが写っている。紙面がまるごと、有名な宝飾店の展覧会の取材記事兼広告になっていた。

「目が宝石の恐竜」

 だが、展示されている作品の写真は、先日エラリイと幸葉が見たものとはかなり趣が異なっている。正確な実物の縮尺模型はどれも胴体が渋い銀色だ。記事本文によると、職人が丹念にダイヤモンドで磨いたという。目にはどれもダイヤモンドがあしらわれており、値段も完全に宝飾品のそれだった。

「あの姉ちゃん達が作ったんじゃなさそうだな」

「うん。でも、何となく、どこかの企業の製品がヒットすると、同業他社も後追いで作り出す、みたいな感じしない?」

 たしかに、あの二人の作品を見た者なら、この広告からすぐあれを連想するだろう。

 どうやら、展覧会の目玉はティラノサウルスらしく、ガラスケースに入れられた写真がひときわ大きかった。

 目には大粒のダイヤが嵌め込まれ、銀色の胴体には淡いピンクの小花が描かれている。記事によると、さる富豪が、四月生まれの娘のために高額で買い取ったそうだ。 

「何だか長ったらしいタイトルがついてるな。プルミエール……ユヌ……ソン……」

 エラリイが読み上げるタイトルを聞きながら、幸葉が小首をかしげて呟いた。

「百花の……魁?」



「そうなんだ。ぼくも困ってるんだよ。娘に、こんなの盗作だから訴えてよって、責め立てられて」

 ヴァレリー弁護士はため息をついた。

 ティラノサウルスの花器は娘に大受けで、ルナ・ヴァレリーはインスタグラムに投稿したほどだった。

「あ、見ましたよ、ぼく」

 エラリイは如才なく言った。

「随分カラフルな画面でしたね」

 ルナは艷やかなピンクゴールドの髪の、美しい少女だった。その彼女の腕に、純白のターキッシュアンゴラが抱かれている。右目が青、左目が黄のオッドアイだ。澄まし顔で、前脚を「お手」のようにティラノの頭にのせている。花器には、季節の花が無造作に活けられていた。

「あれ撮るの大変だったんだよ」

 ヴァレリー弁護士は苦笑した。

 アレックスは、わざとルナの要求するポーズと違う格好ばかりするので、ヴァレリー弁護士がおやつや猫じゃらしで、懸命に気を引いたそうだ。

「へえー、こんな白鳥みたいな猫なのに」

 幸葉のたとえはおかしいかもしれないが、言い得て妙だと、エラリイは思った。写真の中で澄まし込んでいるアレックスにはあたりを払うような気品があり、思わずうっとり見惚れてしまう。さながら、湖上の白鳥のように優美な佇まいだ。

「おれなら、この猫にオデットって名前つけたかも」

「妻もそんなことを言っていたよ。でも、蓋を開けてみればオディールだったって」

 こいつは、ジーニーに勝ち目はないかもしれない。エラリイはひそかに思った。

「でも、お嬢さん、すごくこの花器が気に入ったんですね。そんな、訴えてって怒るぐらい」

 幸葉が言うと、ヴァレリー弁護士は、

「百パーセントそれだけってわけじゃないんだけどね」

と、指で頬を掻いた。

「実は、ミュゼットはぼくの遠縁の娘なんだ」

 なるほど、ヴァレリー弁護士は単なる洒落であの花器を買ったわけではなく、作家を応援したい気持ちもあったようだ。ルナも新聞広告を見て、よく知っているお姉さんのために腹を立てているのだろう。

「でも、あれを盗作とまでいうのは、ちょっと難しいんじゃないですか? たしかに、二番煎じって感はありますけど」

「作品だけを見比べたら、そうかもしれないね。ただ、ミュゼットとレイコは、展示即売会の後、あの宝飾店のオーナーから、接触を受けてるんだよ」

「え?」

 エラリイと幸葉は揃って口をあけた。

 


『地の華』のオーナー、ジョセフィーヌ・ロランは、やり手の経営者とは思えぬほど福々しい顔をしている。記事の隅に小さく載っている写真も、さながら慈母である。

「ルノワールが描く女の人みたいだね」

 幸葉に言われて、エラリイも頷いた。

「ああ。全体にぽっちゃりしてて、ちょっと二重顎で」

 だが、一つのブランドを切り盛りする人間だけに、眼光は鋭いようにも見える。

 彼女が直々にミュゼットと玲子の工房を訪れたのは、展示即売会の翌週だったという。

「恐竜の目に宝石が使われていたせいか、彼女の店にも、こんなの扱っていないかという問い合わせがあったらしい」

 以下は、ルナが紙面広告を見るなり、ミュゼットに電話して(「ミュゼ姉、新聞何とってる?……じゃ、見た? 『地の華』の展覧会の記事。こんなの、ミュゼ姉達の物真似じゃないの?」)、聞き出した話である。



 ジョセフィーヌは、ひとわたり二人の工房を見渡すと、小さく頷いて話し出した。

−−最初に問い合わせを受けた時は、正直、なぜうちが手がけるような商品だと思われたのか、不思議だったの。でも、あなた方の作品を見て、うちももう少し広い観点で宝飾品を捉えてみてもいいんじゃないかと考えたのよ。

 身につけるアクセサリーだけでなく、そこに一つあるだけで、家や部屋が輝くもの。思い出を美しく飾るもの。代々受け継がれ、その家のアイコンのようになっていくもの。

−−そういうものを特注品として作ったことは、これまでにもあるのよ。今回は、単発の作品ではなく、新しいうちのラインの一つとして展開していこうと考えているの。

 二人に、そのラインの契約デザイナーになってほしいというのが、ジョセフィーヌのオファーだった。

−−まるで夢のような申し出だったけど、わたし達、その場でお断りしたの。

 理由の一つは、ミュゼット達が、展示即売会を行ったあの店と、日用雑貨を製作する契約を結んでいたからだ。手頃な価格で、斬新だがすんなり日常生活に溶け込む品々。既にカップアンドソーサー、カフェオレボウル、小皿セットなどを納品している。

−−あら、もったいない。そんな物にあなた達の才能を浪費するなんて。

 ジョセフィーヌはコロコロと笑った。

−−あなた達は芸術家なのよ。少なくとも、うちはその待遇であなた達を迎えるつもりです。まずは、契約書の草案を読んでみてちょうだい。

 そこには信じられないような金額が並んでいた。おたくの商品の値札の間違いじゃないですかと訊きたくなったほどだ。それでも二人の返事は「ノン」だった。

−−わたし達が作りたいのは、高級な芸術作品ではなくて、日常生活を楽しく彩るものなの。程よい重さで、手にしっくりなじむ、洗いやすい形状をしている、収納もしやすい。それでいて、デザインもお洒落だったら、使っていて心地いいでしょ。同じカフェ一杯飲むのでも、そのカップを使うと楽しさが倍増する、そんなものを作るのが、わたし達の夢だったの。マダムの申し出は、光栄すぎるほどだったけど、根本的なコンセプトの方向が違っていた。そういう仕事は、どんなに条件がよくても、そのうち辛くなってしまうから。

 ジョセフィーヌは、二人の小娘が、彼女の「光栄すぎる申し出」をあっさり断ったことに、大層立腹したようだ。最後は、捨て台詞のようなものを残して、工房を立ち去った。

 噂によると、彼女は下層階級の出で、先代経営者との結婚には一族中猛反対だったそうだ。しかし、彼女には商売に対する独特の嗅覚があり、夫である先代は、しばしばそのおかげで危機を救われた。彼は、自分が妻より先に死ぬとわかるや、店の全権を彼女に譲るという遺言書を作成した。

