第65話 皇帝の采配
グレースからのメッセージが届かなくなった。
もう何週間も、グレースの顔を見ていない。
俺のスキルが弱まったり使えなくなったりしたわけじゃない。他のことはちゃんと視ることができるのに、グレースのこととなると映像に霧がかかったようになり、何も見えなくなってしまうのだ。
俺のことを忘れてしまったのだろうか。
忙しいのかもしれない。自分の世界の友達と遊ぶのが楽しくて、俺に向けてのメッセージをやめてしまったのかもしれない。グレースに恋人ができてしまったのかもしれない。
いつのまにかこの世を去ったなんてことは、考えたくないけれど……。
いろいろな可能性が頭の中を駆け巡り、最近は寝不足になってしまった。
医者のシンシアさんに助手としてこき使われていることもあり、疲労が溜まって、タマサやザミスと続けていたマリーノーツ内の探検にも、参加できないことが多くなった。
何よりも恐ろしいのは、このままグレースと二度と会えなくなって、彼女を忘れていくことだ。姿も、感触も、匂いも、美しい声も、薄れてほしくはなかった。
きっと、俺はグレースがいなくても、もはや一人で生きていけてしまうだろう。大きな河の一滴になって、いろいろな楽しみを見つけて、この世界を楽しんで生きていけてしまうだろう。
本当にそれでいいのか。
いや絶対によくない。
俺はグレースと共にありたいんだ。これからも、ずっと。
やはり俺のほうから会いに行くしかないのだろうか。新しい仕事も終わりにして、グレースの世界に行く方法を探す旅に出るべきなんだろうか。
そんなことを考え始めた、ある日のことである。
「うわぁ、なんだぁ」
俺は思わず飛び起きた。
休日にザイデンシュトラーゼン城下町にある自室でぐったりと寝坊していると、勝手に部屋に入ってきた赤い着物の女が、氷魔法で冷やした指先で頬を突いて来たのだ。
「オリヴァン、おもてに出なよ」
「ん、どうしたんだタマサ、いきなりケンカ売るみたいなこと言って。俺なにかしたか?」
「そういうわけじゃあないよ。リールフェンがいなくなったんだ。二日前くらいから帰ってこなくてな。探しに行くぞ」
「そりゃ大変じゃないか」
そして俺たちが、リールフェンが散歩していそうな広々とした草原に行くと、フードをかぶって顔を隠した黒い服の女の子が佇んでいた。俺たちの姿を見るなり手を振った。
「待っておったぞ、タマサ、オリヴァン」
それは、以前、闘技大会に参加したときに出会った、この世界を統べる神聖皇帝だった。
「オトキヨ様、どうしたんだい?」
タマサがたずねると、彼女は言うのだ。
「おそらく、おおきな狼のリールフェンを探しに来たのじゃろ?」
「なぜそれを」と俺。
そしたら少女は、うぬうぬと一人満足そうにうなづき、
「話は単純じゃ。リールフェンはわしが預かっておる。珍しい獣じゃからな、おいしいエサをやったら、よく懐いたわい」
「食い物で釣ったのか。ついていくリールフェンもリールフェンだが……。でも、どうか返してもらえないか? あいつは俺たちの友達だし、何よりグレースの大事な友達なんだ」
「返せ? おかしなことを言うのう。別に誘拐したわけではないんじゃぞ? だいたい、おぬしらにとってリールフェンは、独立した意志を持った仲間であって、愛玩動物などではなかろう」
言われてみればその通り。でも、たとえば、グレースの知らない所でリールフェンが誰かのものになったとする。そうしたら、グレースだって怒るか悲しむかすると思うのだ。だから、リールフェンは何としても俺たちの近くに置いておかねばならない。
「わしはのう、うまいもんをたらふく食いたいという、あやつの獣らしく可愛い望みを叶えてやろうとしてるだけじゃ。何か文句があるなら、わしの護衛をしておる女剣士プラムが相手になるが?」
偉そうに腕を組みながら少女は言った。
「護衛? 護衛なんてどこに……」
周囲を見ても、それらしき人はいない。黒フードの少女は、一人でぽつんと草原にいる。
「ふふ、いるんじゃよ。常にわしを守り続ける優秀な女じゃ。まあ、常に姿が見えぬほどの高速移動をしておるのでな、実は、わしにもついて来とるんだかどうかわからん」
「だめじゃん」
「ム? おぬし、本当に礼のなっとらんヤツじゃな。いくら人知れず世界を救ったからとて、調子に乗り過ぎではないか? あまりに敬虔さを欠いておると、寛大なわしでも、首を刎ねまくりたくなってしまうぞ?」
「それはすみません」
