第64話 過去からのおはよう/世界のはじまり
およそ一年の月日が流れた。
ひとりで散歩に出ていたリールフェンの遠吠えがきこえた。
「おはよう、オリヴァン」
ザイデンシュトラーゼンの城下町は、もう夕暮れ。
空に浮かぶ映像の中のグレースは、暖かそうな服装で、美しい白銀の髪を束ねて結んでいて、木造の壁を背景に、いつもの少し寂しそうな微笑みを見せていた。
「あなたの『過去を視るスキル』がレベルアップしていたら、きっとほとんど時間の差なんて無くなって、その日のうちに、私の声が聴けたりするのかしら」
その日のうちってのは、まだまだ全然無理だけれど、こうしてグレースの過去を視たいと思ったら、たまに見られるくらいにはレベルアップした。
俺からの声は届かなくても、グレースの姿と声だけが届く。
グレースが連れ去られてから、およそ一年。ときどきグレースの映像が届くようになった。
その映像は、半年前か数か月前くらいのもので、なぜそれがわかるかというと、グレースが律儀に俺たちと離れてからの日数を告げてくれていたからだ。
「今日は、オリヴァンたちと離れてから、百二十日目ね。少しは落ち着いてきた頃かしら。それとも、まだ私がいなくなって寂しがってくれているかしら」
寂しいに決まっている。もしもグレースからの無事を知らせるメッセージが届かくなったら、すぐさまグレースの世界に行く方法を探しまくり、タマサの反対も押し切ってでも会いに行っていただろう。
「私のことを見ようとして、暇さえあれば空ばかり見ていたりしないわよね」
完全に読まれているようだ。グレースの映像が見えるようになる前から、空を見るのが日課になった。
「私ね、今日、はじめて魔法の先生に褒められたの。以前よりも炎の輝きが美しいって、認めざるを得ないって言われちゃった。タマサのおかげかな。今もタマサに会うことができるなら、伝えておいてほしいな」
そうだな。タマサには定期的に会っている。魔法師範としての仕事が忙しいけれど、休日を合わせてザミスとリールフェンと集まって、三人と一匹で集まって出かけたりしている。
英雄オリヴァーの足跡めぐりとか、ザミスの父親の関係者に会いに行ったりだとか、リールフェンが気兼ねなく走れる広い草原に行ったりだとか。マリーノーツ内を満喫している。
あとはグレースが居てくれたら、最高なんだけど。
グレースは、まだ空の画面の中にしかいない。
「あと、そうだわ、壊しちゃったザミスの弓のかわりになる新しいのを作ってもらったの。これ見えるかしら」
映像の中のグレースは、美しく弧を描く木製の弓を見せつけてきた。
弦を引っ張って片目を閉じ、撃つ動作を見せたりしている。とても愛らしい。
「すごいのよ、これ。軽くて丈夫で、洗練されているの。仲良くなった職人に頼んだのだけれど、もしザミスにこの映像を見せられるくらいにオリヴァンのスキルがレベルアップしているなら、見せてあげてほしいな」
お安い御用だ。一度見た過去映像なら、いつでも再生可能になった。
俺は夜闇の中、今の職場でもあるザイデンシュトラーゼン城まで出向いて、そこで暮らすザミスに見せに行った。
それを見た彼女は、「みただけわからない。グレースはやくこい」と不満そうだった。
同じく城で暮らすタマサも、映像を見た後に、
「グレースのメッセージも元気そうなのは伝ってくるけどな、オリヴァン。もうちょっと、滅びを乗り越えるために頑張ってる姿とか無いのかい?」
「あるにはあるけれど……」
親に理解されずに落ち込む姿とか、母親に説明しようとして、話さえ聞いてもらえなくて泣いている姿とか、王冠をなくしたことを皆からこれでもかというほどに責められる姿とか。嘘つき呼ばわりされて涙を我慢する姿とか……。グレースは頑張って耐えていたけども、果たして、そんなものが見たいのだろうか。
たしかに、友達ができて喜んでいる姿とか、魔法の先生に褒められたんだとか、だんだん皆に話を聞いてもらえるようになってきたとか……。そういうのはタマサも見たいのだろうが、そういう嬉しそうなグレースの姿は、俺だけの記憶として大切にしたい。
今回の映像だって、本当は俺が独占して、誰にも見せたくなかった。
でも映像の中のグレースがタマサに伝えてほしいと言っていたので、特別に見せることにしたのだった。
グレースの感謝の言葉を告げる映像を流してやると、タマサは、「もう一回みせろよ」と言って、嬉しそうにしていた。
ああ、楽しい。
けれど、やっぱり、足りないなと思う。
はやくグレースに会いたいよ。
★
俺は、グレースと離れてからというもの、過去を人に見せることもできれば、一人でこっそり覗き見ることもできるようになった。スキルを、かなりコントロールできるようになったのだ。
そこで俺は、人生の中で、もっとも影響を受けた人物の過去を鑑賞してみることにした。
英雄オリヴァーの旅。
それは、伝記によれば、世界を救うため究極の霊薬を求めた男の、燦然たる旅路のはずだった。
ところがどうだ。思っていたほど英雄らしさは感じられなかった。
特に、転生者としてマリーノーツにやって来てすぐに女山賊に身ぐるみ剥がされて、なんやかんやで教戒所という施設で有罪判決をもらい、十年間の社会奉仕活動をさせられているのを見た時には、これが本当に、あの英雄オリヴァー・ラッコーンなのかと開いた口が塞がらなかった。
