第66話 愛と再会の地底湖(終)
久々に生まれ故郷のツノシカ村に戻ると、誰も怒っておらず、久しぶりだな、元気そうでなによりだと歓迎してくれた。
あまりにも普段通り過ぎて、肩の力が抜けたくらいだ。
隣に住んでいるおじさんが言うには、「まあ、いつか出て行くんだろうって思ってたからな」とのことである。
家に帰ると、じいちゃんが普通に出迎えてくれた。俺を育ててくれた人であり、俺の名付け親でもある。
「じいちゃん、何も言わずに出て行ってごめんな。それと、今まで育ててくれて、本当にありがとう」
じいちゃんは不審そうに眉間にしわを寄せた。
「なんだオリヴァン、もうすぐ死ぬのか? それとも外で何か悪いもんでも食ったか?」
「死なないし、わりといいもん食ってたよ。それより、聞いてくれ。俺も今、シンシアさんっていう人から医療を学んでるんだ。そのうち、じいちゃんの仕事も手伝えるかもしれないぜ」
「……そんなんでいいと本気で思ってるのか?」
「え?」
喜ばそうと思ったのに、怒られている。予想外の反応に、戸惑いを隠せない。人を助ける立派な仕事だ。それの何がいけないっていうんだ。
「急に出て行って村のみんなに迷惑かけたんだ。そんなオリヴァンの人生はな、もっと英雄とか大勇者とか、燦然と輝かしいものでなくてはならない」
「俺にはそんな力は……」
「ただ暗いところを流れる河ではなく、空に輝く炎になれ。お前が英雄オリヴァーに憧れたように、お前こそが、みんなの憧れになれるように。……それが、この村を一歩でも出ちまったお前が、お前らしくあるための、唯一の道だ」
「そんなこと言われても」
「いつか、言わせてくれ。オリヴァンを育てたのは自分だってな」
「無茶言うなよ、じいちゃん」
「無茶でも無理でもない。過去を視る目で知っておるだろう? お前の両親は、村のため、子供のため、未来のために強敵に挑み、全身全霊で戦って命を落としたのだ。お前には、勇者の血が流れておるんだぞ」
じいちゃんは、千里眼でも持っているのだろうか。それとも年の功か。いずれにしても、俺のスキルのこともわかっていて、俺がそのスキルを使って過去を見通したことも知っていた。
「ほら、わかったら出て行け。ここはもう、お前の家じゃあない。折れずにお前だけの道を行けばよい」
「俺だけの道?」
「……だがまぁ、たまには顔を見せてくれるのも、うれしいがな」
★
――俺だけの道って何だろう。
そんなことを考えながら歩いていた俺の足は、物心ついた時から毎朝ずっと通っていた道を踏みしめていた。
森の中を通る一本道は、神聖といわれる滝へと続いている。
毎朝の水汲みをしていた滝は、今日もとても静かだった。
滝の裏に回って桶を差し出すのは、本当に危険だったよな。今は誰がかわりに水汲み役をしているのだろうか。
いや、今にして思えば、俺以外を毎朝この場所に来させても、大して意味がないのかもしれない。
「そうか、ここは、俺の両親が……。だから……」
この下にあるのは、本当の両親が狼の魔王に挑み、そして散っていった地底の水たまりである。
考えすぎかもしれないけれど、じいちゃんが俺に毎朝やらせていたのは、本当は水汲みなんかじゃなくて、両親に顔を見せに来させてたってことなのかな。
真相はわからない。けれど、俺は冷たく真っ暗な穴の底を見つめて、なんとなくそこに温かさがあるように感じられた。
この場の空気を肌で感じて思うのは、悲しみよりも喜びの方が圧倒的に強いということだ。
「だって、何よりもさ、この場所は、俺がグレースと出会った場所だから」
大きな荷物で、ものすごい厚着だったよな。
運よく水たまりに落ちたあと、うつ伏せで水に浮かんだまま動かなかったから、少し焦ったよな。
「グレース……」