「もっと恭しく謝るがよい。膝をつき、頭を垂れて、手を交差し、地に拳を近づけるがよい。わしの護衛をコケにしてくれたのじゃ、気持ちの入らぬ謝罪など意味をなさん」
「じゃあ、その護衛の人に直接謝ろうと思うんだが、姿が見えないんじゃ謝りようがないな。ていうか、本当にいるのか? はったりじゃなく?」
「……ほう、カチンときたぞ。わしが許す。プラム、この男に攻撃じゃ」
「…………」
俺は身構えたけれど、何も起こらなかった。
「ええい、なにもオリヴァンを傷つけろとか、そういう話じゃないのじゃぞ! プラムの強さをこやつが疑っておったから、わからせてやれということじゃ! びびらせるだけでいいということがわからんのか!」
しかし、これにも返事はなかった。
「プラム……。プラム? まさか、おらぬのか? おぬし、今日はついて来てくれると約束したはずではないか。わしをこんな所で一人に……。不安じゃ、姿を見せい!」
やっぱり返事はなかった。
でも、しばらくして、かすかに溜息の音がきこえた。
次の瞬間、金属音がした。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
耳元で風切る音がしたかと思ったら、目の前で火花が散って、土に矢が刺さって振動している。
続いて、後方から弓を引き絞る音がきこえてきて、二本目の矢が発射された。
ザミスの矢は、何もない場所に飛んでいったように見えた。
ところが、矢は空中で止まり、すぐに一人の女性が姿を現した。
桃色ブラウスの女性は、矢をしっかりと左手で掴み取っていた。
「やるじゃん。まぐれじゃないみたいだね」
「あたりまえ。まるみえ」
常人には目にも止まらない動きだった。でもザミスには見えていた。
護衛は、本当に存在していた。
「いい目をしてるね。どう、一緒に、オトキヨ様の近衛として働いてみない?」
「おまえ誰だ」
「プラム・イーストロードっての。あなたは……金髪に、宝物の胸当て……。ということは、あなたが、八雲丸の娘のエリザミスか。言われてみれば、目がそっくりね」
「なんだ。おとうさん知ってるのか」
父親の知り合いだったと聞いて、ザミスは身を乗り出すような姿勢になった。
「昔、一緒に旅をしたこともあったのよ。大魔王を一緒に倒したりもしたよ」
「ほんとか? どんなだった?」
「ほんとだよ。ね、タマサ」
プラムさんはタマサに視線を送った。タマサは「そうだね」と頷いた。
「詳しい話は、お酒でも飲みながらしようよ。ネオカナノの交差点に美味しくてオシャレなところがあるの」
「お酒だめ。こわい」
「そっか。じゃあお茶とかお菓子とか、好き?」
「すき」
そうして、ザミスは、プラムさんという人について行ってしまった。
神聖皇帝のオトキヨ様という方も、「おういプラム、わしを置いていくなぁ」と言いながら追いかけていった。
残されたのは、俺とタマサの二人。
「……二人で、どこか行くか、タマサ。いつも雨ふる世界樹リュミエールにでも行って、神聖な霧でも味わうとかさ」
「お誘いは有難いけどね、やめとくよ。わっちは、いつもの英雄温泉にでも行こうかね」
「あ、じゃあ俺も温泉に……」
「今日は女性の入浴日だけど、いつからオリヴァンは女になったんだい?」
「ああ、そうだったか」
「あんた、グレースがいなくて寂しいからって、わっちのこと狙ってんじゃないだろうね? 年寄りをからかうもんじゃないよ」
タマサは大きな胸をおさえて警戒心を丸出しにしながら、俺をにらみつけた。
「そういうわけじゃ……」
寂しがっていることは認めるが、誰でも良いわけでは絶対にない。俺の心は、これからもグレースを想い続ける。
「……ところでオリヴァン、そろそろ生まれ故郷に事情を説明しに行ったらどうだい? 挨拶もせず、急に出てきたんだろ? 長いこと帰ってないって言うじゃないか。村の人たちが心配してるんじゃないのか?」
「時々、無事を知らせる伝言鳥を飛ばしてるから大丈夫だろう」
「顔を見せにいけってことだよ。オリヴァンだって、グレースと長い間会えてないから、元気ないんだろ? 村の人たちを元気づけておやりよ。それにさ、たまには、原点にかえってみるのもいいと思うぞ」
タマサは言いたいことを投げつけて、風呂に入りに行ってしまった。
タマサの言う事も一理ある。グレースも、自分の世界の人々に何も言わずに出てきてしまったことを後悔していた。俺の中にも、少しはそういう、ちゃんとしなかったことに対する後悔はくすぶっているのかもしれない。
「久々に、顔見せに行ってみるか」
俺は一人、ツノシカ村へと向かった。