 ジョセフィーヌの経営手腕で、『地の華』は相変わらず繁盛しているが、かつての品格が失われて下衆くなったという批判もあるらしい。長年受け継がれてきた伝統を捨てて、金儲けに走っているという意味のようだ。先日の恐竜展も、彼女でなければ考えつかない企画だっただろう。

 もっとも、精密な縮尺模型、ダイヤモンドで磨いた胴体など、老舗の宝飾店らしい風格は出していたため、概ね好評価を得たようだが。

−−『地の華』にすれば、同じアイデアをもとに、自分達はこんなに格調高いものが作れるんだって、意趣返しのつもりだったんでしょうね。でも、わたし達の作品は飾り物じゃなくて、あくまでも実用品だし、客層も全然違うから、まあ、勝手にやってって感じ。



「そのミュゼットさんて、随分おっとりした人なんですね」

 エラリイは思わず言った。パリに来て、彼がまず驚いたのは、大陸の人間の自己主張の強さだった。彼自身、自分を控えめな性格だと思ったことはないし、イギリスにも押しの強い人間はいくらでもいた。だが、ヨーロッパ大陸の人々のそれには、何かもっと質の違う、地続きで人や物が移動できる場所に住む者達ならではの凄みがあった。自分達のアイデアを勝手にアレンジされたと考えれば、すぐさま噛みつくようなイメージが強い。

「彼女はリヨンの生まれだからね」

 ヴァレリー弁護士が、これも苦笑混じりに言った。

 パリで暮らすフランス人には、エラリイのイメージするようなタイプが多いかもしれないが、パリ以外に居住するフランス人に言わせると、「あれはパリ人。フランス人とは違う」となるらしい。

「そんなに違うんですか?」

「うーん、同じフランス人だから、国民性みたいなのはあるかもしれないけど、たしかに、パリと地方都市では雰囲気がかなり違うかな。街も清潔で落ち着いているし、パリはいろんなものが流れ込んでくるところだから、どうしてもせちがらくなるんだろうな」

 ひょっとして、パリ弁護士会に登録したのは早まったかも。エラリイがひとりごちた時、幸葉も彼の背後でボソッと呟いた。

「そういうことは早く言ってよ」





 エティエンヌ動物病院のしんと薄暗い待合室に、そこだけ虹色の光が降臨したように見えた。

 ピンクゴールドの髪の少女、その腕に抱かれた純白の猫。青と黄のオッドアイ。

「ボンジュール、あなた、エラリイね。キャリーケースの中にいるのは、ブラックコーヒー?」

 初対面の、それも年上の人間に対する物言いとしては、口調がやや不躾だ。主語をvousにしておけばいいというものじゃないんだぞ、とエラリイは思った。

「ボンジュール、きみ(tu)はルナだね。今日、おれが連れてきたのは、ジーニアスとビクトリア。ブラックコーヒーとは引き取った時期が違うんで、健康診断のタイミングとかも違うんだ」

「ジーニアス? すごい名前ね。何の天才なの?」

「人を驚かせること」

 言うやいなや、ジーニアスが背後からルナに飛びついたのには、彼自身もびっくりした。キャリーケースの扉を後方に向けていたので、ジーニアスが抜け出したことに気づかなかったのだ。

「こら、ジーニー」

と、叱るより早く、猫は待合室の床にはたき落とされていた。アレクサンドリーヌがパンチを放ったらしい。アレックスは自分も床に飛び降りて、ジーニーに対峙した。長毛種同士が毛を逆立ててにらみ合う様は、なかなか迫力がある。

「何だ、もうやり合ってるのか?」

 診察室の扉が開いて、エティエンヌ医師が顔を覗かせた。

「どっちが先に来たんだ。アレックスか? 早く入れ」

 ルナは慣れた手つきでアレックスを抱え上げると、ジーニーを睨めつけた。

「なるほど、たしかに、あんたは人を驚かすのが上手いみたいね。でも、次はこうはいかないわよ」

 ジーニーは、緑色の目を寄せてルナを見つめ返した。ルナはすいと体を返すと、まだ不穏な息遣いをしているアレックスを抱いて、診察室に入って行った。アレックスのものと思われるピンクと白のキャリーケースは、待合室のソファに置かれたままだった。



 猫の健康診断は、まず体重測定。次いで、全ての関節のチェック。

 ジーニーはこういう時は案外おとなしい。いやなことはさっさと済ませる主義なのだろう。ビクトリアは、恐怖で固まっている間に全てが終わってしまうタイプだ。

 猫達を入れたキャリーケースを自転車の荷台にくくりつけ、血液検査を受けるためラボに連れて行く。フランスでは、動物も人間も、尿や血液の検査をする時は、医師に処方箋を書いて貰ってラボへ行くのだ。結果は次回診察時に持参する。

 検査中、小耳にはさんだ、

「すさまじかったわねえ、さっきの猫。あんなにきれいなのに」

という声は、アレックスのことだろうか。

 血液検査が終わると、エラリイは猫達をいったん家に連れて帰り、また自転車を飛ばして事務所に向かった。

「あら、エラリイ、ちょうどよかった。すぐヴァレリー先生の部屋へ行って貰える?」 

 ベアトリーチェが彼を見るなり、そう声をかけてきた。

 この事務所は小さなアパルトマンをそのまま使っている。玄関ホールが吹き抜けになっていて、手前が受付と待合室、仕切りのカーテンの奥は事務局のシマだ。弁護士の執務室はホールを囲むように配された個室で、弁護士は就職した順に好きな部屋を自分の執務室にしていた。

 エラリイが、三階(フランス式でいうと二階)のヴァレリー弁護士の部屋へ行くと、そこには幸葉とエースもいた。

「呼びつけて悪かったね、三人共。明日のお昼にアポイント入ってる?」 

 入ってるわけねえだろ、とエラリイは思った。フランス人は食事を非常に大切にする。つまり、食事時に仕事の話をしたがるようなフランス人はあまりいない。幸葉とエースもそう言いたげな顔をしていた。

「それじゃあ、悪いけど、ぼくがよく行くカフェの個室で、法律相談を聴いてくれないかな?」

「カフェに個室があるんですか?」

どエース。

「三人がかりで聴かなきゃならないような大層な案件なんですか?」

と、エラリイ。幸葉は黙って首を傾げた。

「あー、それが、先方の希望なんだ」

 ヴァレリー弁護士は歯切れが悪い。

「勘定はぼくが持つから、気軽にお昼を食べてきてよ」

 こういう話は、たいていろくなことにならない。三人共それは感じ取っていた。だが、ボスにこう言われて断わるわけにもいかず、指定の日時にヴァレリー弁護士に教えられたカフェに行くと、心得顔のマスターが三人を個室に案内した。

 そこには、フランス人と思われる金髪の女性、黒髪のアジア人女性と共に、ルナ・ヴァレリーが待っていた。

 