この場所だったら、久しぶりにグレースの映像メッセージでも見られるかと思って、空を見上げた。
映像は見えなかった。
「まあ、人生、そう上手くはいかないか」
しばらく諦めきれずに上のほうを見ていたら、岩の上にある草むらから、見知った大きな顔が見えていることに気付いた。
「は? リールフェン?」
大きなオオカミは、あわてた様子で顔を引っ込めた。
いや、リールフェンがこの場所にいるのは、おかしい。神聖皇帝が自分のところにいると言っていたはずだ。今ごろ王宮とか皇帝の邸宅にいないとおかしい。
一体どういうことなのかと混乱していると、また草が揺れる音がして、今度は青い服の少女が、岩の上に躍り出た。
白銀の髪をなびかせて、頬を赤らめていて、長い耳の先端も赤くなっていて、華奢な身体つき。それは、見間違うはずもない。どう見たって……。
「グレース……?」
彼女は、嬉しそうに照れた笑いを浮かべながら泣いていた。
彼女がここにいるということは、全てが報われたということだ。
両親とも先生ともうまくいって、友達もできて、彼女の頑張りが、全面的に認められたってことに違いない。
「オリヴァン!」
グレースは岩を蹴り、足下に深い深い穴があるのも構わずに、俺に向かって飛び上がった。
俺は大穴に落ちようとする彼女に思い切り手を伸ばし、引っ張り上げて、ふわりと土の上に着地させた。
今度は、ちゃんと彼女を水たまりに落とさずに、助けることができた。
「また、助けてくれたね」
俺は思わず、震える声の彼女を思い切り抱きしめた。笑いながら、止まらない涙を流し続けながら。
湿った彼女の髪が、優しく鼻先を撫でてくれた。
「グレース。大好きだ。これからは、ずっと一緒にいてくれ」
「うん。ありがとう、オリヴァン」
この滝は、俺たちにとってこの上なく神聖な滝だ。悪魔が住み着いているだとか、呪われていて地底湖に落ちた者は二度と地上に戻れないとか、そんなのはくだらない迷信だ。
愛をもった勇者たちが戦った場所であり、俺たちが二度も出会った滝だ。限りなく優しくて美しい繋がりの始まった場所なんだ。
★
今の住処であるザイデンシュトラーゼン城下町へ向かう道中、グレースと話しながら歩いた。繋がれた手は、しっとりと冷たい。
彼女の話では、実は数か月前から、俺たちの世界に来ていたのだという。
「もちろん、交渉のためよ。今回の旅は、ちゃんと皆に認めてもらって出てきたの。やがて滅びを迎えることも信じてもらえたわ」
「よかったな。じゃあ、みんなで移住してくることになるのか?」
「ええ。一人残らず大移住よ。その時には、私の世界のみんなを紹介するわね。楽しみにしていて。私の世界では、オリヴァンは世界を救った大英雄になってるんだから」
「え。なんで」
「私がそういう話を広めたからよ。事実だから別にいいでしょ?」
「グレースはともかく、俺が大英雄ってのは、重圧が……」
「こうなったからには、私たち、たくさんの歴史に残るくらいの、善いことを重ねていかないとね。そうして、私たちの世界のみんなが、次々に最強の勇者になって、最強の英雄になって、私たちの善い行いなんか、あっという間にかき消していってくれるような……そんな世界を心から願うわ」
「いやいや、待ってくれ。俺はもう、歴史に残る偉業とか、そんなのはいらないんだ。普通がいいんだけどな……」
「大丈夫、オリヴァンみたいに優しいのが普通の、そういう世の中が来るわよ」
「やめてくれ、俺をお手本になんか、すべきじゃないと思うぞ?」
「オリヴァンの言う事もわかるわ。私もね、本当は、王女じゃなくって、ただの人としてオリヴァンと一緒になりたかったわよ。けど、これ以外に道はないのよ。両親が絶対に許してくれなかったの。だから、私が大勇者で、オリヴァンが大英雄。それで釣り合うからってことで、オリヴァンと一緒になることを許してもらえたの」