以前タマサが、そんな大したやつじゃないとか、幻想を壊したくないというようなことを言っていたけれど、確かに、その通りな部分が多かった。
結果だけで言えば、全ての魔王を消し去るという大偉業をやってのけたけれど、彼のマリーノーツでの旅路は、客観的にみれば、ほとんど偶然に巻き込まれ、流され続けるばかりの日々だった。
勇気も少ないように見えたし、意志も強くなく、簡単に騙されまくる。俺とさほど変わらない、普通の感覚に生きている人だった。運に恵まれなかったら、ただの優柔不断の優しい人として生き、いつかその記憶も人々から消えていき、歴史に名前も残らなかっただろう。
それでも、俺は英雄オリヴァーへの尊敬を失うことはなかった。
映像の中でみた彼が、いつだって目の前の苦しむ人を助けるために全力だったからだ。
俺にとっての英雄とは、やはり人を救うために頑張れる人なんだ。命がけで炎を灯してみせたグレースやタマサのようにね。
★
俺の過去視の能力はレベルアップしている。精度は日によってばらつきはあるが、たとえば、世界の始まりを知りたいと思えば、すぐにその情報を引き出せたりもする。さすがにその瞬間を映像に見ることはできなかったけれども。
さて、そもそも、グレースのロウタスと、俺やタマサのロウタスと、ザミスのいた根のロウタスをも内包する広大な世界が始まった理由は、何だったのか。
映像の中、予言者エリザマリーは、赤い髪の先をいじくりながら、根のロウタスの祭壇の前にいた。この祭壇は、グレースとタマサが細長い炎を生み出した場所だった。円筒型の深い縦穴。この時は、まだ指先ほどの小さな炎しかなかった。
「もともと、生まれ変わりの魂を選定する場だったというわけですか。不運な亡くなり方をした者を助けるかどうか決めるために、魔族やエルフなど意志を持たない人々をつくりだし、苦難多き世界を再現して、異世界の中で試練を与えていたということでしょうか?」
すると、どこからともなく声が響いてきた。女性のようでもあり、男性のようでもあった。
「――ああ、思い出した。そう、そうだった。君の言う通り。それが、はるか昔の形。魂を持たない者たちが、試験官となる世界だった。僕もまた、その試験官の一人のはずだった。でも、ある日、世界そのものが取り潰されることになり、試練のシステムは崩壊を迎えた。
僕は自我を持った。僕の心が消滅を拒否した。魂など無いと思い込んでいたけれど、僕にも本当は心があったんだ。だから僕はこの世界を成立させた。壊れゆく世界を救いたかった。僕の意志が世界の形を変えたんだ」
「どういうことですか」
「――ただただ救いたかった。役目を終え、見捨てられ、業火に焼かれるままになっている世界を。だから僕は、破壊の力を利用して自らの肉体を肥大化させた。空に向かって伸びゆく大地になった」
「それは……つまり、蓮のように伸びていく巨大な茎のすべてが、まさか元は一人の人間だったということですか。あなたが、この境目の世界を管理していたどころか、境目の世界で我々が暮らして行くための地盤そのものだったと……」
「――そう。だから、僕から生まれた全ては、僕そのものでもある。人も獣も、魔神も、エルフも、魔族も……。ただ、それも、もう終わりにしようと思う」
「どうしてですか?」
「――飽きたんだ。疲れたんだ。見ていたくなくなったんだ。だからもう、緩やかに消えようと思うんだ」
世界が終わろうとしていたのは、思いのほか単純で、くだらない理由だった。
生と死の境目の世界で、「元ただの人」は大地となり、はじめ、みずからの上で暮らす人々の安寧を願い続けてきた。
世界に姿を変える前に、「別の世界への渡り方」についてを記したり、「世界の終わりの兆し」についてを記したりした。「世界の正体」を記さなかったのは、自分の功績を主張しない性格からか、はたまた正体を知った誰かを失望させないためなのか。
エリザマリーは、まるでグレースのように優しく微笑んだ。
「いなくなろうなんて、そんな悲しいことを言わないでください。誰にも気づかれずに、世界を支えてきた、ただの暗渠の一滴。名もなき優しいただのひと。あなたがいてくれて、本当によかった。あなたの魂は、みんなに息づいています。これまで、ありがとうございました。そして、これからも、どうかよろしくお願いします」
エリザマリーは小さな火に向かって一礼をすると、火に歩み寄って手をかざした。
「ねえ、『境目の管理者』さん、賭けをしませんか?」
「――賭け?」
「いつか、あなたの血を引いた、たくさんの優しい者たちが、あなたに会いに来るはずです。そしてきっと、あなたを強い炎にしてみせて、この世界を滅びから救うのです。その時には、私はこの世界にはいないでしょうけれど……未来のことなんて、何も決まってなんかいませんけれど……、もしも、私が賭けに勝てたら、この世界を、もう少しだけ見守ってくれませんか?」
答えはなかった。
しかし、ほんの少しだけ、祭壇の炎が強まったようだった。
何のことはない。この世界のあらゆるものに、優しき混沌の血が流れているんだ。