「申し訳ありません。弁護士さんに相談するのってどうしたらいいのか、ルナちゃんに訊くだけのつもりだったのに、こんな風にお呼び立てすることになってしまって」

 エラリイが直感的に、この人がミュゼットだなと思った金髪の女性が口を切った。何と奥ゆかしい物言いだろう。これがリヨン人なら、今からでもリヨンに移り住みたい。

「もうわかってると思うけど、こちらがミュゼ姉。こちらが玲子さんよ」

 ルナはというと、パリっ子丸出しだ。

「恐竜の花器を作られた方ですよね」

 幸葉が言うと、二人は小さく頷いた。

 そこへ前菜が運ばれて来て、一同は改めて自己紹介し合った。

 昼食は簡単なコースになっていた。前菜、スープ、メインの後に、フランス人がカフェと称するエスプレッソと、ケーキのデザートだ。

 本題に入ったのはメイン料理を食べている時だった。

「で、三人がかりで聴かなきゃならない相談て何だよ」

 エラリイが口を切ると、ルナが言った。

「父からよく、あなた達の名前を聞いてたのよ。それで、どうせなら、その人達にお願いしたらって言ったの」

 はァ? おまえの好奇心? エラリイは眉を上げた。

「ヴァレリー先生って、家で仕事の話なんかするの?」

「しないわよ。守秘義務とかいうのがあるんでしょ? わたしは、あなた達三人がプロボノ事件をよくやってくれるから、今年もうちの事務所は弁護士会から表彰されたとか聞いただけよ」

 エラリイは、チラとエースと幸葉を窺い見た。二人共、複雑な表情をしている。

 プロボノ事件とは、煎じ詰めて言えば、金にならない事件だ。大多数の刑事事件、司法扶助になるような民事事件、難民申請などがこれにあたる。

 弁護士の中には、社会的弱者に寄り添うプロボノ事件をやってこそ本物の弁護士という信念を持っている者もいるが、事務所の経営上の観点もあって、普通はあまり歓迎しない。

 エラリイ達も、使命感というよりは、そういう事件が勝手に舞い込んで来るという感覚だった。

「てことは、プロボノ事件をやってほしいってこと?」

「違うわよ。費用はちゃんと払うわ」

 まるで、ルナ・ヴァレリーが二人の代理人のような口振りだ。

 ちょうどデザートが運ばれてきたので、玲子は自分達だけになるのを待って、ホームページのカラーコピーをエラリイ達に配った。宝飾店『地の華』のホームページで、オーナーのジョセフィーヌは、ミュゼット達の新作『ダイヤルザウルス』を、花模様のティラノサウルス・レックスの剽窃だときめつけ、彼女達がすぐに謝罪してダイヤルザウルスを破毀しなければ、法的措置も辞さないと、厳しく糾弾していた。

「どういうこと? これ」

 現在、サンジェルマン=デ=プレの店には、彼女達のコーナーが新設され、なかなか好評のようだ。大中小と重ねると、縁がきれいなグラデーションを作るカフェオレボウル、絵画のような絵付けのレターボックス。

 一方、恐竜シリーズについても、値段をもう少し手頃にして、花器以外の生活雑貨もという要望が相当数あったらしい。

 そこで、彼女達は、恐竜の目をボタンや木の実に変えて、ペン立て、メニューホルダーなど四種の作品を作った。今回は花を活けることを考えなくていいので、全て植物の絵にした。梅の花、百花繚乱の春の花々、ヒマワリ、黄葉したマロニエ。

 剽窃だとされたのは、梅を描いたダイヤルザウルスだ。これは玲子が子供の頃、夢でみた架空の恐竜で、彼女にすれば、「ダイヤルのような」としか言いようのない、巨大な目をしている。彼女達は、ガラスの小片を磨いて縦に溝を入れたものを、時計の文字盤のようにぐるりと並べて、その目を表現していた。

 目にインパクトがある分、絵付けはあっさりと柔らかい色味にした、と玲子は言う。濃い色が使われているのは、白梅を咲かせた枝だけだ。

「別に、似てねえ気もするけど」

 二つの画像を見比べてエラリイは言った。

「全然、テイスト違うし」

「実は、『地の華』のティラノサウルスを見た時、わたし達の方が、自分達のデザイン帳から持っていかれたような気がしたんです」

 玲子が言った。

 ダイヤルザウルスは、かなり以前から二人が作品化を考えていたものだが、なかなかこれというデザインが決まらなかったという。その変遷を示すデザイン画のコピーも、三人の弁護士に配られた。

 四足歩行しているもの、ティラノサウルスのように前脚が短くなっているもの、翼を持つものもある。

 それぞれのデザイン画にはそれが描かれた日付が入っており、二人が何年も試行錯誤した跡が刻まれている。

「『地の華』のオーナーが会いに来たのは、割と最近のことなんだよね?」

 エラリイの問いにミュゼットが答えた。

「ええ、ちょうど、ダイヤルザウルスがティラノのようなフォルムになった頃です」

 ミュゼットが、デザイン画の隅の日付を指す。

「胴体に花の絵を描いたのも、この時が初めてでした」

 玲子が付け加える。

「なるほど、その後間もなく、『地の華』があの花模様のティラノサウルスを発表したんですね?」

 エースが確認した。

「そうです。ただ、スケッチブックはずっとわたし達の手元にありましたし、『地の華』の人達が工房に来た時も、これには手も触れませんでしたから……」

「ええっと、『地の華』の人達が来た時、スケッチブックは工房にはあったんですか?」

「はい。これで一度成形してみようかって、持って来てたんです。だから、ちょうどこの頁を開いてはいたんですが」

「写メ撮られた可能性とかは?」

 エラリイが訊いた。

「ありません。誰も携帯なんか出してませんでしたし」

「だから、向こうのデザイナーが偶然、同じような発想をしたのかもしれませんが」 

 それはあり得ないことではない。こんなことを思いつくのは世界中で自分だけ、と思っていても、同じことを考えている人間は結構いるものだ。

「ただ、気になるのは、あのティラノサウルスにつけられたタイトルなんです」

 玲子が言う。

「ああ、百の花の中で一番目、みたいな」

 玲子の白い指が、デザイン画の隅の文字を指す。そこには、あのタイトルとそっくり同じ文句が記されていた。

 残念ながら、それも決定的証拠とはいえないが、話を聞いた限りでは、『地の華』の方が、盗っ人猛々しい印象がある。

「とりあえず、一度話し合いの場を持つよう申し入れてみましょうか? 最初は代理人同士−−向こうが弁護士を立てたらのことですが−−で、互いのクライアントの言い分を出し合うという形になるでしょうが」

 エースが言った。

「三人で受けて頂けるの?」

「何でおまえが仕切るんだよ。このお二人の問題だろう?」

 エラリイは、ルナ・ヴァレリーに対する時、なぜか自分がジーニアスになって、アレクサンドリーヌと向き合っている気分がした。互いに目を怒らせ、長い毛を逆立てて。

 エースは慌てて、自分達でよければ円満解決に向けての交渉を受任する、費用は事件単位なので、弁護士の人数が増えても金額は変わらないと説明した。

 ミュゼットと玲子が、

「お願いします」

と言ったので、食後は事務所に場所を移して、委任契約書を作成した。費用の全額または一部の入金があった時点で、三人は事件に着手する。

 費用はその日のうちに速やかに、この事件の主任弁護士となったエースの口座に振り込まれた。



「結局、わたし達三人はバカンスに行きそうもないってんで選ばれたんじゃない?」

『地の華』との第一回交渉が終わり、ちょうど昼時だったのでカフェに入ったところである。テーブル席で注文した品を待つ間に、幸葉が言った。パリっ子達がバカンスに繰り出し、カフェも閑散としている。

 ロックダウンが明けると、パリではマスクをする者も少くなった。いつまでもマスクをしているエラリイ達三人は、事務所でも「神経質だなあ」と笑われていた。

−−だって、コロナがおさまったわけじゃねえじゃん。

というエラリイの主張には、誰も取り合わない。

 幸葉も、

−−え? バカンス行くの? こんな時に?