「ソソ、ソレデ、オトウサンとオカアサンはドコニ?」
「ふふっ、おかしい、なに緊張しているの?」
「そりゃだって、グレースは王女なんだから、つまりご両親は王様的な立場なわけだろ。緊張しないほうが無理って話だ」
「とりあえず安心して。まだマリーノーツには来てないわ」
「そっか。いや……いろいろと心の準備ができてなくてな。最近、グレースの近況が全然わからなかったから」
「それはそうよ。過去を視る目を遮断する力をもった人に協力してもらったの。オリヴァンをびっくりさせようと思って」
「それでか。ほんと、びっくりしたよ」
「ふふっ、よかった」
グレースは、いたずらっぽく笑った。そして、オオカミがついて来ている後ろを振り返って、
「リールフェンが見つかっちゃった時は、どうなることかと思ったわ」
オオカミは、なんとなく反省の雰囲気を出していた。
「あれ、でも待ってくれ。リールフェンって、さっき、オトキヨ様が預かってるとか言ってきたはずだが」
「だって、皇帝さまにも協力してもらったんだもの。オリヴァンを外に連れ出す理由をつくってもらったの」
「それでか。仲良いのか? あの皇帝と」
「気に入られてると思うわ。大勢の移住を受け入れてほしいっていう話を、二つ返事で受け入れてくれたし」
「何も考えてないだけだったりしてな」
★
二人でいくつもの会話を交わしながら歩いていると、ネオカナノという場所に来た。
そこそこ大きな交差点があり、その角には人気の茶屋とか酒を出す店とかが軒を連ねている。
ふと、茶屋にいた一人が、俺たちの姿に気付き、グレースに向かって突撃してきた。
「グレースぅ!」
金髪のハーフエルフ少女、エリザミスである。
熱烈に歓迎の抱擁をしたのだった。
「ザミス。久しぶり。元気だった?」
「あたりまえ。でもグレースいない。さびしかった」
「そうね。私もザミスがいなくて物足りなかったわ」
茶屋には、風呂あがりのタマサもいて、俺たちのところに歩み寄ると、「無事に会えたんだね。よかったよかった」と頷いていた。タマサもグルだったか。
何はともあれ、これにて俺とグレースの旅仲間が勢揃いとなった。
俺は、俺たちは、どこまででも行ける気がした。
俺たちが勝ち取った未来を抱きしめて、俺たちが救った世界を踏みしめて、また、みんなで旅をしたい。そんなに大それたものではなくていいんだ。グレースに俺たちのロウタスを案内してやるとかさ。
しかしまあ、その前に、まずはグレースとの再会祝いといこうか。
タマサは店員に耳打ちし、店員が持って来たのは、透明な液体であった。
「じゃあ、何に乾杯しようかね。わっちらの再会に? それとも、オリヴァンとグレースの、結婚にかい?」
タマサの突然の発言に、俺は思わず声を裏返した。
「け、結婚? いや、まだその、グレースのご両親にも会ったことないし、ツノシカの皆にもグレースを紹介してないんだ。もちろん俺は嫌じゃないけど、まだ結婚とかまでは……」
「ったくマジメだねえオリヴァンは。うまくいかなかったら、そん時はそん時で、また集まって飲めばいいんだよ。告白はもうしたんだろ?」
俺たちは頷いた。
「よし、じゃあ、オリヴァンとグレースの、輝かしい未来に……乾杯!」
優しくぶつかり合う、四つのグラス。
俺たちはグラスを傾ける。濃厚でありながら爽やかな甘みが、隅々まで広がっていく。
この味は、俺の知る限り世界で最も美味い飲み物。スイートエリクサーだ。
「おいしいわね」
全てを乗り越えたグレースは、とても幸せそうに微笑んだ。
心に掛かっていた幾重もの暗雲を払い去り、澄み切った心を取り戻させてくれるような、全世界最高の笑顔だった。
【終】