第63話 魔神の采配
俺たちは、滅びた世界から飛び立った。
怪鳥型の魔神である闇の紅炎龍の背に乗って、優雅に滑空してゆく。
鳥の背に生えた丈夫な毛は、俺たちの足や腰にしっかりと絡みついていて、とても安定した空の旅を提供してくれていた。
俺の先祖のことが明らかになって、俺は暗く深い闇の底に落ち込みかけたけど、みんなが声をかけてくれたおかげで踏みとどまれたと思う。
仲間ってのは、本当にいいものだな。
「グレースの世界は、空が白いんだよな。二人のおかげで、少しは雪雲も晴れて、青空が見えたんだろうか」
「二人のおかげ? 俺たちのおかげ、でしょ。オリヴァンがいなかったら、できなかったことなのよ。ザミスがいなかったり、リールフェンがいなくても、できなかった」
そう言って、グレースは手を伸ばし、俺の手を優しく握った。
「グレース……」
「オリヴァン、私がついているわ」
しかし、微笑みとともに、そう言ってもらえた矢先だった。
「――おっと乱気流が」
闇の紅炎龍は、突如としてバランスを崩した。急降下したのだ。
それだけではない。なんと、俺に絡みついていた龍の背中の毛が、ほどけていくではないか。
宙に浮く身体。掴もうとしたところに龍の毛はない。俺を龍の背にとどめているのは、グレースの左腕だけだった。
前方からタマサの背中が近付いてきて、衝突。受け止めたところで、グレースの細腕にかかる負担が倍増した。
「くぅ」
悲鳴にも似た裏返った声に、心がずきりと痛む。
ザミスとリールフェンは、グレースの手を掴もうか迷った一瞬の間に置いていかれて、遥か後方で落下を続けている。ザミスがリールフェンを捕まえて、上に乗ることに成功したが、それで何かが解決したとは思えない。
気を抜いていた。
魔神である闇の紅炎龍が運ぶんだから、事故なんてありえないと思い込んでいた。
色んな試練を乗り越えたんだという自覚が、気を緩ませた。
それはグレースだって変わらないはずだ。でも、グレースだけが怪鳥の背中の毛に絡めとられたままで、しかも俺とタマサを繋ぎとめてさえいる。
タマサは俺に抱えられながら、
「離しなよオリヴァン! 腕が千切れっちまうよ!」
グレースの顔が歪む。ひどい重みを味わっているんだ。
俺は、グレースと離れたくないと思った。グレースが苦しむのを見たくないとも思った。迷ったけれども、手を離すことを選択した。
けれども、グレースの手は伸びてきて、反対の手も使って、離れかけた手をしっかり掴んだ。俺たちを助けようとしている。
両手を使ったところで状況が好転するかといえば、そんなことはない。グレースの身体能力を遥かに超えた負荷がかかり続けている。
天は、乗り越えられない困難を人に与えないみたいな言葉があるらしい。でも、この状況は、どう考えたって無理だ。
「いやよオリヴァン」
苦し気な声がした。
「グレース?」
「手を離せって言うんでしょう? 離さないわ。こんな高さから落ちたら……。ううん、ちがうわね。私……離れたくない」
その言葉が聞けただけで十分なのかもしれない。
本当は受け入れたくない。俺は誰よりもグレースと一緒にいたい。何でこんなことに。
そんなことを考えている暇はない。決断しなければ。
突然の別れだけれど、覚悟を決めなくてはならない。
こんなところで一生の別れになる気はないけど、絶望するような顔が、最後に見せる顔であっていいはずがないと思う。だから俺は、頑張って笑顔でいようとした。きっと、悲しげな笑顔になってしまったと思うけれど。
「グレース! 必ずまた!」
そうしたらグレースも、覚悟を決めて、ぎこちない笑いで応えてくれた。
「ええ、かならず、私の世界のみんなを連れて、会いに行くから!」
手が離れる。
俺たちは落下し続けていく。
グレースを乗せた魔神の快鳥が、高く高く飛び上がり、どんどん見えなくなっていった。
かわりに、緑の多い地上が目に飛び込んできた。
★
俺たちは空中遊泳の末に着地した。
タマサの華麗な風魔法で、俺たちは一箇所に集められ、見事にザイデンシュトラーゼン城近くの草原にふわりと降り立つことができた。
タマサは空を見上げながら不満を込めて、
「明らかに、わざとだよ」
と吐き捨てた。
降ろされた場所が、俺やタマサの故郷、マリーノーツの真上だった。しかも降り立つのに都合の良い、誰もいない安全な場所。これは偶然とは思えない。ということは、闇の紅炎龍が、故意にグレースだけを連れ去ったということになる。
天は乗り越えられる試練を与えてくるという言葉を耳にしたことがあるけれども、魔神は乗り越えられない試練も与えてくるというわけなのだろうか。魔神は、俺たちに協力するふりをして、やはり魔神らしく俺たちを陥れようとしているとでも言うのだろうか。
そうではないと信じたいけれど、疑わしく思えてくる。
考えたくはないが、グレースを元の世界に連れていくふりをして、魔界に閉じ込められてしまうことだってあり得る。悪質な連れ去りでないという保証は、どこにもない。
「なあタマサ、信用していいのかな、あの化け鳥を」
「するしかないだろうよ。さっきも言ったけどもさ、たぶん、グレースが本当に一人で乗り越えなくちゃいけないことが、まだあるってことだろ」
「滅びから人々を救う役目ってことか」
「まあそうだな。世界全体が救われたとしても、グレースの世界の崩壊が近いってのは変わらないんだ。ただ、魔神はその解決をグレース一人にやらせたがってる」
「なんでだ」
「さあね、魔神の考えることなんて、わっちに理解できるかよ。もしかしたら、未来が見えたりしたんじゃないのか? オリヴァンが過去を垣間見ることができるようにさ」
「そうなのかな……」
「仲間はいいもんかもしれない。色んな能力を持った人がいて、色んな視点で物事を見られるようになる。それは、間違いなく、わっちらの強さだ。人もエルフも獣人も、一人で生きてるわけじゃない。でも、最初から周りをアテにして生きたら、そりゃ魔神から見てもクソ弱くみえるって感じだろ」
「だからって、またグレース一人に全てを押し付けるのか。今度はリールフェンもいない世界で、向かい風が逆巻く世界で、たった一人で、荷物も持ち帰らずに……」
「そりゃそうさ。人間は、いつか一人で自分の世界を変えていけるようにならなきゃいけないんだよ」
「タマサ、なんかすげえ説教くさいな。おばあちゃんみたいだ」
「あ? なんだい、一人じゃ歩けもしないガキが。世界を救った炎で焼き尽くしてやろうか?」
「いや……ごめん。ちょっと八つ当たりしたかもしれない」
「ああ……まぁ、わっちも、今のはおとなげなかったよ……。とにかくさ、これは、グレースだけじゃなくて、わっちらにとっても試練なんだよ。大切なグレースを失って、それでも大通りを踏みしめて歩み出せるかっていうね」
ふと少し離れた丘の上を見ると、無事に着地したザミスとリールフェンが空を見上げていた。グレースとの別れを受け容れがたくて呆然としているのだろうか。それとも、いつかのグレースのように、見慣れない新鮮な景色に感動しているのだろうか。
その横顔からは、しかし、寂しげなものではなく、応援し激励するような、前向きな祈りが見て取れた。
俺はザミスたちと同じく、鳥が飛び立った方を見上げて、願いを込める。
「グレース、どうか元気で」