と驚いていたが、

−−何で? プール付きの一戸建てを借りて、家族で過ごすだけだもん。大丈夫だよ。

と、一蹴された。

 自分達が神経質なのか、フランス人が緩すぎるのか。

 幸葉は単純に感染が恐いらしい。

−−コロナって、かかった時もしんどいけど、後遺症が辛いみたいなの。どうにも動けないような倦怠感が何か月も続いて困ってる人もいるらしいよ。

 そのリスクを考えれば、マスクも外せないというのが、幸葉の感覚だ。

 一方、フランス人にはもともと、「日頃、一生懸命働くのはバカンスのため」という考え方があるようだ。それを諦めるのは、一年分の楽しみを根こそぎ奪われるようで、耐え難いのだろうか。

 次々とバカンスに出発する同僚を見送りながら、

−−どっちがいいとか悪いとかよりも、後で反動がこなけりゃいいんだけど。

と、幸葉は呟いていた。

 残念ながら彼女の懸念は的中し、バカンスシーズンが始まってしばらくした七月中旬頃から、感染者は再び急増した。

 全国で公共施設内のマスク着用が義務づけられ、観光地では屋外でもマスクを着用せねばならなくなった。

 それでも、こんな時期に四六時中マスクをして、パリで仕事をしている物好きは自分達ぐらいのような気が、エラリイにもする。

 こうして、店も開いているし、事務所に出てきている人間もいるのだが、それは単にバカンスの時期をずらしているだけだったり、一応、用心して期間を短縮しているからにすぎない。

「まあ、『地の華』の人達も仕事をしているわけだから」

 エースがなだめるように言った。

 今日の第一回交渉は、エラリイ達三人と、ジョセフィーヌ、『地の華』のデザイン室長ギヨームの顔合わせだった。

 初回なので、こちらはホームページの非難に対する反論だけにとどめておく。ダイヤルザウルスはミュゼット達二人が何年も構想を練っていたオリジナル作品で、ティラノサウルスの縮尺模型とはまるで関係がないこと、二つの作品を比べても、剽窃といわれるような類似点は見当たらないことの二点だ。

−−そもそも、なぜ剽窃だなどと思われたのか、その理由を聞かせて頂きたいのですが。

 エースが何度訊ねても、ジョセフィーヌは、

−−そんなことは、あのお二人が胸に手を当てればすぐわかることですわ。

と、言を左右するばかりだ。エラリイがたまりかねて、

−−なあ、おばさん。こうやって専門家が出張って来てるんだから、物体つけるのはよして、腹を割って話そうぜ。でないと、あんたがホームページでいってたみたいに、出るとこ出た方が話が早いってことになっちまうからよ。

と言うと、凍るような蔑みの目を向けられた。下層階級の人間が成り上がった時、一番見たくないのは、自分と似た出自の者のようだ。

 結局、特に進展がないまま、第二回の日にちを決めただけで、交渉は終わった。

 午後には、玲子が報告を聞くために事務所にやってきた。ミュゼットは、焼成があるので、今日は一日手が離せないらしい。

「胸に手を当ててって言われても……」

 玲子は苦笑した。

「逆に、そこをはっきり言えないというのが、いいがかりであることを自覚していると取れないこともないのですが」

 エースは、ダイヤルザウルスのデザイン画のコピーを玲子に返した。向こうには見せただけで、もちろん渡しはしない。玲子はきれいにたたんでバッグにしまった。

「実は、わたしの方でもあれから知り合いにあたってみたんです。そうしたら、あのジョセフィーヌという人は、これまでにも随分若手作家を食い物にしてきたみたいなんです」

 光るものを感じる若手宝飾家を見つけると、甘い言葉で誘いをかけ、低賃金でこき使ったり、『地の華』の正社員デザイナーの名前で作品を発表したりしたそうだ。

「それも、移民とか、外国人とか、ちょっと立場の弱い人を上手く利用するそうなんです。今度のことも、わたしが日本人なのでつけこまれたのかもしれません。だとしたら、ミュゼットには申し訳ないことをしました」

「ミュゼットさんは、そんな風には思っていらっしゃいませんよ」

 何でおまえにわかるんだと突っ込みたくなるほど、エースは確信ありげだ。玲子は釣り込まれるように微笑んだ。

「ミュゼットさんは、日本で焼き物を学ばれたんですよね」

 幸葉が訊いた。

「そうです。日本の窯元で本格的に修行したんです。だから、あの子も絵付けはできるんですが、自分自身の絵付けにはどうも物足りなさを感じていたようです。そこへ、それまで油絵一本でやってきたわたしが、思い切ってこうしたらとか、横から勝手な口をはさんでいたら、それを面白がってくれて」

 コンビ誕生というわけだ。玲子にとって、油彩から陶器の絵付けへの転向は簡単なことではなかったが、一緒に一つのものを作る人間がいるということが、意外に心の支えになったという。

 日本の陶芸を学んだミュゼット、油彩の経験を生かして絵付けをする玲子。二人の技が融合した独特のテイストが、今、ようやく評価され始めたところだった。

「じゃあ、バカンスなんか、忙しくて行けないんじゃですか?」

 幸葉が訊くと、

「忙しくてというより、お金がないですね」

 玲子は頭を掻いた。まだ、製作にかかるコストを大幅に上回るような利益は出ていないようだ。

「今回のことで、改めて思い知りました。わたし達、まだまだ社会的弱者なんだなあって」

 二人がそこそこ名の通った作家なら、ジョセフィーヌに目をつけられることも、こんないやがらせを仕掛けられることもなかったろう。

「幸い、今契約しているお店は、私達のことを信用してくれて、コーナーもそのままにしてくれているんですけど、恐竜シリーズの第三弾は先延ばしになってしまって。本当は、花器の方もお手頃価格のを出す予定だったんです。わたし達にはそれだけでもかなり痛手なんですよ。ただでさえ、ロックダウンのせいで、展示即売会も大幅に遅れちゃってたので」

「そういう被害って、わかりにくいから、国もなかなか支援してくれませんしね」

 幸葉が妙にしみじみした口調で言ったのは、先日の法律相談を思い出したのだろうか。

 玲子達の蒙っている被害も見えにくい被害だろう。目の前にあるのに見えない被害。「誰も置き去りにしない」と唱える者の死角に入ってしまう被害。

『地の華』は、のらくらと交渉を長引かせることで、彼女達をその被害で押し潰そうとしているのだろうか。次回も進展がなければ、こちらが主導権を握れるような手を打つ必要があるかもしれない。

 そんなことを話し合って、玲子は帰って行った。



 クライアントの大半がバカンスに出かけてしまっているので、エラリイ達も早仕舞いして帰宅することにした。

 午後に一件、飛び込みの法律相談があり、この日の法律相談当番だったエラリイが聴くことになった。

 ところが、相談者は開口一番、

「わたしは、そんな安物のスーツを着ている弁護士に相談したくありません」

と言い放った。エラリイも、こういう相手を強いてつかもうとは思わない。

「では、アルマーニを着ている弁護士にご相談下さい」

と言って、お引取り願おうとした。しかし、なぜかこういう者ほどあっさりとは引き下がらない。

「この事務所には他にも弁護士さんがいらっしゃるようですね。どなたかご紹介願えませんか?」

 ちょうどこの時、手があいていたのはエースだけだったので、今度は彼が出て行った。

 エースもさして上等なスーツを着ているわけではないが、顔立ちが端正で物腰にも品があるので、相談者のお眼鏡にかなったようだ。不思議だったのは、彼がなぜか、エラリイとの共同受任を希望したことだ。

(何で、おれもなんだよ)

と思いつつ相談内容を聴くうちに、何となくその理由に思い当たった。

 彼は、貧困層がひしめく集合住宅で生れ育ち、いつか広い庭のある戸建住宅に住むのが夢だったという。幸い、起業に成功して、かなり裕福な身分になり、つい最近、念願だったマイホームを手に入れた。ところが、これがとんだ欠陥住宅だったらしい。

 彼の心理として、忘れてしまいたい昔を想起させるエラリイは不愉快だ。だが、自身で苦情を申し入れた時の業者の対応がかなり剣呑だったので、お上品なエースだけでは心許なく思えたのだろう。

「終わったら、絶対、報酬ふっかけろよ。あんなムカつく奴の相手させられる慰謝料込みだ」

「わかったよ。金額はきみが決めてくれ」

 お人好しのエースはそう言って、笑った。

 ロフトに戻って、キッチンで紅茶を飲みながら、エラリイは『地の華』のホームページをチェックした。今日の交渉を踏まえて、新しい記事を載せていないかをチェックしたのである。

 はたして、ジョセフィーヌとギヨームが連名で事件関連の記事を更新していた。ミュゼット達は、早速、弁護士を三人も立てて−−それも、金に詰まって、どんな依頼でも受けそうな弁護士達だ−−話し合いを求めてきた。この過剰反応が、彼女達のやましさをよくあらわしている云々。

「気の強いオバハンだなあ。名誉毀損で訴えてやろうか」

「しかし、何でこうもあの二人を目の敵にするのかなあ」 

 エースは顎に指をあてた。

「自分達としては破格の申し出をしたつもりなのに、あっさり断られた腹いせにしては、執拗過ぎるような……」

「何か、ダイヤルザウルスにこだわってるよな。もしかして、あの目に使われてるのはすげえ価値のあるダイヤだとか」

「それなら溝なんて切れないだろう。それに、ダイヤルザウルス自体がほしいなら、商品を購入すればいい」

 二人がああだこうだ言い合っているところへ、ルームメイトのセルジュが帰って来た。

「何だ、おまえら。今日は早いな」

「クライアントも相手方も、みんなバカンス行っちまってんだもん。おまえこそ、テルトル広場で観光客の似顔絵描いてないでいいのか?」

 セルジュは白に近い金髪の頭を振った。

「いや、今年は観光客も少ないな。特に、アジアからの客が来ない」

 そう言いながら、ふとエラリイのパソコンに目をやり、

「何だ、ギヨームじゃないか。あいつ、『地の華』のデザイン室長なんかやってんのか」

と、呟いた。

「セルジュ、こいつ、知り合い?」

「という程親しくはなかったがな。彼も昔、絵を描いていたから、一応絵描き仲間だったことがあるんだ。写真機のギヨームなんて呼ばれててよ」

 ギヨームは、一度見たものを写真のように記憶する能力があるという。

「おれ達がせっせとスケッチしてるのを尻目に、余裕しゃくしゃくだったぜ。もっとも、それが画業に仇なすことになったのは皮肉だったが」

 ギヨームの作品は、正確かつ細密ではあったが、素人が撮ったスナップ写真のように平板でテーマが浮き上がってこないと、評されていた。本人も、構図を工夫したり、あれこれ苦心はしていたが、

−−これなら、人が絵筆を持って描かなくとも、カメラで写せばいい。

という評価は覆せなかった。

「そのうち、絵の世界から消えちまったんで、おれも今見るまで忘れてたんだが」

「それだ」

 エラリイは声を上げた。

「なあ、エース、ミュゼットさん達の工房には、こいつも来てたっていったよな。その時、デザインブックも工房にあって、ちょうどティラノサウルスみたいなフォルムのダイヤルザウルスのページが開かれてたって。それをギヨームの奴がカシャッと記憶したんだ。デザイン画の隅に書かれてた文句まで正確にな。そいつが作品のタイトルになってるのがいい証拠だぜ」

「多分……そうだったんだろうね」 

「やっぱり、盗作したのは、あいつらの方だったんだよ。ミュゼットさん達に騒がれる前に、先手を打って、彼女達の作品が剽窃だって言い立てたんじゃねえ? ネットって、先に言ったもん勝ちみたいなとこあるから」 

「しかし、それは『地の華』にとっても賭けになるんじゃないかな。わざわざ指摘しなければ、二体が似ているなんて誰も思わないかもしれないんだし」 

「わたし、アリサがけしかけたんじゃないかと思うわ。お父さんに頼んで」

 あたりを払うような涼やかな声が、セルジュの背後で響いた。セルジュは左手を額に当てる。

 そこには、ルナ・ヴァレリーが、ピンクと白のキャリーケースを抱えて立っていた。

「何で、おまえがこんなとこにいるんだ?」

 エラリイは目を剥いた。

「あら、あたしはセルジュのお客よ」

 ルナは一枚の絵をエラリイの眼前に突きつけた。そこには、アレクサンドリーヌを抱いたルナが、どちらも黙っていれば千両役者という風情で描かれている。

「おれは、何度も追っ払ったんだ。なのに……まさか、大の男が、こんな女の子につきまとわれてますって騒ぎ立てるわけにもいかんだろう」

 その日、ルナは、行きつけのトリマーがまだバカンスを取っていないことを知り、慌てて予約を入れて、アレクサンドリーヌを連れて行ったそうだ。帰りにテルトル広場を通りかかったので、こざっぱりしたアレックスと自分を描いて貰おうと思い立ち、セルジュに似顔絵を頼んだという。

(嘘だ。それは嘘だ)

 アレクサンドリーヌをトリマーに連れて行ったことと、セルジュに似顔絵を描いて貰ったことは本当でも、いかにも「たまたま」テルトル広場を通りかかったような、そして、「偶然」セルジュに似顔絵を頼んだような物言いは、事実に反している、とエラリイは思った。でなければ、こんなところまでついてくるはずがない。

「アレックスは今日の売り上げにも少し貢献したのよ」

 ルナの似顔絵が出来上がった後、外国人観光客が何人か、「自分もその猫と一緒に描いてほしい」と言い出したのだそうだ。

「それで、テルトル広場が流血の大惨事になったんで、早く帰ってきたのか?」

 セルジュに訊いたのだが、返事をしたのはルナだった。

「失礼ね。この子、外面はそこそこいいのよ。ジーニーみたいな猫に遭遇した時は別だけど」

 エラリイがハッと腰を浮かせるより早く、エースが立ち上がって、彼らの居住スペースに向った。猫達をエラリイの部屋に閉じ込めに行ったのだ。

「で、アリサって誰?」

 さっき唐突に飛び出した固有名詞について訊ねた。

「同じリセの子なんだけど、すっごいイヤな子なの。お父さんが大会社の社長なの鼻にかけてて、おまけに、何かにつけて、あたしと張り合ってくるのよね。例のティラノの模型だって、あたしのインスタ見てお父さんにねだったのよ、きっと」

 ルナは、『地の華』のティラノサウルスと共に写ったアリサのインスタグラムを携帯に表示した。


〈高級感溢れ、学問的価値もある精密縮尺模型を、わたしのイメージで仕上げて貰いました〉 


 写真の少女は、赤い髪をポニーテールにし、そばかすの散った頬を上げて笑っている。彼女のいやな部分を見ていないエラリイには、単純に可愛い娘だと感じられた。

「わたしのイメージって、この小花模様のこと?」

 いつの間にか戻って来ていたエースが訊いた。

「そうなのよ。このティラノ、最初は他のと同じシンプルな模型だったらしいの。でも、アリサのお父さんが、もう少し女の子らしい雰囲気にしてくれたら、買い取って娘に贈るって言ったらしいわ。それでデザイナーさんが花模様を描いてくれたみたいなんだけど」

「ということは、そのお父さんて、『地の華』の工房に出入りできるわけ?」

 ルナは頷いた。聞けば、『地の華』に宝飾用の金属を納入しているのは、アリサの父親の会社だという。展覧会の直前に工房を覗いた彼は、ティラノサウルスが気に入ってデザイナーに注文を出したそうだ。

「すみません。ルナさんは、その話をいつ頃、誰からお聞きになられたんですか?」

 エースが、事件を受けると必ず作る時系列表を広げた。

「アリサ自身よ。このインスタを上げたあたりから、チャットで言いふらしまくりだったんだから。『日本では百の花の中で一番愛されている花の模様なのよ』って」

「というと、六月末から七月初めあたりことですね」

 エースは時系列表に書き加えた。

「おれは陶芸のことはよくわからんが」

 セルジュが口をはさんだ。

「ある程度出来上がったものに後から変更を加えるってのは、難しいんじゃないのか?」

「そうねえ。後からちょっちょっと描き足すわけにもいかなかっただろうから、あれは大変だったんじゃないかって、ミュゼ姉も言ってたわ」

「で、そのアリサって子がけしかけたって、どういうこと?」

 エラリイが訊くと、ルナは言った。

「あの子ったら、よせばいいのに、どっちのティラノがいいと思うか、みんなに投票させたのよ。ちゃんと数えたわけじゃないけど、概ねあたしの方が好評だったみたい。だから、お父さんに頼んで、『地の華』がミュゼ姉達にいいがかりつけるよう、圧力かけさせたんだわ」

「そ、そこまでするかぁ?」

 いやはや、どちらも相当な自意識過剰だ。ティラノサウルスも呆れているかもしれない。

 その時、キャリーケースの中から不穏な唸り声が響き出した。

「あら、大変。この子、そろそろ疲れてきたんだわ」

 彼女は、ティラノサウルス・レックスの飼い主らしく、責任持ってロフトを辞去した。





 二度目の交渉を前に、エラリイ達三人と、ミュゼットと玲子は、エースの執務室で打ち合わせを行った。アパルトマンの一室なので、間取りは皆同じだが、弁護士によってかなりしつらえが違う。エースの部屋は、書斎のような重厚な佇まいだ。

 どっしりした執務机の前にガラスのテーブルがあり、エースはいつもこのテーブルを囲んで打ち合わせをしていた。

「あなた方のダイヤルザウルスですが、あれは普段と同じ工程でお作りになったんですか?」

 エースの質問に、玲子が答えた。

「はい。成形、素焼き、絵付け、焼成。大雑把にいうとそんな感じですが」

「特に、絵付けのところで特別な方法をとられたということはないですか?」

「ありません。いつも通りです」

 怪訝そうな顔をする二人に、エースは、『地の華』のティラノサウルスの突然のデザイン変更の話をした。

「もしかして、その工程であなた方の技法を使ったのかと思いまして」

「それはないですね。わたし達、いたってオーソドックスなやり方で作りましたから」

 ミュゼットも頷く。

「あれは、わたし達の方が、噂を聞いて、どうやったんだろうって言ってたんだよね」

「そうそう。特殊な紙に絵だけ描いて、熱転写したんじゃないかとか。ああいうところは、いくらでもお金をかけられるから、いろんなことができるだろうけど」

「デュバリエさんは、そういう技術的なところはどんどんクリアしていける人だから」

 逆にいうと、彼は優秀な技術者ではあっても、デザイナーとしての創造性には乏しいという評価があるようだ。もともと、前任者がオーナーと喧嘩して辞めた時、他に適任者がいなかったので、彼が昇格したといわれているらしい。

「わたし達は雑誌の広告で見る程度ですが、たしかに、最近の『地の華』の新作は、過去の名品の焼き直しが多いように見えます」

 玲子がやや辛辣に言った。

「あの恐竜模型展も、そのデュバリエって奴の仕事なの?」

 エラリイが訊いた。

「実地に指揮をとったのはそうでしょうね。わたし達がオファーを蹴ったことに対する意趣返しだったとしたら、驚くほど短期間で開催までもっていったと思いますが、実在した恐竜の精密縮尺模型というのが、彼の職人的な個性に上手くハマったんだと思います」

 エースが話を本題に戻した。

「前回の向こうの交渉態度からすると、『地の華』の思惑は、のらりくらりと問題を長引かせて、あなた方の評判をじわじわ落とすのが目的のようにも見えました。今後もそういう姿勢が続くようなら、こちらから事態を動かしていく必要もあるかもしれません。これはあくまで最終手段ですが、われわれが原告になって訴訟を起こすとか」

 ミュゼットと玲子は顔を見合わせた。

「わたし達、できれば、そういう泥試合みたいなのは避けたいんですが。注文もコンスタントに来るようになったので、創作に集中したいんです」

「そうでしょうね」

 エースも頷く。

「どうして、ダイヤルザウルスがこんなことの標的になっちゃったんだろう」

 玲子は後ろ髪をバサリと持ち上げた。

「わたし達は、ただ、冬来たりなば春遠からじ、みたいな作品を作りたかっただけなのに」

「これって、やっぱり季節をあらわしてるの?」

 手元のカラーコピーを見ながら、エラリイが訊いた。

 ミュゼットが穏やかな声で説明する。

「はい。他の三体は、胴体に、それぞれ、春、夏、秋を表す植物の絵を描きました。でも、ダイヤルザウルスには、あえて典型的な冬の花は描きませんでした。自分達を含め、今苦境に陥っている人々のもとに春を呼び込む、そんな意味をこめた作品にしたかったんです」

「結果、絵柄はあのスケッチと同じになっちゃったけどね」

 玲子が笑った。

「では、できる限り早期かつ穏便な解決を目指す方向で進めるとして、こちらとしてはどこまでは譲れて、どこからは無理なのかというラインを詰めていきましょう」

 エースが再度、話の舵を切った。



「これ以上、前回のような不毛な話し合いを続けても時間が無駄になるだけですから、こちらで和解案を作ってみましたの」

 事態を動かしたいのは向こうも同じらしく、ジョセフィーヌは開口一番、そう言って、和解案なるものをエースの前に滑らせた。

 前回もそうだったが、ジョセフィーヌはエース以外強いて視界に入れないような目の動かし方をする。白人で貴族的な容貌のエースのみが、自分達にふさわしい交渉相手だと言わんばかりだ。エラリイは、わざとエースに身を寄せてペーパーを覗き込んだ。

『地の華』の和解案なるものには、剽窃を認めて謝罪するだの、ダイヤルザウルスを破毀するだの、到底のめない条件が並んでいる。

「前回も申し上げましたが、具体的にどの点を剽窃だとお考えなのか、そこを示して頂けないと、こちらも認否の仕様がないんですが」

 エースの言葉に、ジョセフィーヌは玉を転がすような声で笑った。

「どの点って、全体ですわ。どう見たって物真似じゃありませんか」

「インターネットの書き込みなどを見ると、どこが盗作なのかわからないとか、全然違うように見えるという意見もかなりありますが」

「そんなのは、芸術がわからない素人の言うことでしょう。こちらは高名な鑑定家の意見書も貰っているんですよ」 

 ジョセフィーヌは分厚い紙束を取り出した。

「胴体の桜模様を梅の花にするなどの姑息な変更も見られるが、両者の類似点は到底偶然とは思えないという結論ですわ」

「桜?」

 幸葉が顔を上げて、ジョセフィーヌを見た。

「あれって、桜の花だったんですか?」

 今頃、何言ってんだ、てめえはよ。エラリイはあやうく声に出して言うところだった。たしかに、新聞広告の写真も、ホームページのカラーコピーも、大きなものではなかったので、ティラノの体に描かれた花が桜かどうかは、パッと見にはわかりにくい。

(それにしたって、今まで何見てたんだよ)

 ジョセフィーヌもそう思ったらしく、嘲るような口調で言った。

「そうですよ。日本人である先生がおわかりにならなかったなんて、信じられませんわ。タイトルを見ただけでも明らかじゃないかしら。百の花の中で一番目。日本人はそれほど桜を愛しているのでしょう? 桜の季節になると、何をおいても見なければと、物狂おしい思いにかられるほど。ヤッカノサキガケ。日本語ではそういうんじゃありませんの?」

 フランス語はhの音を発音しないので、hの入った外国語も、こんなふうにすっ飛んでしまう。幸葉の名前も、フランス人はユキアと発音する。

「いいえ。百花の魁はそういう意味ではありません」

 いつもは自信なげにぼそぼそしゃべる幸葉が、珍しくきっぱりと言い返した。

「百花の魁とは、桜ではなく梅の花を指す言葉です。日本では、まだ冬の寒気が残っていて他の花が蕾のままでいる頃、梅は先陣を切って開花します。まるで、自分が春を呼び込もうというように、寒さの中で凛然と咲くんです。百花の魁は、その様を讃える言葉です。百の花の中で一番最初に咲く花。桜のことではありません」

 幸葉はダイヤルザウルスの写真を取り上げて続けた。

「今回、ダイヤルザウルスと共に作られた三体の恐竜には、季節を明確に表す絵付けがされています。春の花々、夏のヒマワリ、秋のマロニエ。ですが、ダイヤルザウルスには冬を象徴する花は描かれていません。ミュゼットさん達は、コロナ禍で苦しむ全ての人に希望を感じて貰えるような作品を作りたいと、梅の花を選んだんです。冬と春のあわいの寒気の中、百花に魁て咲く梅に、苦境に立ち向かう強さと、そこまで来ている春という希望のメッセージをこめたんです」

 表情こそ変えないが、ジョセフィーヌの顔からは色が失われている。ギヨームの目も泳いでいるようだ。ここで両者をはったと見据えれば決まるのだが、幸葉は手元のカラーコピーに目を落としたまま、まるで紙に話しかけているようだ。

「あなた方がミュゼットさん達の工房を訪れた時、ギヨームさんはティラノサウルスのフォルムに近いダイヤルザウルスのデザイン画をご覧になったんじゃないでしょうか。そして、写真機のような記憶力で記憶された。おそらく、スケッチブックの隅に書かれた百花の魁のフランス語訳まで」

 ギヨームの眉間の皺が深くなる。

「その時は、ただ、見て、記憶されただけだったと思います。でも、恐竜模型展の準備が終盤にさしかかった頃、大事な取引先の社長であるアリサさんのお父さんから、ティラノサウルスの模型をお嬢さんにプレゼントしたいのでフェミニンな雰囲気に仕上げてほしいという注文が入りました。デュバリエ氏は、聞きかじりで失礼ですが、デザイナーとしての創意に乏しいといわれているそうなので、随分悩まれたのではないでしょうか。ギヨームさんも、デザイナー室長として何とか対応しなければならなかったでしょう。そこで思い浮かんだのが、ミュゼットさん達の工房で目にしたデザイン画だったんじゃないですか? ギヨームさんは、百花の魁のフランス語訳をジョセフィーヌさんと同じように解釈して、恐竜の胴体に桜の花模様を描いてはどうかと、デュバリエさんにアドバイスしたのではないでしょうか。桜は大体三月から四月にかけて咲きますから、四月生まれのお嬢さんへの贈り物にもふさわしい絵柄ですし、何より、可憐に仕上がります。実際、社長さんにも、お嬢さんにも喜んで頂けたようですが、一つ計算外だったのは、デュバリエさんが百の花の中で一番目という言葉を作品のタイトルにしてしまったことです。それは、ある意味、ギヨームさんがダイヤルザウルスのデザイン画を見た証拠にもなりうるので、ギヨームさんは気が揉めたのではないでしょうか。しかも、アリサさんは、インスタグラムに投稿したり、チャットで吹聴したりして、情報が拡散していく。ミュゼットさん達が何か言ってこないか、気が気でなかったのでは。そんなタイミングで、彼女達が、ダイヤルザウルスの完成版を含む四体の恐竜雑貨を製作しました。何らやましいところがなければ気にすることもなかったかもしれませんが、ギヨームさんとしては、何か意図があるのではないかと深読みせざるを得なかった。あるいは、全くの第三者が、両者の類似性を指摘するかもしれない。そこで、ジョセフィーヌさんをたきつけ、先手を打って、ミュゼットさん達の方が『地の華』の模倣をしたと騒ぎ立てたのではないでしょうか。これは、『地の華』にとっても、諸刃の剣となるアクションでしたが、老舗高級宝飾店の持つ社会的権力と財力をもってすれば、何ら後ろ盾を持たない二人の新進作家など、押しつぶせると踏んだのではないですか?」

 ジョセフィーヌの顔が歪んだ。火を噴くような目でギヨームを睨みつける。

「どういうことなの? あなたが、こんなのは盗作だ、見逃すべきではない、デュバリエがアイデアに詰まって人真似をしたなんて評判が立ったら困る、なんていうから……!」

 ギヨームは音高く舌打ちした。

「こういう場面で口を閉じておけないのが、あんたの育ちの悪さだ。感情のままにしゃべりやがって」

「まあ、よくも。そっちこそ、三流の画家崩れのくせに」

「その通りさ。だが、あんたはそういう人間が欲しかったんだろう? あんたの、伝統も品格もかなぐり捨てた金儲け主義に協力してくれる右腕が」

 いまや、ギヨームの目にも炎が点っている。

「だが、おれはあんたより、『地の華』のことを思ってたぜ。商売敵には負けたくなかった。だから、デュバリエをチーフデザイナーにするのは反対だったんだ。そもそも、あんたはフランソワを手放すべきじゃなかった。おれは大反対したよな? たとえ気に食わない相手でも、ビジネスにおいては、私情で切っちゃいけないんだ。あいつが出て行ってからというもの、うちの株価は右肩下がりだ。あたりまえさ。お祖母ちゃんが持ってるのとたいして代わり映えしない新作なんかに、誰が大枚はたくもんか。コロナ禍で、馬鹿な外国人観光客が激減してからの業績を見ろ。目も当てられないじゃないか」

 これも、「見えにくい被害」なのだろうか。エラリイは思う。こいつらに共感する気にはなれないが、老舗高級店といえども(だからこそ?)、やはり経営には懸命に足掻かねばならないようだ。そういえば、『たゆたえど沈まず』というのが、パリのモットーだったような。

 ふと幸葉を見ると、あれだけの推理を披露したのが嘘のように、エースの隣席にひっそりと腰を降ろしていた。



「すごいじゃない、ユキアさん。打ち合わせの時はほとんどしゃべらなくて、ちょっと頼りなさそうに見えたけど、まるで名探偵みたい」

『地の華』との二回目の、そして最後となった交渉の報告会に、またまたしゃしゃり出てきたルナ・ヴァレリーに、エラリイは言った。

「おまえなあ、固有名詞ぐらい、hの発音するように努力してみれば? おれ達だって、母国語にない音練習すんだからよ」

「なによ、あんたのrの発音なんか、てんでなってないじゃない。鼻母音だっていいかげんだし」

 フーッ。エラリイは自分が猫になって、全身の毛を逆立てている気分になった。目の前のルナがアレクサンドリーヌに見える。あの猫にして、この飼い主ありだ。

 名探偵幸葉はというと、突然舞い込んだ刑事事件の接見に行っていて、この場にはいなかった。彼女の眼前でも、この娘は「頼りなさそう」などという言葉を使う気だったのだろうか。

 あの後、『地の華』は、「高名な鑑定家に鑑定を依頼したところ、百パーセント剽窃とは言い切れないという意見だった。われわれは、老舗宝飾店の名にかけて、百パーセントの確証を持てない主張をすることはできない」という広告を出して幕引きをはかった。ミュゼット達がそれでいいというので、事件は解決をみたことになる。

「『地の華』は、百花の魁をそんな意味に解釈していたんですね。桜の花なのにおかしいなと思ってはいたんですが」

 日本人である玲子はもちろん、日本の窯元で何年も修行したミュゼットも正しい意味を知っている。

 エラリイ達は久しぶりに基準額の弁護士費用を一括払いして貰えた上に、小ぶりのダイヤルザウルスのペンホルダーをそれぞれ一体ずつプレゼントされた。

「いつか、オークションで高値がつくように頑張ります」

 二人は力強く言った。



「『地の華』のギヨームとデュバリエが辞職したって」

 広げた新聞越しに、ヴァレリー弁護士の声が聞こえてきた。

「へえ?」

 われながら間の抜けた声だと思いながら、エラリイは相槌を打つ。

 おそらく、今回の空騒ぎの責任を取ったか取らされたかしたのだろう。デュバリエまで辞める必要はないように思うが、いきさつを知れば、チーフデザイナーの地位に甘んじてはいられなかったのかもしれない。

 株主は、業績悪化を理由にオーナーの解任請求も考えているそうだが、コロナ禍がどこまでいいわけになるかというところか。

 ヴァレリー弁護士は新聞をたたんで、顔を覗かせた。

「ルナがアリサさんと大喧嘩になる前に、ユキアが真相を見抜いてくれて良かったよ。でなけりゃ、今頃、こっちがアリサさんのお父さんに怒鳴り込まれていたかもしれない」

「ああ、アリサが父親をけしかけて、『地の華』に盗作騒ぎを起こさせたって話? あれも、結果的には貴重な情報だったけど」

 エラリイは、ヴァレリー弁護士を見つめ返した。

「先生の娘さんさぁ、あのものの言い方何とかしねえと、社会に出てから叩かれるぞ。て、礼儀知らずのおれにこんなこと言われてる時点で、かなりヤバイと思うけど」

 ヴァレリー弁護士は頭を掻いた。

「いや、娘もね。年長者に対して失礼な口をきいているという自覚はあるみたいなんだ。ただ、きみに対すると、妙なモードに入ってしまうらしい」

「妙なモード? 何、それ」

「娘が言うには、自分がアレクサンドリーヌになって、きみの飼い猫の、何ていったっけ、ジーニアス? 彼と喧嘩しているような気分になるらしい」

 何だ、向こうも同じだったのか。いや、だからといって、納得できるわけでは……

 気持ちが思い切り顔に出ていたらしく、ヴァレリー弁護士は苦笑した。

「申し訳ない。どうも、ぼくは親馬鹿なようで、評価が甘くなりがちなんだ。今日にでもきちんと注意しておくよ」

「それと、もう一つききたいんだけど」

 エラリイは居住まいを正した。

「今回の事件、何でおれ達三人に振ってきたの? ミュゼットさんの依頼なら、先生がやってもよかったんじゃねえ?」

 ヴァレリー弁護士はクスッと笑った。

「気になったことは突き詰める。きみの長所なんだろうね」

「長所でも短所でもいいよ。今さら、変わんねえだろうし」

 ヴァレリー弁護士は微苦笑した。

「最初はぼくがやるつもりだったんだ。身内の依頼だし、相手もそこそこ手強そうだったからね。でも、ルナが、それは安直じゃないかと言い出したんだ」

「ルナが?」

「うん。今現在、ぼくのクライアントには金払いのいい人が多いだろうって」

−−それなのに、ミュゼ姉達みたいな、きちんと費用を払ってくれそうな依頼者を、パパがあたりまえみたいにとっちゃうのは、配慮に乏しくない? プロボノ事件を一生懸命やってくれる弁護士に感謝してるっていうんなら、たまには、しっかりしたクライアントを回してあげてもいいんじゃないかと思うの。

 ルナの一声で、プロボノ受任率同率一位の三人にこの案件が回ってきたらしい。

「費用を三等分すれば、司法扶助とさしてかわらなくなっちゃうかもしれないけど、なぜか、きみ達三人の顔が同時にパッと浮かんだんだよね」

 ぼくは直感には従う主義なんだ、とヴァレリー弁護士は微笑った。

 たしかに、外見も立居振舞も、見るからに英国紳士のエースがいたから、ジョセフィーヌもとりあえず交渉のテーブルについたのだろうし、彼女とギヨームから問わず語りに自白を引き出せたのは、幸葉が日本人だったからこそだ。

「でも、おれは? あんまり存在意義なかった気がするな」

「そんなことないわよ。あんたはジョセフィーヌのストレス源として、心理的揺さぶりをかけてたんだと思うわ」

 エラリイは飛び上がりそうになった。こいつはジーニーに負けず劣らず人を驚かせるのが上手い。

「今度は何しに来たんだよ」

「パパの忘れ物を届けにきただけよ。ハイ」

「やあ、悪かったね、ルナ」

「あたしもそんなに暇じゃないんだから、あんまり気軽に言いつけないでよね」

 ルナはそう言うと、エラリイに向き直った。

「ジョセフィーヌはやさしそうな顔して、すごい高慢ちきだって評判なの。お客さんに対しても、身なりや持ち物で露骨に見下した態度取るんですって。オーナーがそうだから、店員さんにも慇懃無礼な人が多くなって、そういうのも問題になってたらしいわよ。でも、それって、劣等感の裏返しだと思わない?」

 エラリイは、つい最近聴いた欠陥住宅の法律相談を思い出した。あの相談者も、貧しかった過去を振り払おうとして、痛々しいほどだった。

この娘の憎たらしいところは、一言多い上に、それがいちいち的を射ていることだ。 

「ジョセフィーヌはあなたを見るたびに、自分でも認めたくない劣等感を刺激されてたんだと思うわ。彼女が最後にブチ切れて、よけいなことを口走ったのは、あんたの存在が与える無言のストレスが限界値に達してたからよ、きっと」

「それって、全っ然、ほめてねえよな?」

「ルナ、あのね、人と話す時は、相手の立場や感情も慮って、もっと言葉を選んでだね……」

 ヴァレリー弁護士の物柔らかな声がスーッと遠くなる。こいつの両親は、優美だが凶暴なアレクサンドリーヌと、最強最凶のティラノサウルス・レックスだ。両者の間に生まれたアレクサンドリーヌ・レックスだ。

 エラリイは産毛が逆立つのを感じた。ルナも両眼をらんらんと光らせている。二匹の獣は、正面から睨み合った。

               (了)



 









 











 

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